中原中也の「絶望名言」前編

22/12/02まで

絶望名言

放送日:2022/10/24

#絶望名言#文学#歴史

古今東西の文学作品の中から、絶望に寄り添う言葉をご紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。今回は中原中也の作品に、頭木弘樹さんが絶望を読み解きます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

汚れつちまつた悲しみに

「汚れつちまつた悲しみに……」

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……


(中原中也『山羊の歌』青空文庫より)

――今回は中原中也です。昭和初期に活躍した詩人で、生前に刊行された詩集『山羊の歌』、没後に刊行された『在りし日の歌』という、2冊の詩集を残しています。また、アルチュール・ランボーの詩の翻訳もしています。今でもとても人気のある詩人ですね。

頭木: そうですね。生まれたのは1907(明治40)年で、あと5年で明治が終わるというときですね。同じ年の生まれの人には、ジョン・ウェイン、アメリカの西部劇で活躍した俳優さんですね。日本だと歌手の淡谷のり子さんも同じ年です。

――生まれは山口県ですね。頭木さんも山口県のご出身ですよね。

頭木: そうなんです。中原中也と同じ学校で、だから先生がよく「先輩に中原中也がいる」という話をしていました。

――何か学生時代のエピソードは残っているんですか。

頭木: 中原中也は山口市の湯田温泉というところで生まれ育っているんですが、学校を抜け出して温泉で遊んでいたとか、そんなことを先生がよく話していました。伝説なのか本当なのか、そのへんはよくわかりませんが、やっていそうではありますよね。かなりむちゃな人ですから。

――そうなんですか?

頭木: 中原中也という名前が私の印象に強く残ったのは、太宰治とのエピソードを聞いたときでした。以前に太宰治をご紹介したときに、檀一雄とのエピソードのお話をしましたよね。

――ありましたね。太宰治と檀一雄が、熱海でさんざん飲み食いをして遊んでお金が払えなくなってしまって、檀一雄を“人質”として宿に残して太宰治が東京にお金を借りに行くんですが、帰ってこないんですよね。しかたがないので、檀一雄が借金取りを連れて太宰を探しに行くと、作家の井伏鱒二の家で太宰はのんきに将棋なんかさしている。檀一雄が「あんまりじゃないか」と怒ると、太宰が「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」と言う、あのエピソードですね。

頭木: 非常に太宰治らしい話ですよね。檀一雄という人も「最後の無頼派」と呼ばれる作家で、ずいぶん人をひどい目にあわせてるんですけど、その檀一雄を、太宰治はさらにひどい目にあわせています。その太宰治をさらに上回るのが、中原中也なんですね。

――どんなことをしたんですか。

頭木: これも檀一雄が2冊の本に書いていることなんですが、飲み屋で中原中也が太宰治にからみ始めるんです。

 酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の搦(から)みになり、(中略)太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
「あい。そうかしら?」そんなふうに聞えてくる。
「何だ、おめえは。青鯖(さば)が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
(中略)今にも泣きだしそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」(中略)
「チエッ、だからおめえは」(中略)
そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか(中略)いつの間にか太宰の姿は見えなかった。

(檀一雄『小説 太宰治』P+D BOOKS小学館より)

頭木: ひどいですよね。別のときにも3人で飲んでいて、また中原中也が太宰治にからむんですね。

 太宰は中原から、同じように搦まれ(中略)逃げて帰った。(中略)中原は(中略)どうしても太宰のところまで行く、と云ってきかなかった。
 雪の夜だった。
(中略)
 家を叩いた。太宰は出て来ない。(中略)
「何だ、眠っている? 起せばいいじゃねえか」
 勝手に(中略)二階に上り込むのである。(中略)大声に喚いて、中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。
 あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。
(中略)その儘(まま)雪の道に引き摺(ず)りおろした。
「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。

(『小説 太宰治』より)

頭木: 中原中也を檀一雄が投げ飛ばすのが面白いですよね。3人の関係が、じゃんけんのようです。中原中也は太宰治をひどい目にあわせ、太宰治は檀一雄をひどい目にあわせ、檀一雄は中原中也をひどい目にあわせるという。このあと中原中也と檀一雄は、一緒に女性のいる店に遊びに行くんです。

三円を二円に値切り、二円を更に一円五十銭に値切って、宿泊した。
(中略)
 中原は一円五十銭を支払う段になって、又一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変らず嘯(うそぶ)くように、
 汚れちまった悲しみに(※出典ママ)
 今日も小雪の降りかかる
 と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。

(『小説 太宰治』より)

頭木: 中原中也、なかなか困った人ですよね。

――ここで、冒頭でご紹介した「汚れつちまつた悲しみに……」の詩が出てくるんですね。本当にこういうシーンで詠んだんですか?

