種田山頭火の「絶望名言」後編

23/06/30まで

絶望名言

放送日:2023/05/29

#絶望名言#俳句#文学

種田山頭火のストレートな句の表現を知ったとき、頭木弘樹さんは衝撃を受けたといいます。しかしそれは、「ふだんの生活でそうできない人だったからではないか」。人の怒りやさびしさをわがことのように感じられるのは、「現実ではなく、芸術の中だけなのかもしれません」。(聞き手・川野一宇アナウンサー)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

泣きたい時に、笑う生活・泣く芸術

泣きたい時に笑い、笑いたい時に泣くのが私の生活だ。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑うのが私の芸術である。

山頭火『砕けた瓦(或る男の手帳から)』 青空文庫

頭木:
おもしろい言葉ですよね。「泣きたい時に笑い、笑いたい時に泣く」というふうに、実際の感情とは逆に振る舞っているのが私の「生活」で、「泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う」という素直なほうが私の「芸術」なんですよね。

――逆なような感じもします。

頭木:
そうですよね。普通は芸術のほうがこっているというか、素直ではない感じがしますよね。

――山頭火の俳句というのは、ストレートで素直な感じがしますね。

頭木:
私も山頭火の俳句を知ったときにまず驚いたのは、「さみしい」とか、もろに言っているでしょ。そのことにすごくびっくりしました。普通は景色とか情景とかを詠んで、それでさびしさを感じさせたりするわけじゃないですか。それが「まつすぐな道でさみしい」とか、ずばり感情を言葉にしているんですよね。こんなにストレートでいいんだと衝撃でした。

――ところが実際の山頭火はそんなにストレートで素直なわけでなく、「泣きたい時に笑い、笑いたい時に泣く」ということをしたわけですね。だから芸術では、「泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う」と。

頭木:
私、この言葉を読んでハッとしたんですけど、たとえば映画とかドラマで、登場人物が悲しいことがあって泣いたとしますよね。すると見ているほうも感情移入して、いっしょに泣いたりしますよね。でもあれって、現実だとなかなか難しくないですか? 目の前で誰かが泣いていたとして、その気持ちに共感していっしょに泣くこともあるかもしれませんが、むしろ目の前で泣かれて「困ったな」とか、「なんとかなぐさめなきゃ」とか思うことのほうが多いんじゃないでしょうか。

人の涙とか怒りとかさびしさとか不安というようなものを、本当に自分のことのようにしていっしょに感じることができるのは、芸術作品の中だけなのかもしれません。

――芸術であるからこそ、素直に感情を表現できる、受け止めることができる、とも言えそうですね。

頭木:
山頭火の俳句については、感傷的というようなことが言われることもあるんです。「さみしい」とかもろに言ってしまうからだと思うんですけど、そういうところこそ、山頭火が目指していたものかもしれないですよね。ふだんの生活の中では、そうできない人であったからこそ。

――そう考えると、山頭火の俳句がより味わい深く感じられます。

めでたい死を遂げたいのである

わたしひとりの音させてゐる

咳がやまない背中をたたく手がない

雨だれの音も年とつた

山頭火『草木塔』 青空文庫

頭木:
ひとりで旅をしていると、やっぱりさびしいと思うんです。旅先でひとりで病気をしたら、困りますよね。それからだんだん年をとっていくわけで、老いというのもひとりで旅をしていると困ることですよね。そういうわけで、さびしさと、病気と、老いがテーマになっている俳句をひとつずつ選んでみました。

――この3つは、そういうことなんですね。

頭木:
あと、「音」をテーマにしているものを選んでみました。山頭火は、情景だけでなく音を詠むのがとてもうまい人だと思うんです。「わたしひとりの音させてゐる」は、ひとりぼっちであることを見事に表現していますよね。自分ひとりだと自分のたてる音しかしませんから。

