坂本龍一監督からもらったもの 私たちがつなぐ思い
去年3月28日に亡くなった、音楽家の坂本龍一さん。まもなく1年がたとうとしています。
坂本さんには、その晩年まで情熱を注いだオーケストラがありました。
「東北ユースオーケストラ」
東日本大震災をきっかけに坂本さんが立ち上げた、被災地の子どもたちによる楽団です。
実はディレクターの私もその一期生の一人でした。
東北ユースオーケストラは今月、坂本“監督”の一周忌に合わせて追悼演奏会を開きます。
団員たちはどんな思いで楽団を続け、どんな思いで演奏会に臨もうとしているのか、取材しました。
(名古屋放送局 ディレクター 菊地 桃加)
坂本監督の追悼演奏会に向け始動した団員たち
私が東北ユースオーケストラの元を訪ねたのは去年7月2日。ちょうど今年度の活動がスタートする日です。
今年度の団員は、岩手・宮城・福島の3県出身の小学4年生から大学院生までの92人。毎年3月に開催する定期演奏会に向け、月に一度福島市に集まって練習します。
坂本監督が亡くなったのは、昨年度の演奏会(2023年3月26日)の2日後のこと。それ以来、初めて顔を合わせた団員たちは、いつもとは違う複雑な表情を浮かべていました。
練習前、坂本監督に黙とうをささげた団員たち。今年度の定期演奏会は、すべて坂本監督の曲で構成する“追悼演奏会”にすることを決めました。
早速始まった合奏練習。
追悼演奏会では、映画「戦場のメリークリスマス」や「ラストエンペラー」のテーマ曲から、1992年のバルセロナオリンピックのテーマ曲まで、数々の坂本監督の代表曲を演奏します。
その中でも特に団員たちが大切に奏でてきた曲があります。
「いま時間が傾いて」
2020年に坂本監督が東北ユースオーケストラのために書き下ろした楽曲で、東日本大震災の被災地への慰霊と祈りが込められています。
坂本監督がこの楽曲に取り入れたのが、ふだん使われることのない“8分の11拍子”。東日本大震災が発生した3月11日の“11”にこだわりました。
聞き慣れないリズムに団員たちは悪戦苦闘。
さらにこの楽曲には津波や被災地の情景が音楽で表現され、演奏者がみずから考えて演奏する“即興演奏のパート”も組み込まれています。ただ譜面どおりに弾けばいいのではなく、自身の思いや考えを音で表現しなければならないのです。
「私も生きていてよかったんだ・・・」 坂本監督に救われた三浦瑞穂さん
「いま時間が傾いて」をとりわけ強い思いで演奏する団員がいます。
大学4年生の三浦瑞穂さん、22歳。ことし大学を卒業し、追悼演奏会を最後に東北ユースオーケストラも卒団します。
三浦さんはパーカッションパートに所属。「いま時間が傾いて」ではチューブラベルという大きな鐘を演奏し、曲の最後に11回連続で鳴らす「11音の鐘」を担当します。最後は鐘の音だけが残り、その音が会場中に響き渡る、とても重要なパートです。
瑞穂さんは宮城県気仙沼市の出身。小学3年生のとき、地元で震災を経験しました。
自宅にいた瑞穂さんは、大きな揺れを感じて祖父母や妹弟と逃げようと外に出たとき、迫り来る津波を目の当たりにしました。
必死に逃げながら、遠くから家や車が流れてくる様子を見て「これは夢なんじゃないか」とほっぺたをつねったといいます。
瑞穂さんは現在、福島市で1人暮らしをしながら大学に通っています。
久しぶりにふるさと・気仙沼に帰ってきたこの日、いつも散歩するというお気に入りの海岸に連れて行ってくれました。
海を見ると「帰ってきた」という気持ちがするという瑞穂さん。震災直後に複雑な思いを抱えていたことを明かしてくれました。
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三浦瑞穂さん
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「私より未来がある子どもが命を落としていて、私はこの子たちより年上なのに助かってしまったみたいな思いがやっぱりあったんですよね。私は助かってよかったんだろうかって・・・」
瑞穂さんの自宅は津波の被害を免れ、家族も全員無事でした。しかし自宅の2軒先からはすべて津波で流され、幼い兄弟を亡くした友人や、大切な人を失って避難所で泣き崩れる人々の姿を目の当たりにしました。
「自分は生きていていいのか」
瑞穂さんは次第に自分の存在を責めるようになったといいます。
そんな思いを抱えながら、伯母に勧められて参加したのが「東北ユースオーケストラ」。
瑞穂さんは幼いころからピアノを習い、中学校でも吹奏楽部に所属していましたが、100人近い大人数のオーケストラで演奏するのは初めてでした。
これまでは“自分の音”に集中して、音を外さず完璧に演奏することが大事だと思ってきた瑞穂さん。坂本監督から直接かけられたある言葉をきっかけに、演奏に対する意識が変わっていったといいます。
「打楽器、周りの音を聴いて、グルーブ感を大切にするんだよ」
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三浦瑞穂さん
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「監督が『周りの音をよく聴くんだよ』『よく聴いて合わせるんだよ』っていうふうに言ってくださって。『そうだ、周りでもみんな演奏しているんだから、ちゃんと聴いて合わせなきゃいけないな』っていうふうに外に意識が開いて。いい音を鳴らさなきゃいけないっていう自分の音だけに、内に凝り固まった意識が外に開くアドバイスをいただけたのが、すごく今でも印象に残っていて」
