【出演者】
松村邦洋さん
堀口茉純さん
川久保秀一さん


2024年2月4日(日)放送の<DJ日本史>、テーマは「名前の裏に、ドラマあり!」。人、一人一人に付けられた名前。そこには名付け親の特別な思いがこもっていただけでなく、時には、熱い願いがその人の運命を変えてしまったことだってありました。歴史上の偉人の名付け、その知られざる裏事情とは?

明治4年、政府による日本最初の女子留学生としてあの津田梅子らとアメリカに渡った山川捨松(やまかわすてまつ)。帰国後は女性の教育に力を注いだほか、明治政府が設けた「鹿鳴館」では海外からの外交官を相手に社交界で大活躍し、「鹿鳴館の花」とも呼ばれた人物です。

この山川捨松、もともとの名前は「咲子」と言いました。ところが、数え年12歳でアメリカ留学が決まるや、母親は「捨松」と改めさせます。そこには、母親の深い思いが込められていたのでした。


明治4年10月、当時は「咲子」という名前だった捨松に、兄の山川浩(やまかわひろし)が驚くことを知らせてきました。
1か月後、政府は西洋視察のため岩倉使節団を派遣する。その一行に、アメリカへ留学する女性たちを連れていくことになった。ついては、お前もアメリカに行ってこい。そう言うのです。
このアメリカ留学は旅費も学費も政府持ちで、小遣いまで支給。こう言うといいことずくめに聞こえますが、実は大きな問題がありました。

まず、留学は10年と長期間。女性は二十歳前で嫁入りしていたこの時代、そんなに長く留学すれば婚期を逃してしまいます。そして何より、アメリカは生活も習慣も全く異なる未知の国。応募への反応はほとんどありませんでした。

ではなぜ、兄の山川浩は妹を遠い異国へ留学させたのか? それには理由がありました。
兄の山川浩は、元は新政府軍と戦った会津藩の家老でした。会津藩は敗戦後、本州最北端の下北半島に移されますが、そこは米もろくにとれず冬は猛烈な寒さに襲われる地。会津藩士は塗炭の苦しみをなめさせられます。
こうした中、起死回生、進んだ学問を身につけて薩長の人々を見返す一手が、このアメリカ留学だったのです。実際、捨松ら5人の女子留学生のすべてが戊辰戦争の敗者、旧幕臣などの娘たちでした。

こうして決死の覚悟でまだ数え年12歳の娘を送り出すことになった山川家。最後までアメリカ留学に反対していた母親は別れ際、懐剣を渡してこう言いました
「お前とは、もう二度と会えぬかもしれない。私はお前を捨てたつもりでアメリカにやる。そして、帰ってくる日をずっと待っている」
つまり、『捨てたつもりで待つ』。こうして彼女は「捨松」という名前に改められ、アメリカに旅立っていったのでした。

DJ日本史「名前の裏に、ドラマあり!」②