ショパンの「絶望名言」前編

23/02/10まで

絶望名言

放送日:2022/12/26

#絶望名言#音楽#クラシック

古今東西の文学作品の中から、絶望に寄り添う言葉をご紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。文学紹介者の頭木弘樹さんが、ショパンが残した言葉を読み解きます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

小さい音。それが僕の弾き方なのだ

僕がかつて誰の役にも立たなかったことを
僕は承知している
——もっとも
あまり自分のためにも役立ったことはないんだ。

(原田光子訳『ショパンの手紙』古典教養文庫より 以下同)

僕の体を作る土からは
小猫のための小さな小屋くらいしか
できないだろう。


BGM
ショパン 「夜想曲(ノクターン)第2番 変ホ長調 作品9-2」

――今回はショパンですね。フレデリック・ショパンは、19世紀前半に活躍したポーランド出身の作曲家でピアニストです。主な作品のほとんどがピアノ曲で、「ピアノの詩人」とたたえられて世界的に親しまれています。代表的な曲には「英雄ポロネーズ」「小犬のワルツ」「舟歌」「葬送行進曲」「幻想曲」など多数あります。

頭木: 日本でもとても人気がありますよね。

――私も好きです。頭木さんは、ショパンとのつきあいはどうだったんですか。

頭木: 山田太一さんが新聞のインタビューで、こんなことをおっしゃっていたんです。ピアニストの仲道郁代さんからお聞きになった話ということですが、ショパンの本当の魅力は小さな音で、大きなホールでは、小さな音では聴こえなくなるから大きな音で演奏するしかないけれど、そうすると、それはすでにショパンの音ではないと。

――本当の魅力は、小さな音だということですね。

頭木: そうらしいんです。これを読んで、へえ、おもしろいなあと。人でも、小声の人って何か魅力があったりしますよね。ショパン自身も、小さい音がいいと言っているのかなあと思ってショパンの本を読んでみたら、確かに手紙にそう書いてあるんです。いくつかピックアップしてみます。

後ろの席の人々は僕が小さい音で弾き過ぎたとつぶやいていた。

僕があまりに柔かく弾く、むしろ繊細に弾き過ぎるとどこでも言われているようです。(中略)この点の非難がきっと新聞に出ることと思っています。(中略)しかしそんなことは一向にかまいません。(中略)僕にとって、喧しく弾き過ぎたと言われるより、むしろ好ましいのです。

彼は僕の弾いたピアノの音が弱過ぎると思ったのだが、それは僕の弾き方なのだ。

――ショパン自身も、小さい音が自分の音だというふうに言っているわけですね。

頭木: そうなんです。だからショパンは、大ホールで演奏するのは好きではなくて、あまりやっていません。サロンとか、もっと小さいところで弾くのが好きだったようですね。

――冒頭でかけた曲、ショパンの「ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2」も、静かな曲ですね。

頭木: ノクターンというのは夜想曲ですから、だいたい静かではあるんですが、繊細でとてもいいですよね。演奏がまたいいんです。サンソン・フランソワです。

――冒頭でご紹介したショパンの言葉を、改めてご紹介しましょう。

僕がかつて誰の役にも立たなかったことを
僕は承知している
——もっとも
あまり自分のためにも役立ったことはないんだ。


僕の体を作る土からは
小猫のための小さな小屋くらいしか
できないだろう。

――今回ご紹介するショパンの言葉は、すべて原田光子さんの翻訳によるものです。

頭木: これはどちらも友達への手紙の一節です。

――ずいぶん暗いことを言っていますね。あれほどの才能がありながら「誰の役にも立たなかった」とか、どうして言ってるんでしょう。

頭木: それをこれからご紹介していきたいと思います。

――お願いします。では、次のショパンの絶望名言です。

永久に我が家を忘れるために

僕は永久に我が家を忘れるために、
立ち去るだろうと思う。
死ぬために立ち去るだろうと思う。
それまで暮らしてきた以外の土地で死ぬのは、
どんなにかもの侘しいことだろう。
死の床の傍に家族の者の代わりに、
冷淡な医者や召使を眺めるのは
どんなに恐しいことだろう。


BGM
ショパン 「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11」

――ピアノと指揮はクリスティアン・ツィメルマン、演奏はポーランド祝祭管弦楽団でした。これはどういう曲でしょうか。

頭木: ショパンは20歳のときに故郷のポーランドを出て、オーストリアのウィーンに行く決心をするんです。その直前に行われたお別れの演奏会で、ショパン自身がピアノを弾いて、この曲が初演されたんです。