頭木: みたいですね。面白いですよね。

――しかしこういう人であると、友達がだんだん離れていってしまうんじゃないですか。

頭木: そういう面もあったようです。いろんな友達ともめて絶交されたりしていますから。ただ一方で、とても魅力もあったみたいですね。小林秀雄は中原中也について、「初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた」と書いているそうです(大岡昇平『中原中也』講談社文芸文庫より)。

――中原中也の有名な写真がありますよね。正面を見て、詩人のランボーの姿をまねて銀座の写真館で撮ったそうですが、純真な感じがしますよね。

頭木: そうですね。こういうエピソードを聞いてから写真を見ると、「えっ、こんなにかわいい感じの人なの?」と驚きますよね。前回ご紹介した詩人の茨木のり子は、中原中也についてこんなふうに書いています。

残された詩や、たくさんの人たちが書いている思い出ばなしを読むと、つぎつぎに友人たちと絶交し、人にからみ、吠え、皆に敬遠されるというふうで、痛ましい青春の炸(さく)裂音が鳴っています。

(茨木のり子『詩のこころを読む』岩波ジュニア新書より)

頭木: この「痛ましい青春の炸裂音」という表現が、まさにぴったりな感じがしますね。

――その中原中也の絶望名言を、さらに聴いていきます。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

「サーカス」

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


(中原中也『山羊の歌』青空文庫より)

――詩集『山羊の歌』に収録されている「サーカス」という詩の一部分です。

頭木: 私が中原中也を読むようになったのは病院に入院しているときなんですけれども、きっかけはこの詩なんです。

――どこにひかれたんですか。

頭木: 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というところです。ブランコの揺れる様子を表しているわけですが、雰囲気が出ていますよね。

病気をしていると、例えば体のどこかが痛いときに、それをお医者さんに伝えないといけないですよね。それは結構、難しいんですよ、痛みにも種類があって。すり傷だとヒリヒリとか、頭痛だとキリキリとか、おなかがズーンと痛いとか、いろいろ定番の表現はあるんですけど、そういう定番ではない痛みを感じたときに、どう表現していいかわからなくて困るんですよね。

病院の6人部屋なんかでも、そういう相談をすることがありました。あるおじいさんが、「先生が、『ここがズキズキするんですね』と言うから、つい『そうです』って言ってしまうんだけど、本当はズキズキという感じとは違うんだよね」と言い出したことがあったんです。そういうのは診断にも関わりますから、ちゃんと先生に伝えたほうがいいよということになって、みんなで、どんな痛みなのか聞いたんです。ズーンとかシクシクとか、いろいろ言ってみるんですけど、おじいさんは、どれも違うと言うんです。よくよく聞いてみると、ズキズキというようなリズムのある感じではなくて、一定の持続する痛みなんだけど、ズーンというような重さもないと。それで結局、「スーンと痛い」と言ってみてはどうかということになったんです。

――スーン、ですか(笑)。

頭木: まあ、変なんですけど、変なことを言えば先生のほうでも、「それはどういう痛みなの?」と聞いてくれるかもしれないから、そうしたら詳しく説明できるという、そういうねらいもあったわけです。

――なるほど。それでうまく説明できたんですか。

頭木: それがですね……。いざ医師がやってきて「ここがズキズキ痛むんだよね」と言われたら、おじいさんが「そうなんです。ここがズキズキ痛むんです」と、また言っちゃったんですよ(笑)。

――そうなんですか(笑)。でも、何かわかるような気がしますよ。

頭木: 患者というのは医師に命を握られていますから、どうしても医師の機嫌をとってしまうところがあって、「こうですよね」と言われると、つい「そうなんです」と答えてしまうところがあるんですよね、悲しいことですけど。だから病院では、どうにか言葉で表現しようと、苦労することが多かったです。

これって、すごく文学的なことですよね。文学表現とか詩的表現って実生活とは何の関係もないように思われがちですけど、実際はそんなことは全然なくて、病気の痛みを医師に伝えるなんていうのは、それこそ命のかかった究極的に実用的なシーンですよね。そういうときに、詩人のような新しい言葉、新しい表現を作る文学的な力が、要求されてしまうんですよね。

――「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」、これはなかなか独特な表現ですよね。

頭木: 絶妙に表現しているなあ、と。だからすごく参考になるなと思いましたね。こういう新しい言葉を使っていいんだと。中原中也は、こういうオノマトペを作るのがうまいんですよね。例えば月の光を「ヌメラン」と表現したり、人が歩くのを「にょきにょき」と表現したり。面白いですよね。

私は「口惜しき人」であつた

私は苦しかつた。そして段々人嫌ひになつて行くのであつた。世界は次第に狭くなつて、やがては私を搾(し)め殺しさうだつた。だが私は生きたかつた。生きたかつた!