坂本監督から“みんなと演奏する”ことの楽しさを教えてもらった瑞穂さん。次第に、オーケストラの中で「自分にも欠かせない役割がある」と思えるようになっていきました。
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三浦瑞穂さん
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「オーケストラの中で、この楽器の音がないと演奏は成立しないという経験をして。こんな大きな団体で、みんなうまいけど、私もいないとだめなんだっていうふうに感じたときに、私もまあちょっと重いっていうか大げさな言い方になりますけど『生きていてよかったんだな』っていうふうに感じたんですよね」
音楽を通して自分の存在意義を実感した瑞穂さん。
それまで自分の周りでは「震災の話はあえてしない」のが日常になっていましたが、初めて他人に震災体験を話すこともできました。
東北ユースオーケストラの運営事務局の大人に向かって話し始めたとき、それまで「自分の被災体験なんて、家族を亡くした人に比べたら大したことないからつらいなんて言えない」と蓋をしていた感情があふれ出し、震えが止まらなかったそうです。
話せたことでようやく「自分もつらかったんだ」と認めることができ、段々と自分の中で震災の記憶を整理することができたといいます。
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三浦瑞穂さん
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「本当に坂本監督が東北ユースを作ってくださらなかったら、貴重な演奏の機会とか出会った人とか、こういう震災の経験を整理することとか、そういうことは本当にできていなかったかもしれないので、本当に言い尽くせないほど感謝しかないかなと思います」
「一人一人の現実は違うから、それぞれが活躍できるように」 坂本監督の思い
瑞穂さんや子どもたちに大きな影響を与えてくれた坂本監督。なぜ、東北ユースオーケストラを結成しようと思ったのでしょうか。
坂本監督は言わずと知れた世界的な音楽家。1978年から「イエローマジックオーケストラ(通称YMO)」として活動し、“テクノポップ”で一世を風靡(ふうび)しただけでなく、数々の映画音楽を手がけ、「ラストエンペラー」では日本人で初めてアカデミー賞作曲賞を受賞しました。
坂本監督は音楽活動だけでなく、さまざまな社会問題にも強い関心を持ち、積極的に発信してきました。
そして東日本大震災の際、津波で流されて傷ついた多くの楽器があることを知りました。
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坂本龍一さん(東北ユースオーケストラ事務局長・田中宏和著「響け、希望の音~東北ユースオーケストラからつながる未来~」より)
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「特にいたたまれなかったのが、津波で流されたピアノや楽器の映像。楽器が被災して泥にまみれている現地の写真を見るたびに、とても心が痛んだ。音楽家だから、まるで自分の体が痛めつけられているようでつらいんだよね」
音楽を通した支援をしたいと考えた坂本監督は、被災して壊れた楽器を修復するプロジェクトを開始。寄付を募り、1億5728万円を集めました。
調査した被災地の学校は1800以上。そして、およそ2000の楽器を修理しました。
プロジェクトをきっかけに、東北の子どもたちと音楽を通して接する機会を得た坂本監督。そうして2015年に団員を公募し始めたのが「東北ユースオーケストラ」でした。
一期生の私の手元に残っている当時の団員募集のチラシには、こんなふうに目的が書かれています。
・音楽活動を通じて子ども達の成長を支援し、演奏活動によって被災地の「心の復興」をはかること
・演奏活動を通じて、日本全国および世界に対して東北の「震災の記憶と教訓」を伝えること
・世界に通用する音楽の育成・輩出をめざすこと
活動が始まると、坂本監督は練習に毎回顔を出すわけではありませんでしたが、演奏会の直前合宿には団員と共に参加。直接演奏の指導をしてくれるだけでなく、食事や休憩の時間も一緒に過ごし、まるで家族のように子どもたちと接してくれました。
高校生だった私も、一緒に自撮りをしてもらったり、アイスを食べながらお話をしたり、本当に貴重な思い出がたくさん残っています。
坂本監督はいつも「みんななら大丈夫、楽しんでやろう!」と笑顔で励まし、演奏前には全員をハイタッチで送り出してくれるなど、近い距離で接してくれました。
何より嬉しかったのは、目を見て指揮を振ってくれたこと。“一人一人を大切にしてくれている”と感じられた瞬間でした。
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坂本龍一さん(2017年インタビュー)
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「一人一人の現実ってもちろん違うわけで、実際に避難しなければいけなかった子どもいるし、友達を失った子どももいるけれども、同じ県に住んでいてもそれほど被害がなかった子どももいるし。そういう子も入っているんですね。でもみんながみんな悲劇の主人公というわけではない。