――ウィーンは「音楽の都」とも呼ばれますから、ショパンは音楽家として活躍するために、いわゆる巣立ちをしたわけですね。それにしては、「死ぬために立ち去るだろう」とか、ずいぶん悲観的です。夢に向かってぐんぐん進んでいく、そういうふうではないですね。

頭木: そうなんです。一つには、ショパンの性格があります。ショパンは、こういう大きい決断をするのは苦手だったようですね。家族への手紙にもこんなふうに書いています。

いつも僕がどんなに決断力がないか、皆さんはご存じでしょう。

頭木: ショパンは体も丈夫ではなかったんです。だからその不安も大きかったと思いますね。他の国に行って病気になるかもと思うと、これは不安ですよね。さらに当時は、ポーランドの情勢が不穏だったんです。

――当時のポーランドはロシアに支配されていたわけですね。

頭木: そうなんです。ロシアの弾圧に対して、ポーランドの人たちの不満がどんどんたまっていたわけです。ショパンがワルシャワを出発してウィーンに向かったのが1830年の11月2日ですが、同じ11月の29日に、「11月蜂起」と呼ばれている革命が、ついに起きるんですね。ポーランドの人たちが独立のために蜂起したわけです。その後も政治的な問題で、結局、自分で書いたこの言葉どおり、ショパンは一生、故郷に戻ることはできなかったんです。

――そのつもりになれば、故郷に戻るチャンスが全くなかったわけではないんでしょうけれど、どうしてなんですか。

頭木: ロシア皇帝に忠誠を誓う姿勢を示せば帰れなくもなかったんですが、ショパンとしては、それはできなかったんですね。ですからショパンの人生を語る上で大きなことの一つが、この「故郷喪失」ということなんです。亡くなった後に、心臓だけは姉の手によってポーランドに持ち帰られていますけどね。

――心臓だけが持ち帰られた……。当時のヨーロッパは、自由を求める革命と動乱の真っ最中だと言えますね。

頭木: そうですね。ショパンが生まれたのは、諸説あるんですが1810年3月1日とされていまして、フランス革命が終わって15年。2年後の1812年が、ナポレオンの「ロシア遠征」です。いわゆる「冬将軍」、ロシアの寒さと雪にナポレオンが負けた戦争で、大変な時期ですよね。日本は江戸時代の後期で、同じ年に国定忠治が生まれています。

――ショパンと国定忠治が同い年……人の選び方も、頭木さんは独特ですよね(笑)。それで、ウィーンに行ったショパンはどうなったんですか。

頭木: これが、うまくいかないんです。実はこの1年前に、ウィーンでコンサートを開いて成功していたんです。援助を申し出てくれる人もいて、それでウィーンに出てきたわけです。ところが1年の間に、当てにしていた人が病気になっていたり破産していたり、役職が変わっていたりしたんです。しかも、音楽の流行が変化していたんですね。ウィーンでは陽気に踊るワルツが大人気で、それはちょっとショパンの音楽とは違っていたわけです。さらにポーランドで革命が起きたことで、ポーランド人はウィーンで冷たくあしらわれるようになってしまうんですね。オーストリアは自分の国にも革命が波及するのを恐れて、ロシアを支持していたんです。

――国に戻れない中でウィーンでもうまくいかないのでは、ショパンは困りましたね。

頭木: 当てがあるから出てきたのに当てが外れるって、つらいですよね。しかも、さんざん迷ってようやく決心して出てきたわけですから、来なければよかったとショパンは後悔しています。これは当時のショパンの日記の言葉です。

外国に来てから今までに見たものは、すべてうとましく厭わしく思われ、我が家を、その値さえ知らなかった祝福された瞬間を、恋しく思いため息をつくばかりだ。あの頃偉大だと思われたものが、今は平凡で、平凡だと思っていたものが比類がなく、あまりに偉大で高過ぎる。

頭木: 当たり前に感じていたものというのは、失ってみると本当に大きく感じられますよね。ウィーンでうまくいかなくて、ショパンは生活費にも困るわけです。

――どうしたんでしょう。

頭木: またさんざん迷って、パリに行くことにするんです。そしてそれによってショパンの運命は大きく変わるんです。

――では、次のショパンの絶望名言です。

絶望をピアノに傾けることしかできない

この瞬間世界に幾つの新しい屍骸ができているだろう。
子等を失う母親達、母親を失う子供等
——死者への多くの悲嘆と多くの悦び!
悪しき屍骸と良き屍骸
——徳も悪も一つであり、
屍骸になれば姉妹である。


