遠藤周作の「絶望名言」前編

23/06/11まで

絶望名言

放送日:2023/04/24

#絶望名言#文学

古今東西の文学作品の中から、絶望に寄り添う言葉を紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。文学紹介者の頭木弘樹さんが、遠藤周作の言葉を読み解きます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

恥もいっぱい。ダメを楽しむ

夜中に布団を引っかぶっていると、
昨日、今日のあるいは過去の自分のやった恥ずかしいことが
一つ一つ突然心に甦って、
居てもたってもいられなくなり、
「アアッ、アーッ。アアッ」
思わず、大声をたてているのです。
何だ、そんなことか、と思われる人は気の強い奴。
気の弱い奴なら、この夜の経験は必ずあるはずだ。
それがないような奴は、友として語るに足りぬ。

(遠藤周作『ぐうたら人間学 狐狸庵閑話』講談社文庫より)

――今回は、遠藤周作です。遠藤周作は小説家で、代表作には『海と毒薬』『沈黙』『深い河』などがあります。ことし、生誕100年なんですね。

頭木: そうなんですね。1923年3月27日の生まれです。

――1923年、大正12年というと、関東大震災の年です。

頭木: そうですね。関東大震災からも100年なんですね。同じ年の生まれの作家には他に、司馬遼太郎、池波正太郎、佐藤愛子などがいらっしゃいます。佐藤愛子さんは、今もご活躍中ですよね。

――遠藤周作は、純文学を書く一方で、ユーモアたっぷりのエッセーも書いていて、こちらも人気です。

頭木: 『狐狸庵閑話(こりあんかんわ)』というタイトルで、面白いエッセーを書いていますね。

――字も凝ってますよね。

頭木: 「狐狸」は、狐狸妖怪のきつね・たぬき、「庵」は、いおり、「閑話」というのは、むだばなしのことですね。

――きつね・たぬきのいおりのむだばなし。

頭木: これは、「こりゃあかんわ」というのを、もじってあるわけです。

――なるほど。うまいですね。

頭木: こういうエッセーを書くときは、遠藤周作は「狐狸庵山人」と名乗っていました。「山人」というのは山の人と書きますが、「風来山人」とか「魯山人」とか、雅号に添えて用いる言葉で、まあ「世捨て人」というようなことでしょうか。

――それで遠藤周作さんは「狐狸庵先生」とも呼ばれていたわけですね。

頭木: そうですね。私が最初に読んだのは、中学生のときだったんですけど、兄の本棚に『ぐうたら人間学 狐狸庵閑話』という文庫本があったんですよ。私は当時、本を読まないほうだったんですけど、これは気になりますよね。タイトルが「ぐうたら人間学」で、副題が「こりゃあかんわ」ですから。

――私もこのタイトルを見たとき、私にぴったりだと思いました(笑)。

頭木: 自分のダメさを、面白おかしく語るという感じのエッセーで、今は、そういうエッセーがたくさんありますが、元祖とも言えるんじゃないでしょうか。

――その本で頭木さんが出会われたのが、冒頭でご紹介した言葉ですね。改めてご紹介しましょう。

夜中に布団を引っかぶっていると、
昨日、今日のあるいは過去の自分のやった恥ずかしいことが
一つ一つ突然心に甦って、
居てもたってもいられなくなり、
「アアッ、アーッ。アアッ」
思わず、大声をたてているのです。
何だ、そんなことか、と思われる人は気の強い奴。
気の弱い奴なら、この夜の経験は必ずあるはずだ。
それがないような奴は、友として語るに足りぬ。

(遠藤周作『ぐうたら人間学 狐狸庵閑話』講談社文庫より)

頭木: いい言葉ですよね。中学生のときも感動しましたけど、今にいたるまで、ずっと大切な言葉です。私も、恥ずかしいことを思い出しては、声を上げていますから。

――頭木さんも、そういうふうに?

頭木: 私の場合は、布団の中よりも、なぜかお風呂に入っているときとか、トイレに入ったときが多いですね。ふと、過去の恥ずかしいことを思い出して、アアッとなります。

――叫び声を、発する?

頭木: くだらないことなんですよ。小学生のときに、つまらない冗談を言ってしまったとか、誰も覚えていないようなことを、なぜか思い出して、恥ずかしさのあまり、アーッと声が出てしまうことがあります。自分でもびっくりして、ごまかすために、そのまま、♬アア~と歌にしてしまうこともあります。

――苦労しましたねぇ(笑)。今はもう、ないでしょう?

