石川啄木の「絶望名言」後編

23/12/02まで

絶望名言

放送日:2023/10/23

#絶望名言#短歌

啄木は花鳥風月を歌うのではなく、庶民の実生活を詠む歌人でした。また数々の挫折や病気を経験し、自分を憐れみ、それらを歌にしました。頭木弘樹さんは「幸福とは、不安がないことだ」というカフカの言葉を引用し、啄木の人生の大変さをおもんぱかります。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

【絶望音楽】サザンオールスターズ「Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)」

頭木:
今回は、サザンオールスターズの「Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)」です。

――サザンオールスターズ。おお? と思いますね。

頭木:
今、石川啄木の歌のノスタルジーの話をして、「ふるさとに帰れなくなった人ほど、ふるさとが恋しいのかもしれません」と言いましたけれど、過去っていうのはそもそも戻れないわけですよね。時間をさかのぼることはできませんから。あの頃が懐かしいけれど、もう戻れない、と。これがやっぱりノスタルジーの基本だと思うんですよね。
それを見事に描いているのがこの曲だと思うんです。

――では、お聴きいただきましょう。

♪「Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)」 サザンオールスターズ

――いい曲ですねえ……。

頭木:
私は病気になる前の過去に戻りたくてしかたないので、この曲を聴くと本当に切なくなります。

――分かりますね。サザンオールスターズはつい最近、大聴衆を集めてコンサートを開いたでしょう。私は足が悪くて行けないから、あとで「サザン、永遠に」というふうに心の内で祈って、それで満足しましたけれど。

頭木:
ああ、そんなにお好きでしたか。

――ええ。まあ、元気なときに戻りたいというのは確かにありますよね。

短歌は、挫折した自分を慰めるためのもの

当てはまらぬ、無用な鍵!
それだ!
どこへ持って行っても予のうまく当てはまる穴がみつからない!

石川啄木『ローマ字日記』明治四十二年[1909]5月8日土曜日──13日木曜日(『石川啄木全集:日記2 第6巻』 筑摩書房)

――これは短歌ではなく、日記ですね。ローマ字で書かれた『ローマ字日記』の一節、ということです。

頭木:
この言葉は痛切ですよね。どこに行ってもうまくあてはまらない、と。自分もそうだ! と共感する人もおられるかもしれません。本当に、自分にぴったり合った居場所とか仕事とか、そういうものを見つけられた人は幸せですよね。

――石川啄木といえば歌人という感じがぴったりする、歌人という鍵穴にぴったり当てはまっている感じがしますが、そうはいかないんですか?

頭木:
当人は小説家になりたかったんですね。でも、うまくいかなかったんです。『食(くら)うべき詩』という文章でこう書いています。

私は小説を書きたかつた。否、書くつもりであつた。又実際書いても見た。さうして遂に書けなかつた。

石川啄木『弓町より 食(くら)ふべき詩』 青空文庫

頭木:
詩集も出していて、『あこがれ』というタイトルなんですが、酷評する人もいて、啄木は詩を書くのをしばらくやめてしまいます。

――小説も詩もうまくいかなかった?

頭木:
そうなんです。啄木は、なんとなく自分は偉くなれるんじゃないかと思っていたんですね、最初は。
こういう歌を詠んでいます。

何(なに)となく自分をえらい人のやうに
思ひてゐたりき。
子供なりしかな。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

頭木:
でも、現実はなかなか厳しかったわけですね。
それで、こういう歌も詠んでいます。

こころざし得ぬ人人の
あつまりて酒のむ場所が
我が家なりしかな

公園の隅(すみ)のベンチに
二度ばかり見かけし男
このごろ見えず

石川啄木『一握の砂』 青空文庫

頭木:
挫折を経験したということも、啄木の短歌にとってとても大きなことだと思います。人生が順調だったらこういう歌は詠めないですから。
『食(くら)ふべき詩』にこういう一節があるんです。