上から教えるんじゃなくてね、自分たちで考えてもらう。そういう刺激剤みたいな、そういうものを提供できれば」
さらに、坂本監督は東北ユースオーケストラのために作った「いま時間が傾いて」に対して、自身の著書でこんな言葉を残しています。
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坂本龍一著「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」より
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「オーケストラのメンバーそれぞれに見せ場があるように、各パートが活躍できる展開にもしようと工夫しました。曲を書いているときにも、演奏する子たちの顔が頭に浮かんでいたし、絶対にそうしたかったんです」
「被災したけど、家族を亡くした人に比べたら大したことない」
「大きな被害も受けていないのに、東北の名を背負ってこのオーケストラで活動していいのか・・・」
“被災地の子ども”として生きること、活動することに葛藤を抱く団員もいるなか、被害の大小にかかわらず、団員一人一人と向き合い、それぞれの個性を大切にしてくれた坂本監督。
部活動のような厳しい指導をするのではなく、子どもたちが好きなように自分らしく活動できる場を与えてくれました。
坂本監督を失った今、「東北ユースオーケストラ」を続けていく意味とは
8月26日、この日は2回目の練習日。団員たちが始めたのは、合奏練習ではなく“話し合い”でした。
自分たちを引っ張ってくれていた坂本監督もいないうえに、震災から13年がたとうとする今、震災をきっかけに生まれた東北ユースオーケストラは何を目標に掲げていくのか。
それまで団全体で共有できていなかった「東北ユースオーケストラを続けていく意味」を話し合う機会を作ったのです。
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菊地彩花さん
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「震災があってできたオーケストラだから、震災で実際に何が起こって、どれぐらいの人が亡くなったのかとか、今どれぐらいの人が見つかって見つからなくてっていう現状を知って、また伝えていくのが繰り返し行われていけば記憶は風化されないし、震災があった事実が忘れられることもないんじゃないかと思います」
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畠山茜さん
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「これからじゃあどこに伝えていくのかとか、どこに対して発信していくのかっていう、目の向け方というか視点というかっていうのを変えていくべきなんじゃないかと思う。坂本さんが何を感じてこのオーケストラに何を託してくれたのかっていうのも考えるべきだと思うから、監督の意志というかそういうのもみんなで考えていきながら活動していくべきなのかな」
東北ユースオーケストラに入り、『生きていてよかったんだ』と感じられるようになった三浦瑞穂さんです。
坂本監督が掲げた「震災の記憶と教訓を伝えるオーケストラ」という目的を話し合うなかで、自然と震災を経験した当時の話が持ち上がりました。
震災後に生まれたり、記憶がほとんどなかったりする若い団員も増えるなか、瑞穂さんが自身の経験を語り始めました。
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三浦瑞穂さん
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「地元のなかでは家族が亡くなった人がやっぱり多いんで。うちもでも何秒か違ったら妹と弟は全部津波が流された保育所にいたので、迎えに行った祖父母といなくなってたりとかっていうのを、たぶん寸で違ったらなっていたんじゃないかなっていうのはずっと家族で話しています」
実は、運営事務局の大人ではなく、団員たちに面と向かって自分の震災体験を話したのはこれが初めてでした。
「東北ユースだからこそ聞ける話だよね」と、団員たちは瑞穂さんの話に真剣に耳を傾けていました。
思い思いに、震災の話やオーケストラの目標について話し合った団員たち。
この日、何か新しい目標を打ち立てたわけではありませんでしたが、坂本監督という道しるべを失った今、その思いをつないで今度は自分たちの手で東北ユースオーケストラを続けていきたいと、互いの意志を確認し合えた大事な時間になりました。
瑞穂さんのもうひとつの目標 被災した自分のふるさとで演奏会を
3月の追悼演奏会を最後に卒団する瑞穂さん。実はもうひとつ、達成したい目標がありました。
震災を知らない団員たちと一緒に、被災した地元・気仙沼で演奏会を開くことです。
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三浦瑞穂さん