頭木: いやいや、今もありますよ、ずっと。川野さんは、そういうことはありませんか?

――私はね……声には出さないです。私の声、わりに大きいですからね。響いてしまうといけないので、声には出さないんですけど、思い出すことはずいぶんあります。

頭木: そういうこと、おありなんですか!

――あります、あります。それで、汗をかいています。脂汗に冷や汗。

頭木: 声の代わりに、汗を出す?

――これなら、遠藤さんの友達になれるかな(笑)。

頭木: そうですね(笑)。狐狸庵先生は、ぐうたらでダメで弱い人間を、とても魅力的に書いてくれるんです。ぐうたらでダメな中学生としては、なんともありがたい本で、ぐうたらしながら、狐狸庵先生のエッセーを読むのは、楽しかったですね。今でも、お風呂やトイレでアーッと声を上げてしまったときは、狐狸庵先生が「友として語るに足る」と思ってくれるかなと思うと、ちょっと救われる気がしますね。

――遠藤周作さんというと、そういうイメージも、もちろんありますけれども、芥川賞をとった純文学の作家ですよね。自分のダメさかげんをこんなふうにさらけ出すのは、なかなか珍しいんじゃないですか。

頭木: そうだと思います。当時は珍しい存在だったと思いますし、ありがたいですよね。遠藤周作は、音痴の人しか入団できない合唱団を作ったりもしています。入団試験では、歌がうまいと「うますぎますね」と不合格になるという。

――そうなんですか(笑)。

頭木: 何を歌っているのか分からないほど音痴だと、大歓迎なんです。それは悪ふざけではなくて、「歌を歌いたいけど、音痴だから無理」となってしまうところを、「だったらもう、音痴だけでコーラス団を結成すればいいじゃないか」と、そういうふうに考えるわけですね。「ダメだから終わり」ではなくて、「ダメを楽しむ」と。

――遠藤さんらしい、という感じがします。でもね、そういう人が集まって声を出して、外にもれたりすると、周りの人が迷惑じゃないですか?

頭木: まあでも、自分たちで歌って、自分たちで楽しむのはいいですよね。ちょっと聞いてみたい気もします。

――だけど、そういう人たちの声を迷惑だと考えたりするのは、遠藤さんからすると、「友として、語るに足る人間ではない」と判断されそうですね。

頭木: 語るに足りない、ということですよね。

――はい(笑)。では、次の遠藤周作の絶望名言です。

「いや、俺はそれだけじゃないぞ」

時々、私はこんなことを想像することがある。いつか私が死に、お棺のまわりで通夜の友人たちが私についていろいろと語ったとする。あいつはイイ奴だったとかイヤな奴だったとか、たくさんのその人たちの眼を通した「私」が語られるが──それをじっと聴いている私はやっぱり棺のなかで呟く。
「いや、俺はそれだけじゃないぞ。それだけじゃないぞ」

(遠藤周作『春は馬車に乗って』文春文庫より)

――『春は馬車に乗って』というエッセー集の中の言葉です。

頭木: これはありますよね、「俺はそれだけじゃないぞ」という思い。例えば、何かの仕事をしていると、もう、それだけの人として見られるじゃないですか。先生なら先生、警察官なら警察官、アナウンサーならアナウンサー。私なら、病人として見られるわけですけど、「俺はそれだけじゃないぞ」と思いますよね、やっぱり。

沢木耕太郎さんに『世界は「使われなかった人生」であふれてる』という本があって、その中に、映画評論家の淀川長治さんが、本当は、学校の先生になりたかったという話が出てきて、とても驚きました。淀川長治さんといったら、映画評論家しかありえないように思えてしまうんですけど、実は、別にそういう思いもあったわけです。吉永小百合さんも、学校の先生になりたいと思っておられたそうですよ。

――野球の監督とか楽団の指揮者とか、いろいろありますよね。「使われなかった人生」、別の自分があるというふうに思うと、なんとなく救われる気もしますけれども。

頭木: 会社では会社員の顔をして、家ではお父さんとかお母さんとか子どもの顔をして、友達には友達の顔を見せて、私たちは日常生活でも、相手によって、いろいろな顔を見せて生きているわけですよね。それだって、すでにかなりの数です。

