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ハテナ?のメール箱の回答。皆さんからお寄せいただいた“ハテナ?”のメール。番組では、代表的な質問や、多かった疑問を、講師の先生にお聞きしました。

第9回「徒然草」編 荻野文子さん回答!

Q

「武士の一分」という言葉がありますが、どういう意味なのでしょうか?

A 荻野文子さんからの回答。

武士の問題を考えるうえで、私は、「義」と並んで、「一分」という言葉で表現される倫理観をとても重要なものだと考えています。「義」とは、人として、武士として踏み行うべき道。つまり武士の道徳として論理的に要請される規範です。これに対して、「一分」とは何よりも、「この自分の気持ちがすまない」という個人の心の動き、やむにやまれぬ感情、面目といった、道徳的というよりもっと個人の心に即した内面的規範です。そして、この規範は、外部に対してはこの上なく強固な「名誉意識」として表われ、「一分立つためには、何が何でもやりとおす」という武士の行動を規定する原動力となるのです。そしてそれは、武士としての生き方に直結してきます。  ですから、赤穂浪士の行動も、「上野介を生かしていては自分の一分が立たない」という内面的規範・名誉意識によってなされたと言えます。主君浅野内匠頭に対する忠義も、服従の強制という論理的規範ではなく、それぞれの個人の名誉意識から生まれた結びつきと考えるのがよいと思うのです。 上野介を討って「一分」を通した以上、そしてそれが、すでに下した幕府の裁定を実力で覆すという大罪である以上、赤穂浪士の面々は、斬罪になることを当然覚悟していました。だから、幕閣が悩んだ末に「切腹」という寛大な処置を下したことは、彼らにとって掛け値なしにありがたいことでした。一分を貫いたうえに、名誉まで与えられたのだから、当然です。世論は、本懐をとげ従容として死につく彼らを惜しみました。

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Q

山本先生が「武士らしい武士」と思う人物はいますか?

A ロジャー・パルバースさんからの回答。

宝暦三年(一七五三)、幕府は薩摩藩に、木曽・長良・揖斐の三川分流工事の普請手伝いを命じました。暴れ川として知られる木曽水系治水を抜本的に解決しようという大工事です。その総責任者として、藩士を率いて現地に詰めたのが平田でした。 もともと難工事のうえ、期間中二度にわたって洪水が起きるなどで、薩摩藩の出費はかさむばかり、結局最終的には薩摩は四十万両近い工費をかけることになります。しかし、さらに問題だったのは、期間中、監督に当たっていた薩摩藩士から切腹する者が続出したことです。宝暦四年四月の二名、つづく三ヵ月で三十五名、さらに十四名と、連鎖反応のように切腹者が相次ぎ、工事終了までに、じつに五十一名もの切腹者を出しました。原因は、監視役の幕府役人との軋轢ではなかったかといわれています。  工事は宝暦五年(一七五五)三月末に終了し、五月には幕府目付・勘定吟味役による検分も終わり、目付牧野伊織は「いづれも出精故、御普請丈夫に出来致し、御見分も御滞りなく相済み、一段之儀」と、平田をねぎらいました。  そして翌日朝、宿舎で平田は自刃して果てます。今回の工費に関するいっさいの責任を負っての切腹でした。残念なことをしたものですが、しかしこのとき、平田に別の選択肢があったでしょうか。薩摩に帰れば、難工事を完遂した英雄になるかもしれない。逆に、予算超過や犠牲者続出の責任を問われる可能性もあるだろう。しかし、そんなことは自分のことだ。そもそも、あれだけの部下たちを死なせて、自分だけ国に帰っていいのか、帰る資格があるのか……こんなふうに思いをめぐらせ、そして、彼は自分のなすべきことを決断したのでしょう。すべてをおさめる唯一の手段は切腹だ――と。  切腹の前夜に認めた書状が残っています。自らのことにはまったくふれず、事実だけを淡々と書いているその書状には、感動を禁じえません。責任をとるということの静かなすごみがここにはあります。真に武士らしい武士とは、彼のような存在を言うのでしょう。

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