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名著、げすとこらむ。

島田雅彦
(しまだ・まさひこ)
作家、法政大学教授

プロフィール

1961年東京都生まれ。小説家、法政大学国際文化学部教授。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。主な著書に『優しいサヨクのための嬉遊曲』(新潮文庫)、『彼岸先生』(新潮文庫/泉鏡花文学賞)、『退廃姉妹』(文春文庫/伊藤整文学賞)、『虚人の星』(講談社文庫/毎日出版文化賞)、『君が異端だった頃』(集英社/読売文学賞)、『スノードロップ』(新潮社)など。ほかにエッセイ『オペラ・シンドローム 愛と死の饗宴』(NHK ブックス)、『漱石を書く』(岩波新書)などのほか、オペラ台本『忠臣蔵』『ジュニア・バタフライ』なども手がける。

◯『谷崎潤一郎スペシャル』 ゲスト講師 島田雅彦
欲望の深淵を覗きこむ

文学愛好家でなくとも、映画を通じ、谷崎潤一郎の世界に接触する機会はわりと多いように思います。谷崎作品は、同時代から現代に至るまで、その時代を代表する巨匠の手で繰り返し映像化されてきました。『春琴抄』や『細雪』はとくに人気が高く、田中絹代、京マチ子に始まり、山口百恵などの歴代のスターが春琴を演じ、また、岸惠子や吉永小百合などが四姉妹に扮しています。

映画はイメージやリアリティの画期的複製技術であり、それまで小説や演劇が担っていた表象芸術を根本的に変えたモダニズム最大の産物です。近代は実質、映画の発明から始まるといっても過言ではありません。谷崎は、さすがモダニズムの申し子だけあって、自作の映画化に熱心だった作家のひとりです。実際、映画会社の脚本部顧問を務めていたこともありました。谷崎と同時代人であっても、小説独自の言語イメージを損なう映像化には否定的だった作家と、文学のジャンルは他の新興の表現ジャンルに比べると地位が高いという自負を持ちつつも、映画の可能性におおいに関心を示した作家とに二分されますが、谷崎は歴然と後者の立場を取りました。後者のタイプの作家の作品の方が、いまもよく読まれている気がするのは偶然ではなく、「映画化を視野に入れつつ小説を書く」、同時に「映画にできないことを小説でやる」という確固とした戦略が作品の寿命を永らえさせたはずですし、映画は原作の宣伝装置にもなるとわかっていたのでしょう。
私は映像にも親しんではいましたが、文学青年のはしくれとして、谷崎のデビュー作である『刺青』から順に読破を試みました。永井荷風のお墨付きを得て明治末期にデビューを果たした谷崎は、当時のメインストリームである自然主義文学とは一線を画した耽美的な作風で評価を得ます。最初期は、のちに顕著となる西洋文化崇拝はあまり見られず、ごく日本的なモチーフを展開。やや停滞する大正期にも『痴人の愛』を発表、昭和初期に入ると、代表作の『吉野の葛』、『春琴抄』などを書き、晩年は「老人の性」を赤裸々に描く小説で、世間を騒がせました。

正直なところ、ティーンエイジャーだった私にとってそれらの作品は、刺激的ではあれど、距離を感じるものでした。たとえば、太宰治も芥川龍之介も三十代で早逝したので、ほとんどの作品が青春小説であり、それらには共感できた。いっぽう谷崎は、肌を刺されて悶える客の姿に愉悦する刺青師を描いた『刺青』にせよ、年若い女性を教育しながら、自らが隷属してしまう『痴人の愛』にせよ、息子の嫁に踏まれたいという老人の倒錯的欲求を描く『瘋癲老人日記』にせよ、「エロス全開」と評しましょうか、いい年をした男の懲りない欲望がだらしなく垂れ流される物語ばかりですから、健全な青年には「うざ苦し」かったのです。

