川柳の「絶望名言」後編

絶望名言

放送日:2023/12/25

#絶望名言

主に風刺やユーモアを詠む川柳をどうして「絶望名言」で取り上げようと思ったのか。喜劇王・チャップリンや落語と同じく、人間の失意、苦悩、絶望をあえて笑いに変えて表現するのが川柳だから、と頭木弘樹さんはおっしゃいます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

入れ墨がしなびるまで一緒

母の名は親仁(おやぢ)の腕にしなびて居(ゐ)

『柳多留』第一巻 岩波文庫

――これは最初ご紹介いただいたときに、私、わからなかったんですが、どういう意味なんですか?

頭木:
これも説明がないとわからないですよね。昔は、好きな人の名前を入れ墨したりしたんですね。相手の名前に「命」ってつけて。たとえば、相手の女性の名前がお駒さんなら「駒命」と入れ墨したわけですね。入れ墨は消えませんから、命が尽きるまでずっと愛し続けるという愛情の証しですね。

――んん……、お父さんの腕にお母さんの名の入れ墨があるというのは、若いころにお父さんとお母さんが好きで好きでしようがなくなって愛し合って、名前を腕に入れ墨したということなんですね。

頭木:
そういうことですね。

――「しなびて居(ゐ)」とありますから、もうお父さんはかなり高齢なわけですね。お母さんもそうでしょう。入れ墨を入れるほど深く愛し合った二人も年をとってしまった、というかなしみを描いているということなんでしょうかね。

頭木:
まあ、そういうふうにもとれますね。ただ、一方でこれはほほえましい川柳でもあるんじゃないかなとも思っています。入れ墨するほど激しく愛していてもやっぱり気が変わってしまったり、そうでなくても結ばれないことはあるわけですよね。昔は銭湯なんかにいくと、そういう「○○命」という入れ墨が塗りつぶしてある、消してあるおじいさんとかが結構いたそうです。
それに比べると、この「親仁(おやぢ)」と「母」はちゃんと結婚しているわけですよね。しなびるまでずっと一緒に暮らしているわけです。この川柳は子どもの視点ですから、子どももいるわけですね。これはすごく幸せな情景とも言えるんじゃないでしょうか。

――ああ、そういうことですね。「しなびて居(ゐ)」というのは、若いときのハリがある肌ではなくて、年をとって皮膚がたるんできますから名前もたるんできちゃったという(笑)。しなびてきた、ってそういう意味なんですね。だからかえって幸せな情景と言えなくもない、と。

頭木:
親の恋愛ってあんまり想像つきませんよね。しなびた腕に母親の名前があるのをどういう気持ちで見ているのか。うれしいような、不思議なような、複雑な気持ちかも。

――そうですねえ。

【絶望音楽】ウルフルズ「借金大王」

頭木:
今回は、ウルフルズの「借金大王」です。

――ほう。「借金大王」、すごい名前ですねえ。

頭木:
ええ。今回の冒頭でも「大晦日(おほみそか)首でも取つてくる気なり」とか「大晦日首でよければやる気なり」という川柳をご紹介しましたが、川柳に描かれる人たちって、なんかこう、悲惨な中にも生きる力に満ちているんですよね。生命力というか、サバイバル力というか。そういうものに、私なんか病人で弱っていますからすごく憧れるんです。
この「借金大王」に出てくる人も、友達に借金をしまくって、他にもいろいろなよくないことをして逃げたりするんですね。でも、どこか憎めないと。おもしろさもあると。そういうところがすごく川柳と通じるんじゃないかな、と思って選びました。

――これがすごく川柳とも通じるんじゃないか、ということで、ウルフルズの「借金大王」です。

♫「借金大王」 ウルフルズ

――年末の朝なんかに、大きな声で「貸した金返せ」というふうに言われたらドキッとする人がいるかもしれませんね。

頭木:
こういう人がいたら困りますけれど、やっぱり憎めないところもあるんでしょうねえ。

――そうなんでしょうねえ。

赤ん坊の面倒、ひとりで見るのは大変なので

女湯へおきたおきたと抱いてくる

『柳多留』第一巻 岩波文庫

――んん、なんとなくわかるような気もしますけれども、これはどういう意味ですか?