――遠藤周作さんが言っているように、周りの人たちの中に、いろいろな「私」がいる。そういうことになりますね。

頭木: そういういろいろな「私」がいても、なおまだ、「俺はそれだけじゃないぞ」という思いが、人間にはあるわけです。でも、自分をすべて出し切るというのは難しいですよね。ただ遠藤周作は、かなりそれをやっています。純文学を書くだけではなく、狐狸庵先生としてユーモアエッセーを書いて、人生のチャンネルをかえるみたいに、少なくとも2つの顔を使い分けているわけです。「俺はそれだけじゃないぞ」を、実践しているわけですね。なかなかできないですけど、これは見習いたいですよね。自分のいろいろな面、まだ発揮されていない面を、なるべく見せるようにしてみるという。

――ひつぎに入った自分を、もし見ることができるとしたら、「俺はそれだけじゃない!」と、言うかもしれませんね。

頭木: まだ発揮していない自分があるという思いや、誰にも見せていなかった自分がいる……いろいろな意味で、「俺はそれだけじゃないぞ」というのは、あるんでしょうね。

――では、次の遠藤周作の絶望名言です。

大病して実感。「自分は弱虫」

自分が弱虫であり、その弱さは芯の芯まで自分につきまとっているのだ、という事実を認めることから、他人を見、社会を見、文学を読み、人生を考えることができる。

(遠藤周作『お茶を飲みながら』集英社文庫より)

――『お茶を飲みながら』というエッセー集の中の言葉です。

頭木: これもすごい言葉です。ここまで「自分が弱虫だ」と言っている言葉は、珍しいんじゃないでしょうか。「自分は弱虫だ」って認めるのは、難しいことですよね。自分で自分をそう思うのも難しいですし、周囲から弱虫だと見られてしまうのも恐ろしいことです。いったん「弱虫」というレッテルを貼られてしまえば、それこそ、学校でも会社でも、居場所を失ってしまうかもしれません。むしろ、誰しも日々、自分の弱さやダメさを隠して、人にも自分にも、それがバレないように気を張って生きていると言ってもいいかもしれませんよね。

――そう思います。遠藤周作さんは「ダメさかげんを楽しんでいる」という話がありましたが、どうして、自分の弱さを認めてダメさを受け入れて、さらに楽しむ余裕というか、その境地にまで達することができたんでしょう。

頭木: 遠藤周作が、狐狸庵先生として面白いエッセーを書き出したのは、37歳のときに大病をして、3度も大手術をして、一時は心臓停止の危篤状態にまでなってからなんです。「こりゃあかんわ」と思ったのが、きっかけだったそうです。その後、遠藤周作は、ずっと病気と闘い続けることになります。10回入院して8回手術したそうですから、壮絶な闘病ですよね。

こういう経験をされたことが、やはり大きかったんじゃないかなと思います。自分も含めて、生きているものたちのダメさを、おおらかに、大きな生き物全体のダメさとして眺められるというか、そういうお気持ちになられたのかもしれませんね。

――つらい思いをなさったんでしょうけれども、でもやっぱり、精神が強かったんでしょうね。

頭木: いや逆に、弱さに気づいた、ということじゃないでしょうか。そこから、いろいろなことを眺められるようになったと。本当はダメさもあってこそ、生きているのは、より楽しいわけですよね。

――そうなんですけれども、なかなかそうは思えないじゃないですか、普通の人間は。

頭木: でも例えば、昔の友達を思い出すときとか、どうですか?

――そうですね……「あいつはすごいよね」と思うところと、「ダメなところがあるよね」というふうに思うのと、それで懐かしいなと思ったりすることはあります。

頭木: ありますよね。「あいつ、面白かったな」というとき、ダメさがいとおしいじゃないですか。それなのに、人はダメさを封印しようとして、どうしても必死にあがいてしまいがちなんですよね。そういうときに狐狸庵先生のエッセーを読むと、弱くてダメというのも楽しそうだなという気分になって、人生の味わいも、いっそう増すんじゃないかなと思います。

――人の弱さに共感できるということにも、つながるんでしょうね。

頭木: 自分が弱ければ、人の弱さにも共感できますし、親身になってあげやすいですよね。遠藤周作は、「心あたたかな医療」という運動も展開していたんです。ご自身が入院したりして、病人という弱い立場に立っていたからこそ、もっと心あたたかな医療が必要だということを思われたんじゃないでしょうか。

強さが必要なときはもちろんありますが、弱さもまた大切です。弱いからこそ、初めて見えてくることもあるわけですよね。遠藤周作が、「自分が弱虫であると認めることから、他人や社会や人生を考えることができる」と言っているのは、そういうことじゃないでしょうか。

【放送】
2023/04/24 ラジオ深夜便 絶望名言「遠藤周作」 頭木弘樹さん(文学紹介者)


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