ふと、今迄笑つてゐたやうな事柄が、すべて、急に、笑ふ事が出来なくなつたやうな心持になつた。

石川啄木『弓町より 食(くら)ふべき詩』 青空文庫

頭木:
痛切ですよね、これもね。こういう気持ちを知っている人というのは信頼できると思いますよね。

――そうですね。自身の短歌については、石川啄木はどう思っていたんですか。

頭木:
それは『歌のいろ/\』という文章で、こういうふうに書いています。

歌は私の悲しい玩具(おもちゃ)である。

石川啄木『歌のいろ/\』 青空文庫

頭木:
啄木にとって歌は、それで成功するためのものというより、挫折した自分を慰めるためのものだったのかもしれませんね。

――短歌で名を成しているんだから小説や詩なんてあきらめればいいのに、というふうにはいかないんですね。

頭木:
短歌を認められたのは後の方ですね。まず小説を書こうとしたり、詩を書こうとしたりしたんです。

『石川はふびんな奴だ。』

『石川はふびんな奴だ。』
ときにかう自分で言ひて、
かなしみてみる。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

――歌集『悲しき玩具』の中の短歌です。

頭木:
これ、すごいですよね。初めて読んだとき、びっくりしました。「自己憐憫(れんびん)はよくない」というのが一般的な認識じゃないですか。それなのに『石川はふびんな奴だ。』と自分で言ってかなしむというんだから、これはもう自己憐憫の極みですよね。

――いいんですか、そんなことで(笑)。

頭木:
私はすごく感動しました。私も自分を「かわいそうなやつだ」と言いたいんですよね。病人はよく「私はかわいそうではない」と否定しますが、あれは私には無理なんです。なんてかわいそうなやつなんだと自己憐憫にひたりたいんです。でもそれはよくないことだと言われるから、いつもぐっとこらえていたわけですよね。そうしたら石川啄木がこんなにストレートな短歌を詠んでいたという。やっぱり衝撃でしたね。
それから、山田太一の『ナイフの行方』というテレビドラマがあるんですが、その中で、泣き言を言う青年に初老の男性がこう言うんです。
「憐(あわ)れむな。自分を憐れむ奴(やつ)を見たくない」
そうすると、青年がこう返事をするんです。
「自分を憐れむとやっと生きてられるときもあるんですよ」

山田太一『ナイフの行方』 KADOKAWA/角川マガジンズ

これも感動しましたね。確かにそういうときがあるよなあ、と。
あと、ギッシングという作家もこういうふうに言っています。

自分を憐れむという贅沢(ぜいたく)がなければ、人生なんていうものは堪えられない場合がかなりあると私は思う。

ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』平井正穂訳 岩波文庫

「自分を憐れむという贅沢」っていい言葉ですよね。せめてそういう贅沢はしたいですね。

――ええ。

短歌だから描ける「人をにくめる」

 病みてあれば心も弱るらむ!
さまざまの
泣きたきことが胸にあつまる。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

――頭木さん、これも『悲しき玩具』の中の短歌ですね。

頭木:
はい。『悲しき玩具』は石川啄木が亡くなった後に出た歌集で、病気の短歌が多いんですね。それで、病気の歌ばかりで単調だと言う人もいるんです。でもですね、病人の私なんかが読むと、単調どころか本当にすばらしいんですよ。よくまあ、ここまで病人の心を見事に詠んでいるなあと。
それで、そういう短歌を時間の許す限り、できるだけたくさんご紹介したいと思います。

ドア推(お)してひと足出(あしで)れば、
病人の目にはてもなき
長廊下(らうか)かな。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

頭木:
病気をすると、健康なときにはなんでもない距離でも本当に長く感じられるんですよね。それがよく表れているなあ、と。

話しかけて返事のなきに
よく見れば、
泣いてゐたりき、隣の患者。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