頭木:
この「おきたおきた」というのは、赤ん坊が目を覚ましちゃったわけですね。
赤ん坊が眠った隙にお母さんが銭湯へ行ったところ、その留守中に赤ん坊が目をさまして、泣き出したかなにかしたんでしょうね。父親ではどうすることもできなくて、赤ん坊を抱いて、お母さんの入っている女湯までやってきて「おきたおきた」と言うと。

――子どもの面倒ぐらい少しは見なさいよ、って言いたくなりますよね(笑)。でも当時の男たちにとって、子育てはなかなか難しかったんでしょうね。

頭木:
こういう、子育ての川柳もありますしね。今でこそ育児をする男性も増えましたが、昔は少なかったわけですよね。
ただ、昔はおじいちゃん・おばあちゃんと同居していたり、近所の人が手伝ってくれたりというのがありましたが、今は核家族が多いですし、近所の人に頼むというのも難しいですからね。
お母さんやお父さんがひとりで赤ん坊の世話をしているところに訪ねて行ったことがあるんですが、見ていて大変そうでした。赤ん坊がハイハイして、なんでも口に入れたりするようになっているとなかなか目が離せないですよね。でも、トイレにも行きたくなるし、お風呂も入らなきゃいけないですし。そんなとき「ちょっと見ててね」と手代わりを頼める人が誰かいるとなんでもないことなんですが、そうじゃないと、トイレに行く数分間でも赤ちゃんをひとりきりにして目を離すことになるんで、これは本当に困ってしまいますよね。ああ、トイレもお風呂も難しいんだな、子育てってひとりだとこんなに大変なものなんだ、と思いました。
川野さんもお子さんがいらっしゃいますが、子育てはいかがでしたか? 協力されました?

――協力はしたつもりですけれども……、「足りない」というふうに思っていたみたいですね(笑)。私も人のことは言えませんね。
子育てについても、いろいろ川柳があるんですね。

頭木:
そうですね。

――なるほどねえ。川柳を訪ねてみると、昔のいろいろな面が分かりますねえ。

居候、そっと出すか、出さば出る気か

居候三杯目にはそっと出し

『桂米朝集成』第三巻 岩波書店

――頭木さん、これは有名な川柳で、よく聞きますよね。

頭木:
そうですね。落語などにもよく出てきますから、耳にしたことのある人も多いかもしれません。
居候というのは、今はする人もさせる人もすごく減ったとは思いますが、それでも親戚の家に世話になっているとか、そういう人はまだまだ多いのではないでしょうか。私にも経験があります。居候というのは肩身の狭いもので、これは経験しないとわからないところなんですが、まあ、切ないですね。

――つまり「居候三杯目にはそっと出し」というのは、居候なのでご飯のお代わりを何度もするのは気が引ける、気兼ねがある、ということですよね。

頭木:
とはいえ3杯も食べようというんですから、なかなか肝が太いですけどね。

――はっはっは(笑)。そういうふうにもとれますか、なるほど。

頭木:
こういう川柳もあるんですよ。

居候出さば出る気で五杯喰い

「出ていけ」と言われたら出ていく覚悟で、5杯食べると。

――あ、そういうことですか。出さば出る気で五杯喰い、なるほど。

頭木:
まあ、豪快ですよね。

――住む所がなくてお世話になっているわけですが、住む所と食事というのは、なんといっても不自由すると大変ですよね。つらいですよね。

頭木:
そうですよね。やっぱり食べないというわけにはいかないし、人間どこかで寝ないといけないわけで、住む所というのはどうしても必要ですよね。だから居候の場合は、追い出されては大変、なんて思いますよね。
こんな句もあります。

居候嵐に屋根を這いまわり

世話になっているから、台風などのときに屋根に上って、いろいろ飛ばないように危ない作業もしなきゃならない。嵐に屋根をはい回り、となると居候も悲惨ですね。

――雨風が吹いてきて、屋根をはい回っているんですか? 大変ですねえ。うーん。

しじみ売りvs.病気で黄だんになっている人

しじみうり黄色なつらへ高く売り

『古川柳おちぼひろい』田辺聖子 講談社文庫

――これはどういう意味なんですか?

