中原中也の「絶望名言」後編

22/12/02まで

絶望名言

放送日:2022/10/24

#絶望名言#文学#歴史

古今東西の文学作品の中から、絶望に寄り添う言葉をご紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。今回は中原中也の作品に、頭木弘樹さんが絶望を読み解きます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

月夜の晩に、ボタンが一つ

「月夜の浜辺」

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛(ほう)れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?


(中原中也『在りし日の歌』青空文庫より)

――詩集『在りし日の歌』に収録されている「月夜の浜辺」という詩の全文です。

頭木: 先ほど川野さん、この詩がお好きだとおっしゃっていましたが、僕もすごく好きなんです。ボタンって、ないと困りますし、とっても役に立つものですよね。でも落ちてしまったボタンというのは、もう役に立たないわけです。浜辺にボタンがあっても、何にもならないですよね。ただのゴミで、拾ったとしても、ちゃんとゴミ箱に捨てましょうという感じだと思うんです。でもそのボタンに中原中也は、別の魅力を見つけるわけですね。役に立たない状態になっているからこそ、役に立つ・立たないではない、ボタンそのものの魅力に気づくわけです。それに気づいてしまったら、もうそれをゴミとして捨てることなんて、できないですよね。

人間も、役に立つか立たないかということで見られがちですよね。当人も、社会の役に立ちたい、人の役に立ちたいと願って、社会のほうでも、会社でも、役に立つ人を求めるわけです。もちろん役に立つのはすてきなことなんですけど、それだけで人を見ていると、じゃあ、役に立たない人、役に立たなくなった人は、価値がないのかということになってしまいますよね。それは実はずいぶん偏った見方で、おかしいと思うんです。人を見る基準がそこだけなんて、狭すぎますよね。

それを中原中也は、浜辺に落ちていたボタン、つまり、役に立つとか立たないとかいう価値観から自由になった状態にあるボタンを見て、強い魅力を感じるわけですよね。私も病人で、いわば落ちてしまったボタンなので、「どうしてそれが、捨てられようか?」と言ってもらえて、やっぱりうれしかったですね。

――そういうふうに感じる頭木さんの心もまた、敏感なんでしょうね。

頭木: まあ、これは一つの見方ですけどね。詩はいろんな味わい方がありますよね。

――「月夜」というのが、またいいですね。

頭木: そうなんですよね。これが真っ昼間の太陽の光の下だと、やはり別の見方がしづらいと思うんです。ギラギラ明るいときには、やはり活動的なもののほうが美しく見えますから。でも世の中には月夜もあるわけですよね。そこでは全く別の見方ができて、別の魅力が見えてくるわけです。月夜は薄暗くて幻想的で、落ち着いてものが考えられますからね。中原中也には、月が出てくる詩もいろいろあります。

実際こういう詩を読んだあとで、僕、宮古島ではよく海に行って、暮れかけや月夜にも行ったことがありますけど、ゴミが落ちてたりすることもあるわけですけど、それはまた全然違って見えてきますよね。それぞれが元の役割から引き離されて、月の光の中で輝いているわけです。また違う魅力があるなと思いますよね。実際に月夜の浜辺に行ってみてもらえると、実感できるのかなと思いますね。

不幸が人を磨く。本當だよ。

「生ひ立ちの歌」

    幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

(中原中也『山羊の歌』青空文庫より)

――詩集『山羊の歌』に収録されている「生ひ立ちの歌」という詩の、全二節のうちの第一節です。

頭木: 「汚れつちまつた悲しみに……」にもそうですけど、中原中也は雪の詩が多いんです。この詩では雪の降り方で自分の人生を表していますね。

――「真綿のやう」だった雪が、「霙」になって「霰」になって「雹」になり、「ひどい吹雪」になって、どんどん大変なことになっていきますね。

頭木: 中原中也は、自分の人生をそんなふうに感じていたということですね。二十歳の日記に中原中也は、こんなふうに書いているんです。

不幸が人を磨く。本當だよ。

(太田治子『中原中也詩集 100分 de 名著』NHK出版より)

頭木: 確かに、落第したから長谷川泰子とも出会いましたし、長谷川泰子が親友のもとに走ったことで、いい詩が書けたという面もあったと思います。ただ、人を磨くことになる不幸もありますけど、磨くどころか壊してしまう不幸もやっぱりありますよね。

――中原中也は最後に、「私の上に降る雪は/いとしめやかになりました……」と書いていますね。

頭木: 「二十四」の中原中也は、そうあってほしいと願っていたんでしょうね。実際、26歳で結婚して、文也という男の子が生まれるんです。中原中也は、この子をとってもかわいがるんですね。詩人とか小説家には、妻子をかえりみない、家庭人としては最低と言われるような人も多いわけですけれども、中原中也の場合はそうではなくて、とっても子煩悩なんです。29歳のときには、NHKに入社しようとして面接を受けたこともあるんです。

――そうなんですか!

頭木: 中原中也の唯一の就職活動ですね。でも、落ちてしまいます。

――入ってもらいたかったですねえ。こんなすてきな人が、どうして落ちてしまったんでしょう。

頭木: やっぱり履歴書がね(笑)。やる気が感じられなかったんじゃないでしょうか。でも、そうやって就職しようとしたのも、家庭を持って子どもができて、その子をかわいく思うからこそですよね。ところがその子どもの文也が、2歳で亡くなってしまうんです。

お葬式のときに中原中也は文也の遺体を抱いて、なかなかひつぎに入れさせなかったそうです。そしてその後、心を病んで、精神病院に入院することになります。退院したあとに、子どもとの思い出の多い家に住むのがつらくて、鎌倉に引っ越すんですね。さらに、ふるさとの山口県に戻ろうとするんです。でもその前に、病気で亡くなってしまいます。結核性脳膜炎とされてますけど、1937(昭和12)年10月22日のことで、まだ30歳でした。

どんな荒んだ社会にも猶小唄あり

――最後にご紹介する中原中也の絶望名言について、ご説明ください。

頭木: はい。「我が生活」という随筆の一節です。先ほども「我が生活」からの引用がありましたが、あれとは同じタイトルで別の文章です。詩人としての自分について書いたもので、実生活では生きづらくていやだったけど、しかたがなかったんだということを語っています。最後にお聴きください。

――頭木さん、今回もありがとうございました。

頭木: ありがとうございました。

私は常に夢みてゐる。(中略)夢をみようともみまいともしないで私は夢みてゐるのである。これは私が衣食住してゆくといふことの上には大いに不便なわけである、それは年来の経験でいやが応でも知つてゐる。さうして、不便が嬉しくはちつともない。然(しか)し人生には、どんな荒(すさ)んだ社会にも猶(なお)小唄があるやうに、詩人といふものは在るものなのである。その詩人なるものに、多分は生れついてゐる、否、それ以外ではツブシも利かないのが、私といふものだつたのである。

(中原中也「我が生活」青空文庫より)


【放送】
2022/10/24 ラジオ深夜便 絶望名言「中原中也」 頭木弘樹さん(文学紹介者)


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