(中原中也「我が生活」青空文庫より)

――「我が生活」という随筆の一節です。

頭木: これは、失恋したときの思いを書いているんです。それも、自分と同棲(どうせい)していた女性が、別の男のところに行ってしまったんですね。しかもその男性というのは親友なんです。それでその親友というのが、小林秀雄なんです。

――批評家の小林秀雄ですか。

頭木: そうなんです。これは有名な事件なんですけど、そのお話をする前に、中原中也の生い立ちをちょっと簡単にご紹介しておきますね。

中原中也は、医者の家の長男として生まれ、裕福でかわいがられたんですね。しかも小学校のときは成績がよくて、神童というふうに呼ばれていたようです。山口中学校には12番の成績で入ります。ところが数か月後には80番まで成績が落ちて、翌年には120番まで下がります。これはもう最下位に近かったんですね。そしてついには落第してしまいます。お父さんはがっかりして、世間体を気にして往診に出かけるのも嫌がったそうです。それで中原中也は、16歳になる年に京都の中学校に転校するんですね。ひとりで下宿生活をするんです。その京都で、3歳年上の女優、長谷川泰子と出会って同棲するようになるんですね。

――中学で成績がどんどん下がった、その原因は何だったんですか。

頭木: 文学にのめり込んだということでしょうね。小学校のときに出会った教育実習生の人からいろいろ教わって、すごくはまっていったようです。

――16歳で同棲とはずいぶん早いですね。

頭木: はい。それで18歳になる少し前に、2人で東京に出ます。そして小林秀雄と知り合って、親しくなります。そして18歳のときに、小林秀雄のところに長谷川泰子が行ってしまうんですね。

――中原中也にとっては大変なショックだったでしょうね。

頭木: なかなか複雑な心境だったようで、出て行ってくれてうれしい気持ちもあったみたいです。でも猛烈に悲しい、くやしいという気持ちもあったようですね。人がいいというか、恋人が出ていくわけですけど、引っ越しの手伝いまでしているんです。割れ物を小林秀雄の家まで運んでやったりして。そしてこんなふうに書いています。

友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい――といふのは誰でも分る。しかし、立去つた女が、自分の知つてる男の所にゐるといふ方が、知らぬ所に行つたといふことよりよかつたと思ふ感情が、私にはあるのだつた。

(「我が生活」より)

頭木: そして、こんなふうにも言っています。

私はたゞもう口惜(くや)しかつた。私は「口惜しき人」であつた。

(「我が生活」より)

頭木: それでまあ、「段々人嫌ひになつて行く」ということになるんですね。「世界は次第に狭くなつて、やがては私を搾め殺しさうだつた」というのは、わかる気がする人も多いんじゃないかなと思います。人嫌いになって孤独になると、だんだんこんな気持ちになりますよね。そこで普通は「死にたい」と思うと思うんですけど、中原中也は、「だが私は生きたかつた。生きたかつた!」と言うんですよね。殺されそうになって「生きたい」と叫ぶというのは、私も病気になって同じ心境でしたから、とても共感しましたね。川野さんは、どういうきっかけで中原中也を読むようになられたんですか。

――声に出して読むといいというような本がありまして、その中に例として、中原中也の「月夜の浜辺」が出ていたんです。このあと、ご紹介いただきますけれども、ボタンが落ちていたというだけで詩になるんだと、ちょっと感激しましたね。それではここで、頭木さんに選んでいただいた「絶望音楽」をお聴きいただきましょう。今回はどういう音楽でしょうか。

頭木: 海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」という曲です。タイトルにもなっている「思えば遠くへ来たもんだ」というフレーズは、中原中也の詩がもとなんです。「頑是(がんぜ)ない歌」という詩なんですけど、「思えば遠く来たもんだ」というのが出だしです。

――「遠くへ」の「へ」はないんですね。

頭木: そうなんです。これは面白くてですね、まず、チューリップというグループが、「思えば遠くへ来たものだ」という曲を出して、それに刺激されて、武田鉄矢さんが「思えば遠くへ来たもんだ」を作詞されたようです。

♬ 海援隊 「思えば遠くへ来たもんだ」

頭木: 「今では女房子供持ち」というところも、中原中也の詩と同じですね。それ以外の歌詞はもちろん違いますけど、故郷を思っての歌というのは同じですね。中原中也の、「帰郷」という詩も有名ですよね。

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)ふ

(『山羊の歌』青空文庫より)

頭木: 「帰郷」の一節ですけれども、これもすごく心に残る言葉ですよね。

【放送】
2022/10/24 ラジオ深夜便 絶望名言「中原中也」 頭木弘樹さん(文学紹介者)


<中原中也の「絶望名言」後編>へ

この記事をシェアする

※別ウィンドウで開きます