頭木:
「黄色なつら」というのは“黄だん”なんですね。全身が黄色くなるという、肝臓とか胆道、すい臓の病気に見られる症状です。黄だんにはしじみが効くと昔から言われていたんです。それで、しじみを買おうとするお客の顔を見て、黄色いんで、これは病気の治療のために買うんだな、と。だったら少しくらい高く言っても買うだろう、と。それで「しじみうり黄色なつらへ高く売り」ということになるわけですね。

――そうか、黄色い顔になっている……。そのしじみ売りというのはずいぶん商売にたけていますね。病気の人に高く売ると。そこまでやるんですね。

頭木:
ひどいと言えばひどいんですけれども、しじみ売りというのもなかなか大変な商売なんですよ。河口で、川と海の接するあたりでしじみを取ってくるわけですが、冬の朝早くなんかは冷たくてたまりませんよね。それでいてそんなにもうかる商売ではないですから。
ただ、川で取れるので商売の元手がいらないんですよ。それで貧しい人がしじみ売りをすることが多かったようです。仕入れのお金がいりませんからね。ですから、しじみ売りのほうも生活が大変なわけですよ。少しでもよけいに稼ごうと必死なわけです。それでつい病人の足元も見てしまうと。

――うん、納得(笑)。少しでも高く買ってもらいたいと思う気持ちですねえ。

頭木:
ですから貧しいしじみ売りと、病気になって黄だんになってしまっている人との駆け引きという、これも本当は笑えるような状況ではないわけです。でも、そこを笑う生命力、生き抜く力が川柳の持ち味ですね。

――うーん、なるほど。なんとなく読んでしまうような川柳にも、奧の深さが感じられますよね。

過去を捨てて、未来だけでは生きづらい

越しかたを思ふ涙は耳に入り

『江戸川柳辞典』浜田義一郎編 東京堂出版

――これは頭木さん、どういう意味ですか?

頭木:
「こしかた」というのは過去、これまでの過ぎ去った人生のあれこれのことですね。涙が耳に入る、というのですから、これはあおむけに寝ているんだと思います。あおむけに寝て、これまでの人生のいろいろなことを思い出して、涙が出てきて、それが流れて耳に入ると。
それ以上の説明はなくて、何を思い出しているかもわからないんですけれど、なんだかこれ、私はすごく好きなんですよね。

――そういうふうに説明されると、なるほど、自分なんかにも経験があるかな、とちらっと思ったりしますね。

頭木:
私はずっと病気で寝ていたんで。ベッドに。その状態で泣くと確かに涙が耳に入りますよ。

――ああ、上を向いて泣くと涙が耳に入る、ということですね。

頭木:
そうですね。耳にというか、耳たぶにというか。

――昔のことを、過去のことをいろいろ思い出すと涙が出るという人もいるでしょうね。

頭木:
いろいろな涙があると思います。懐かしかったり、後悔で苦しかったり、腹が立って悔しかったり。
よく、年をとると涙もろくなると言いますけれど、それはそうですよね。思い出す過去が増えるわけですから。自分の部屋の中のものを見ただけだって、二十歳の人なら20年分の思い出ですけれど、80歳の人なら80年分の思い出ですから、4倍泣いてもおかしくないわけですよねえ。

――その涙の中身にもよりますね。うれし涙、悲しい涙、悔悟の涙、いろいろあるでしょう。

頭木:
部屋なんかを片づけるときも、若い人は捨てやすいですが、年齢を重ねるほど、本当は捨てにくいはずですよね。捨てたほうがこれから暮らしやすくなるのは確かだとしても、やっぱり人間は過去と未来でできていますから、過去を捨てて、未来だけでは生きづらいですね。

――うーん、なるほど。捨てられないものもたくさんある。難しいものだということが言えますね。

頭木:
そうですね。

――では、番組も終わりに近づいてきましたが、最後にご紹介する川柳についてお話しください。

頭木:
はい。最後は、なんだか情景がすごく浮かんでくるような、笑えるんですがちょっときれいな、切ないような川柳をご紹介したいと思います。
雨宿りというのは今もまあありますが、昔は軒下とかに雨宿りして、それが人と人の出会いになったりしたんですよね。
雨が降りだして、傘を持っていなくて、こりゃいけないというので雨宿りして、雨がやむか、せめて小降りになってから出ようと待っていたら、それどころかどんどん雨足が強くなってきて、本降りになってきたと。結局待ちきれなくなって、その中に飛び出して行くしかなくて、だったらさっき降りだしたときにそのまま行ってしまえばよかった、と。そういう経験って、皆さん一度はあると思います。
そんな情景を描いた川柳で、なんということはないのですが、なんとなく、いいです。

――では、その川柳を味わっていただいて、おしまいとすることにいたしましょう。
今回も頭木さん、どうもありがとうございました。

頭木:
ありがとうございました。

本降りになって出てゆく雨やどり


【放送】
2023/12/25 「ラジオ深夜便」


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