その後、味覚が変わり、発酵食品の旨味に魅了される中年期に入ってから、それぞれの作品を読み直しますと、エロティシズムを性懲りもなく追求していくさまや、行儀のいい立ち居振る舞いの背後に隠された野蛮な本性をさらけ出していくさまに、あらためて魅了されたのです。しかも谷崎の深みにいちどハマると、本能に忠実になることの心地よさから抜け出せなくなります。この解放感は麻薬的なものではないかと思ったほどです。
「野蛮で不良」と、ごく良識的な同時代の読者からは眉根を顰められただろう谷崎潤一郎という作家が、これほどまでに長く愛され、日本の文学史上に燦然と名を刻むことのできた大きな理由は、その魅力的な毒性にあるように思います。彼は何を成し遂げたのかを一言でいえば、「色好み」という概念の普遍化、あるいは「変態性」の有効活用ということになるでしょう。

日本文学におけるレガシー(遺産)は何かと考えたとき、すぐに名が挙がるのが、紫式部が平安時代中期に書いたとされる『源氏物語』です。「色好み」の概念を確立した日本文学におけるグレイトワークであり、日本語の富が蓄積された決定的な作品です。ご存じのように日本最古の長編小説である『源氏物語』は、天皇の息子である「光源氏」が、宮廷におけるさまざまな恋のノウハウに従って、きわめて洗練された流儀で、数多くの女性たちと恋愛模様を繰り広げていく物語です。書かれた背景や動機には、当時の権力構造も少なからず影響しています。一説によると、藤原摂関家の実力者であった藤原道長は、一条天皇に嫁がせた娘の彰子が世継ぎを生すための方策として、才人の紫式部に『源氏物語』を書かせたのだとか。彰子が物語を喜んで読めば、身近な女官たちが興味を惹かれ、やがては帝の耳にも入るでしょう。すると彰子の覚えもめでたくなるはず。そうした道長の政治的な野心を紫式部は物語で後押ししたのでした。紫式部としても、天皇の世継ぎを産もうとする側室が多くいるなかで、自分がお仕えする中宮彰子が天皇の寵愛を受ければわが身も安泰だと思ったかもしれません。恋の駆け引きがそのまま宮廷政治に結実するような世界がここにあります。

中国で文学といえば、『三国志』や『史記』など、権謀術数の渦巻く政治文学が長らく主流でしたが、日本の文学は、女性の作家の手による、恋のさや当てが繰り広げられる情緒的な「色好み」の物語こそが「政治的」だったのです。

谷崎は、太平洋戦争中に『源氏物語』の現代語訳に没頭しました。現代語訳は各時代の文学の保守本流が挑んできた仕事であり、ほかに、与謝野晶子、円地文子、瀬戸内寂聴が手がけ、近年では角田光代の手による新訳も完結をみました。しかしそうした直接的に『源氏物語』とかかわる仕事とはべつに、近代における「色好み」の追求に全身全霊をかたむけ、ときに変態とみえる奇矯なふるまいの記録といえる諸作品を生み出したのが、谷崎潤一郎という作家なのです。

おそらく、谷崎は自身の性癖、性的嗜好を自覚しており、それを正当化するために古典との深いつながりを必要としたであろうし、西洋の性科学研究の著作の翻訳が進むなか、たとえば、クラフト=エビングの『変態性欲心理』などを読み、男女の標準的性行為を逸脱した性倒錯を積極的になぞりながら、異性愛主義と父権制に対し、確信犯的な挑戦をしたと評価できます。いわば、性的少数者(LGBTQ)への理解を拡大したパイオニアと位置付けることもできるでしょう。

二十代でデビューし七十九歳まで現役であり続けた長い文筆活動にあって、谷崎は作風を何度も変えています。谷崎全集を追えば、いくつもの顔が見えるでしょう。しかしまったく揺るぎなく首尾一貫したもの──それが、エロティシズムの追求というテーマです。『源氏物語』が体現する「色好み」の文化を自ら引き継ぎ、その末端に自分を接続しようとしていた。すべての彼の作品は、『源氏物語』のパロディであり、オマージュであり、「色好み」の二十世紀バージョンである──そう極言してもいいかもしれません。