頭木:
これも、入院中の6人部屋などではよくある光景ですね。

病院の窓によりつつ、
いろいろの人の
元気に歩くを眺む。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

頭木:
これも、入院したことのある人ならみんな思い当たると思うんですよ。ずっと部屋にいますから窓ってとても大事で、外を見るとたくさんの人が元気に歩いているんですね。で、自分は病室にいると。最初はそれがすごくつらいですし、長くなってくると、道行く人たちよ、みんなずっと元気で幸せに、と思うようになったりしますね。

氷嚢(ひょうのう)の下より
まなこ光らせて、
 寝られぬ夜は人をにくめる。

石川啄木『悲しき玩具』 青空文庫

頭木:
これ、すごいですよね。「人をにくめる」んですからね。こういう気持ちは、短歌だから、文学だから描けるんですね。実際に口にしたら大変なことになりますから。
病人というのはどうしても世の中や人を憎んでしまうときがありますが、それを口に出したら人が離れていって、ひとりでは生きていけない病人としては困ってしまいますから、必死で隠します。そういう、口に出せない気持ちを思い切り描いてくれるのが文学のすばらしさですよね。まさにこれだ! と思うことで救われるところはありますよね。

――そうですね。
では、おしまいにご紹介する、石川啄木の絶望名言をご説明ください。

頭木:
はい。最後も『ローマ字日記』の一節をお聴きいただきたいと思います。先にも言いましたように、石川啄木というと、ひどい人というイメージがかなり広まっていますが、なんでひどい人と分かっているかというと、啄木自身がこの『ローマ字日記』の中で、自分のひどい行いやひどい気持ちをものすごく赤裸々に書いているからなんですね。ローマ字で日記を書いたのは妻に読ませたくないからだ、と啄木は書いていますし、自分が死んだらローマ字日記は焼くように友達に遺言もしているんですね。でも、一方で妻はローマ字を読めたといわれていますし、いずれにしても『ローマ字日記』は、普通はとても書けないほど人間の心の奥底まで赤裸々に描いてある文学作品として読むことができると思います。
ドナルド・キーンはこう言っています。

「おそらく啄木は、自分がすでに散文の傑作『ローマ字日記』を書いていることに気づいていなかった」

ドナルド・キーン『石川啄木』角地幸男訳 新潮文庫

その『ローマ字日記』の一節を最後にお聴きいただきます。これは「安心」について語っている箇所なんです。

――はい。

頭木:
またカフカの話をしますが、カフカに「幸福とは、不安がないことだ」という言葉があるんですよ。最初は意味が分からなかったんですね。不安がないだけじゃニュートラルな状態で、幸福とは言えないじゃないかと思ったんです。でも不安をたくさん経験すると、不安がないだけでものすごく幸福なんですね。なるほど、こういうことかとよく分かりました。全然、分かりたくなかったですけれどね。

――(笑)。うーん。

頭木:
石川啄木もカフカと同じようなことを書いているんですよ。だから、やっぱり石川啄木も大変だったんだなあ、とすごく思いました。
その言葉を、最後にお聴きいただきたいと思います。

――今回もありがとうございました。

頭木:
ありがとうございました。

予の求めているものは何だろう?
名?でもない。
事業?でもない。
恋?でもない。
知識?でもない。
そんなら金?金もそうだ。しかしそれは目的ではなくて手段だ。
予の心の底から求めているものは安心だ、きっとそうだ!

予はただ安心をしたいのだ!
――こう、今夜初めて気がついた。
そうだ、全くそうだ。それに違いない!
ああ!安心――何の不安もないという心持は、
どんな味のするものだったろう!
長いこと――物心ついて以来、予はそれを忘れてきた。

石川啄木『ローマ字日記』明治四十二年[1909]4月10日土曜日(『石川啄木全集:日記2 第6巻』 筑摩書房)


【放送】
2023/10/23 「ラジオ深夜便」


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