BGM
ショパン 「練習曲 作品10-12 《革命のエチュード》」

――これはまた凄絶(せいぜつ)な言葉ですね。

頭木: 「シュトゥットガルトの手記」と呼ばれるショパンの日記からですが、ウィーンからパリへ向かう途中のシュトゥットガルトで、ショパンはワルシャワがロシア軍の総攻撃で陥落したという悲しいニュースを聞くんです。革命は、1年ももたずに失敗に終わってしまったんですね。多くの市民が虐殺されたと聞いて、ショパンは激しいショックを受けるんです。

――「この瞬間世界に幾つの新しい屍骸ができているだろう」という言葉、胸を打ちますね。

頭木: 「徳も悪も一つであり、屍骸になれば姉妹である」という表現もすごいですよね。悪人も善人も、敵も味方も、死体になってしまえば同じだと。ほんとに、いい死体とか、よくない死体とか、そんなものはないわけです。死体を作ってはいけない、そういうことだと思うんです。同じ手記で、ショパンはこんなふうに書いています。

僕は時にただ唸り、苦悶し、絶望をピアノに傾けることしかできない。

頭木: そうして作曲されたのが、先ほどかけていただいた「革命のエチュード」です。

――「練習曲 作品10-12 《革命のエチュード》」、ピアノ演奏は辻井伸行さんでした。

未発表の作品はすべて破棄してほしい

――それではここで頭木さんに選んでいただいた「絶望音楽」をお聴きいただきましょう。数多いショパンの曲の中から、どれをお選びになりましたか。

頭木: 「幻想即興曲」を聴いていただこうと思います。

――なぜこれを選ばれたんですか。

頭木: この曲はショパンの曲の中でも特に人気が高いものですが、実は聴くことができなかったかもしれないんです。ショパンは亡くなるとき、未発表の作品はすべて破棄してほしいと遺言したんですね。この「幻想即興曲」は24歳の頃に作曲されたものですが、未発表だったんです。

――本来ならば破棄されるはずだった。それが、なぜ?

頭木: 友人のユリアン・フォンタナが、遺言にそむいて発表したんです。

――われわれにとっては、かえってありがたかったという感じがします。

頭木: ええ。私はよかったと思うんですよ。すごい名曲ですし、これが破棄されていたらと思うと残念すぎます。それに、このユリアン・フォンタナという友達は特別なんです。ショパンの楽譜の清書を、ショパンに頼まれてずっとやっていた人なんですね。ショパンの手紙の中でも、この人にあてたものはすごくくだけています。それだけ心を許していた相手ということじゃないでしょうか。だからショパンの音楽についても、ショパン自身についても、とてもよく知っていた人なんですね。その人の判断ですから、尊重すべきだと思うんです。むしろ、よく破棄しないでくれたと感謝すべきだなと思います。

――では、破棄されて聴くことができなかったかもしれない曲を、お聴きいただきましょう。ピアノ演奏は、アルトゥール・ルービンシュタインです。

♬ ショパン 「即興曲第4番 嬰ハ短調 作品66(遺作) 《幻想即興曲》」

頭木: 「幻想即興曲」は、実は2つのバージョンがあります。フォンタナが発表したフォンタナ版でずっと演奏されていたんですが、ルービンシュタインが1960年に、パリのオークションでショパンの自筆譜を見つけたんです。こちらはルービンシュタイン版と呼ばれています。フォンタナが元にしたのは1834年にショパンが書いた楽譜で、ルービンシュタインが見つけたのは、その翌年に書かれたものだそうです。つまり、ショパンがさらに修正を加えたものということですね。

――ショパンは、曲の修正をするタイプの方だったんでしょうか。さらさらっと天才的に書いて、「これでもうおしまい、完成」という感じもしますが。

頭木: そうですよね。実際、ショパンは即興演奏がとても得意だったそうです。でも曲を完成させるまでには、ものすごく推こうしたそうです。何度も何度も書き直して、ものすごく苦しむタイプだったようです。ショパンの曲というのは、即興的なのに緻密でもあり、端正なのにロマンもあり、キャッチーなのにハイレベルでもあり、普通はなかなか両立が難しいことを両立させている感じがしますね。それも推こうのたまものなのかもしれません。

【放送】
2022/12/26 ラジオ深夜便 絶望名言「ショパン」 頭木弘樹さん(文学紹介者)


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