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太田空襲から78年 “語り部”の品々が記憶や思いを引き継ぐ

  • 2023年03月02日

太平洋戦争末期に軍用機の大規模な工場などがあり、たびたび空襲を受けた太田市での大規模な空襲から、2月で78年になりました。一連の空襲では、軍用機を製造していた中島飛行機の工場や、陸軍の飛行兵が訓練を行っていたという「新田飛行場」をアメリカ軍が狙い爆撃し、このうち2月10日の空襲では、160人余りが亡くなりました。

地域の人たちは今、その記憶や、そこに生きた人たちの思いを語り継ぐ「品々」を、どう守っていくのかという重い課題に直面しています。

(前橋放送局 記者 岩澤歩加/2023年1月・2月取材)

93歳 “自分だけで秘めていた”

画像提供:太田市教育委員会

空襲を受けた中島飛行機の工場の写真です。アメリカ軍の爆撃の大きさを表しています。

工場の跡地を訪れたのは、中庭和夫さん、93歳です。78年前、工場で軍用機の製造に携わっていました。

跡地に立った自動車工場の門の一部は、今も当時のまま残されています。

最も大きな被害があった昭和20年2月10日の空襲。当時15歳だった中庭さんは、この日も工場に来ていましたが、昼すぎに「アメリカ軍の攻撃がある」という情報が入り、工場から遠くに逃げるよう命令が出たといいます。

しかし中庭さんは遠くに逃げず、工場のすぐ近くの空き地に向かいました。

中庭和夫さん(93)
「まさか本当に攻撃されるなんて思ってもみなかった。積んであったわらの上に座ってぼーっと空を見上げていたんです」

当時のことを今も鮮明に記憶している中庭さん。東の空にキラキラと光るものが現れたのは午後1時すぎでした。そして、「じょうろ」から水をまくように、その光るものからバラバラと、何かが落ちていくのを見ていたといいます。

それがアメリカ軍の飛行機から落とされる無数の爆弾だと気付いたのは、工場の屋根に黒い大きな爆弾が落ちた瞬間でした。中庭さんは夢中で走ってなんとか近くのこの山まで避難し、難を逃れました。

そして空襲が落ち着き、工場に戻った中庭さんが見たのは、変わり果てた飛行機と同僚の姿。ただ、空襲の記憶を思い出すのがつらく、これまで、その体験を語ることはほとんどなかったといいます。

中庭和夫さん(93)
「工場を守るために残った人たちが、うめき声をあげながら血まみれで倒れていて。かわいそうで恐ろしくて、声も出せずに涙を流しながら、その人たちの間を抜けて帰ってきたんだよ。今でもその光景はどうしたって忘れられない。でも誰にどういうことを話したらいいんだか…自分だけで秘めていてね」

車輪は、確かに生きていた“証し”

それでも、93歳となった今、ある「物」への思いを聞きたいと依頼したところ取材に応じました。

「これはね、戦闘機の尾輪です。ちょっと愛着があったんで」

飛行場の焼け跡に残されていた戦闘機の車輪です。空襲から78年。車輪は、思い出したくない過去を象徴するものだった一方で、その過去に自分は確かに生きていたという“証し”でもありました。

中庭和夫さん(93)
「これを見るとやっぱり思い出すんだよ、太田空襲をね。2月10日の前後のことはね、思い出しますよ、普通のこととは違ってね。(車輪は)なかなか捨てるわけにはいかなかったんだね」

廊下に保管された“品々”

太田市「戦争を語り継ぐ会」のメンバー

人々の思いがこめられた戦禍の品々。それらを通して空襲の記憶をつなごうと活動する人たちがいます。太田市の「戦争を語り継ぐ会」です。

「戦争を語り継ぐ会」の活動

メンバーは2019年、市内に「平和祈念館」を開設。遺族などから寄贈された品々を展示して平和の大切さを訴えてきました。

しかし、その品々が危機に直面する事態が。

去年3月、平和祈念館は入っていた建物の老朽化で閉館に追い込まれ、およそ500点の品々が行き場を失ったのです。

展示できないまま、ほぼ1年。それらは今、箱に入った状態で社会福祉協議会の廊下に保管させてもらっています。

戦争を語り継ぐ会 代表 新島敏明さん
「せっかくみなさんからご寄贈いただいたものを、このまま置いておくというのは、われわれとしてもさみしい思いがします」

太田市と交渉を重ねた結果、ようやく、市の施設の1室に展示できる道筋が立ちました。ただ、展示を再開できる時期は、まだ決まっていません。

戦争を語り継ぐ会 代表 新島敏明さん
「われわれもみな、従事している人が高齢になってきますので、継続してやっていくには(展示が)休みの期間がない方がいいかなと思っていますね」

92歳 防空ごうの中で死を覚悟

空襲の記憶をつなぐことの難しさに直面しながらも、何とかその課題を乗り越えようと力を尽くす人たち。

10代で経験した空襲のあと、「物」とともに生き抜いてきた人は、ほかにもいます。
赤石絹江さん、92歳です。
大規模な空襲の際には自宅の庭に掘った防空ごうに避難。ただ、そのすぐ目の前に爆弾が落ち、家族とともに生き埋めになりました。

赤石絹江さん(92)
「父親が『もうダメだぞ』って…私たちは防空ごうの中で家族で『天皇陛下万歳』って言って、意識不明になっちゃったんですね」

数時間後、近くの人に助けられて命を落とさずにすみましたが自宅はほぼ全壊しました。

賞状は“誇り”

爆弾が落ちた穴から唯一、掘り出せたのが、こちらの賞状です。小学5年生の時の徒競走でもらった賞状。戦時中には数少なかった、自分の「誇り」を表す品です。

「ちぎれているけど、字は読めますからね」

「命の次に大事」という賞状。その「物」を通して自身の体験を多くの人に知ってもらいたいと、考えるようになっていました。

赤石絹江さん(92)
「78年前は、太田も戦場だったんです。戦場と同じ体験をしました。でも私がいちいち語らなくてもこれは体験の“語り部”になると思うんですね」

静かに問う“語り部”たち

この日、赤石さんは、空襲に関わる品々を保管してきたメンバーの元を訪ねました。

「爆弾の穴から出てきたので、土の色が染みこんじゃって…。戦争をこれも体験していますので」

展示の再開に向けて賞状を寄贈したのです。自分がいなくなったあとも、太田市であった空襲を忘れず、記憶をつないで欲しいという赤石さんの強い思いからでした。

赤石絹江さん(92)
「いい祈念館ができるといいですね。もうことばで『戦争があったのよ、被害を受けたのよ』と言っても身にしみませんけど、こういう現物を見せれば、今の子どもさんたちでも感じるものはあると思います」

空襲があった時代に生きた人たちの思い、そして、目を背けてはいけない過去を、語り継いできた品々。

その品々をどう守っていくのか。

1つ1つの「語り部」たちが私たちに今、静かに問いかけています。

  •  岩澤歩加

    前橋放送局記者

     岩澤歩加

     2020年入局 警察取材を経て現在は行政やシングルマザーなどの福祉を中心に取材

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