もちろん谷崎は、いくつもの文学上の功績を残しています。近代文学の枠組みのなかに伝統としての口承文学(オーラルリテラチャー)を復活させたという点では先駆者といっていい存在でしたし、容易には越えがたい日本の東西文化の壁、江戸= 東京を中心とした東の文化と上方= 京阪神を中心とした西の文化との分断を、軽やかに越境してみせたのも興味深い実績です。

そうした特筆すべき側面もありながら、やはりいちばんの功績は、自分自身の「変態性」を自覚したうえで人間の抱え込む複雑な欲望や無意識の本能、ひいては人に知られるのがはばかられる性的倒錯を、『源氏物語』以来の「色好み」という文脈でおおいに肯定してみせたことにほかなりません。一部には、谷崎のおかげで自分の欲望を否定せずにすんで救われたという読者もいたはずです。こうして「変態性」の共犯関係が、谷崎と読者のあいだには結ばれるのです。

こんな共犯関係は到底受け入れられないという「健全な道徳家」やファシストは谷崎になど触れてはいけません。どうぞ素通りなさってください。ほかに道徳的で退屈な近代文学はいくらでもあります。しかしながら、人間の欲望の深淵を覗いてみたいと思うなら、谷崎の作品こそうってつけです。「変態」の確信犯、谷崎潤一郎。その魅力を、これからおもに四つの作品とともに解説したいと思います。
折しもコロナ禍の最中、集会や対人接触、旅行、遊興が制限され、職場、学校、家庭における日常が根本的に変わり、非日常が常態化しました。誰もが巣籠りを余儀なくされているこの状況は戦時下に近いものがあります。経済活動が縮小し、相互監視の目が厳しくなり、いつ終わるともしれない不安が社会を覆っているこの危機の時代をどうやり過ごすか、その知恵が問われています。ボッカチオの『デカメロン』はペスト流行時、感染を恐れて巣籠りした人々が退屈しのぎに持ち寄ったエピソードから構成されていますが、現代でもそのような副産物を産み出せるでしょう。

政治のリーダーシップには何も期待できない中、不自由で不愉快な日々の生活の中に密かな楽しみを見つけ、自らの精神状態を健全に保つしかありません。その多様な方法を提案するのが芸術文化の役割です。戦時下においても、趣味と欲望の追求と研究に余念がなかった谷崎に、現代のコロナ禍をものともしない反骨の創造性を学ぶことは充分に可能です。

*クラフト=エビング
リヒャルト・フォン・クラフト=エビング、一八四〇~一九〇二。ドイツの精神医学者で、セクソロジー(性科学)創始者の一人。谷崎の読んだ『変態性欲心理(性的精神病質)』(一八八六初版)は、精神鑑定医としての多くの臨床経験から、いわゆる〈異常性欲〉の詳細な記述と分類を試みた主著。今日よく使われるサディズム・マゾヒズム・フェティシズムなどの語は同書のなかで初めて用いられた。

*LGBTQ
性的少数者の総称として従来使われてきたLGBT(lesbian[レズビアン]・gay[ゲイ]・bisexual[バイセクシュアル]・transgender[トランスジェンダー])に、Q(questioning[クエスチョニング]=性的指向や性自認が未確定で迷っている人、もしくはqueer[クイア])を加えた呼称で、近年よく使われる。

*『デカメロン』
イタリアの作家、ジョバンニ・ボッカチオによる物語集。『十日物語』とも。黒死病(ペスト)が猛威をふるった十四世紀フィレンツェで、市中から郊外に避難した十人の男女が、迫りくる死の影を追い払おうと、好色な話から悲劇的な話まで十日にわたり順に物語る百話の短編からなる。

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