――その音が自分のせきだと、よけいつらいですね。

頭木:
そうなんですよね。「咳がやまない背中をたたく手がない」、これはもう、すごく切実です。

――山頭火も旅の途中で病気をしたときは困ったでしょうね。

頭木:
何度か困っているようです。ただ、基本的にすごく健康で丈夫な人だったんです。たとえば自分でこんなふうに言っています。

「あまり健康だつたから、健康といふことを忘れてしまつてゐた」(『行乞記』2 青空文庫)、「頑健、あまりに頑健な、持てあます頑健!」「私は私の健康を呪ふ、私はあまりに健康だ」(『一草庵日記』青空文庫)。

うらやましいですよね、ほんと。嘆くほど健康だったわけですから。やっぱりそうでないと、旅なんかできないですよ。

――そういう健康な人でも、やっぱり年はとっていくわけですね。

頭木:
「雨だれの音も年とつた」は、雨だれの音が年をとるわけはないんですけど、なんとなく、わかりますよね。

――私もこの句は「そうだよなあ」と思いました。山頭火は自分の最後を、どんなふうにとらえていたんでしょう。

頭木:
それについてはこんなふうに書いています。

私の念願は二つ。ただ二つある。ほんとうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。――私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。

山頭火『述懐』 青空文庫

頭木:
そういうふうに望んでいたわけですが、どうやら実際に脳いっ血(脳出血)で「ころり往生」したようです。夜の10時にはまだ元気で、夜中の2時過ぎにはもう亡くなっていたそうです。57歳でした。とても健康だったわけですがなにしろお酒をたくさん飲んでいたので、それで長く生きられなかったようです。とはいえ、いちおう当人の望みどおりの亡くなり方ですよね。

――本人としては満足のいく人生だったんでしょうか。たくさんの旅をして、そういう生活に憧れる人も多いと思いますが。

頭木:
憧れますよね。当時も山頭火に相談した人がいたそうです。「私も放浪生活を送りたいです」って。それに対して山頭火はこう答えたそうです。

流浪はいけません、私としてはたうてい賛成することが出来ません、その心持は解りすぎるほど解るだけに。

山頭火(村上護著『種田山頭火:うしろすがたのしぐれてゆくか』 ミネルヴァ書房)

頭木:
泣かんばかりにして必死に止めたそうです。流浪の生活は、人にすすめられるものではなかったんですね。山頭火自身も、どこかに落ち着きたいという気持ちもあったんですよね。旅をすると落ち着きたくなり、落ち着くと旅をしたくなる。そういう繰り返しだったんでしょう。

――山頭火は、自分の人生をどう思っていたのか。何か手がかりはありますか。

頭木:
それについては、私がとってもいいなあと思う山頭火の言葉があるんです。

ほんたうでない、といつて、うそでもない生活、それが私の現在だ。

山頭火『旅日記』 青空文庫

頭木:
これ、すばらしいと思うんです。山頭火のような破天荒な暮らしをした人って、平凡に生きている人たちを下に見がちじゃないですか。「同じところに毎日通っているだけの生活なんて、うそっぱちだ。オレたちのような生き方こそが本当なんだ」というようなことを言いがちですよね。山頭火はそうは言わないわけです。自分の生活が本当とは言えないし、かといって一生懸命には生きているわけで、うそということでもない、と。

山頭火に限らず、ほとんどの人の生活はそうかもしれませんよね。たいていの人が、本当でもない、うそでもない生活を、送っているんじゃないでしょうか。

――最後にご紹介する山頭火の絶望名言は、どういうものでしょうか。

頭木:
最後にもう一度、皆さんに山頭火の代表的な俳句を読んでいただければと思います。

分け入つても分け入つても青い山

まつすぐな道でさみしい

どうしようもないわたしが歩いてゐる

うしろすがたのしぐれてゆくか

山頭火『草木塔』 青空文庫

――頭木さん、今回もありがとうございました。

頭木:
ありがとうございました。


【放送】
2023/05/29 「ラジオ深夜便」


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