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「ユースにいても、当時生まれてなかったんだよねっていう子がだんだん増えてきたりして。やはり震災っていうのは東北ユースの理念にも関わってきているところだと思うので、私は津波を見ているので見ていない人には伝えたほうがいいのかもしれないなっていうふうに考えて」
2月4日、瑞穂さんは気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館で有志による演奏会を開きました。
ここは気仙沼向洋高校の旧校舎で、最上階の4階まで津波が押し寄せ、3階には流された車が突っ込んだまま保存されるなど震災遺構として公開されています。
瑞穂さんの呼びかけに応え、参加したのは18人。初めて気仙沼を訪れる団員がほとんどで、中には直接被災地に足を運ぶこと自体が初めての団員もいました。
瑞穂さんは演奏会の前日、団員たちとともに震災遺構や復興祈念公園などを巡り、地元の語り部の話を聞く機会も作りました。
そして開かれた演奏会。地元の学校やお店にも宣伝のチラシを配り、100人以上のお客さんが集まりました。
披露したのは「ラストエンペラー」や「Aqua」など坂本監督の楽曲を含む全6曲。有志演奏で被災地を訪れる際に必ず選曲する「ふるさと」も演奏しました。
体を揺らして音楽を楽しむ人もいれば、目をつむって音楽に浸る人も。多くのお客さんが東北ユースオーケストラの演奏に聴き入り、演奏会を楽しんでいました。
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三浦瑞穂さん
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「言葉を介さずとも人々に何かを伝えることができる。そこが音楽の良さだと思うので。ふるさとで『自分の人生にとって大きなきっかけとなった東北ユースオーケストラってこういうものなんだよ』っていうふうに紹介することができて、地元の人に演奏を聞いていただいて、すごくよかったよって言ってもらえたのはとても貴重な体験で、やってよかったなと思います。
そして東北ユースオーケストラにとっても改めて、学ぶ場があって、語り継いでいくこと・忘れないことの大切さを感じたので、3月の追悼演奏会でもそういう自分たちの思いをつないでいく場にできればいいなという思いでいます」
追悼演奏会は3月23日に岩手、24日に宮城、30日に福島、31日に東京で開かれます。
取材を通して
坂本監督の訃報を聞いたとき、真っ先に東北ユースオーケストラのことを思い出し、「これから東北ユースはどうなるんだろう…」と胸がざわざわしました。そして、東北ユースオーケストラが続いてほしい、お世話になった監督に恩返しがしたいという気持ちからも、「私にもできることはないだろうか」と勝手な使命感を感じて今回の取材をスタートさせました。
しかし、正直私は福島県出身とは言っても、大きな被害を受けたわけではないし、東北ユースオーケストラでも演奏が特別うまいわけでも中心にいたわけでもなく、そのうえ新型コロナによる演奏会の中止を機に辞めてしまっていたので、取材をしていくなかでも「自分なんかが取材していいのだろうか・・・」と葛藤を抱くことも少なくありませんでした。震災の被害の大きい・小さいや、演奏のうまい・下手をどうしても他人と比べてしまうし、久しぶりに団員たちと交流するなかで、瑞穂さんをはじめ私と同じような葛藤を抱えていた団員ももちろんたくさんいました。
しかし取材をすればするほど、坂本監督がいかに私たちを“そのままでいい”と励ましていてくれていたかが思い出されてきました。「みんながみんな悲劇の主人公じゃない」「うまい下手ではなく気持ちが大事」「みんななら大丈夫」といった坂本監督の言葉一つ一つに、本当に東北の子どもたちのことを気にかけてくれていたんだなと改めて実感しました。
そしてそんな坂本監督の愛をずっと受けてきた今の団員たちは、その意思を受け継いでいこうと、私が想像する以上にたくましく成長していました。それは「震災を忘れない、伝えていきたい」でもいいし、「新しく入ってくる子どもたちに監督のように優しく教えたい」でも「音楽の楽しさを伝えたい」でもいい。それぞれが坂本監督からもらったものを自分なりにどうにか形にしようと模索していました。
みんなから監督のエピソードを聞いたり、自分でも監督の姿を思い出したりしているうちに「私なんかが・・・」なんて思いながら取材していたら監督に「そんなことない!」と励まされているような気持ちになり、「私にしかできない取材がしたい」と前を向けるようになりました。恩返しをしたいと始めた取材でしたが、私自身がふるさと東北や震災、そして“東北ユースオーケストラ”という居場所に向き合う機会になったと思います。
そして、ことしの元日に発生した能登半島地震。福島県出身者としても、東北ユースオーケストラのことを取材しているディレクターの一人としても、東日本大震災と重ねずにはいられませんでした。それは東北ユースオーケストラの団員たちも同じでした。東北と北陸、遠く離れた地ではありますが、同じ震災を経験した一人として、何かできることや伝えられることがあるのではないかと思う気持ちに変わりはありません。被災直後でまだできることは少ないかもしれませんが、坂本監督が私たちに寄り添ってくれたように、今度はその思いを受け取った私たちが、被災地に寄り添い、何ができるのかこれからも考え続けていきたいと思います。