あの日、そして明日へ

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会田正子さん(あいだ・まさこ/当時60歳)福島県大熊町

原発事故で郡山市に避難していた会田さんは今年の正月、心筋梗塞で倒れ、震災関連死と認められました。

震災から8年を迎えて

職場の元同僚で親友の三瓶セツ子さんより

あれからまもなく八年になろうとしているが、私の心の時計はあの日で止まったままです。
自分で前を向いてと歩こうと思ってもいつも空回ります。悲しい事ばかり続く中、知人も親友も亡くなってしまい、今自分が生きている事が辛くて苦しくて振り返ってばかりいる自分に腹を立て、この苦しさは誰に話せば良いのか誰も解ってくれない。知人に話した所で東電の話ばかり。この気持ちは十年先も十五年先も同じか?みんなどうして元気になったのか解らない。

でも、こうして少しでも自分の気持ちが書ける事に感謝しています。私は大切な友が亡くなり(孤独死)その事が自分の気持ちにいつもあり、どうして助ける事が出来なかったのか、そして、今「うつ病」と戦っています。元気だった夫も今は要介護3。認知症になり、まだ69歳です。いつも口に出す事は「富岡に帰りたい」。もう帰る家もないのでどうすれば。こんな気持ちどうして良いか解らない。私だけで二度とこんな事のない様に祈るだけ。気持ちが落ち着かず文章も書けず済みません。

またこの様な機会を取って戴き、うれしく思います。

震災から7年を迎えて

職場の元同僚で親友の三瓶セツ子さんより

もうすぐあの日から7年目を迎えようとする。私の中では、あのときから「心の時計」がとまったまま。
7年はあまりにも長い苦しい道のりだったように思います。心も体もボロボロになって、暗いトンネルをまだ抜け出せない日々。

自分に「前を向いて、前を向いて」と言い聞かせても、振り返る私。頭の中では理解していても「心が痛い」現実を真摯に受け止めなくてはならない。でも・・・どうしても受け入れられない。
夜は苦しくて悲しくて人恋しくて寝れない。生きて行く意味さえなく、自信がない。心がさまよっている。
こんなに弱い自分にどうしようもなく、生きる「力」さえなくなっている現実です。

こんな毎日の中で、一筋の「光」をここ最近になり見たように思います。復興団地に入り、私だけじゃない、この棟のすべての人々、大なり小なりあるけど、みんな同じ苦しみ悲しみを持っている、その中で前を向いて振り返ることなく、充実した毎日を送って、悔しさがあっても両足を地に着けて、頑張っている人達を見ていて、私はいつも後ろを振り返ってばかりいたことに気づきました。弱い人々でも集まると、こんなに「力が沸くんだ」と知らされました。この団地には毎週、お茶会があって、それぞれが手料理を持ってきて、楽しかった思い出話、ふるさとの話などして大声で笑ったり涙を流したり。こんな素晴らしい仲間がいるんだと、つかの間の時間でも笑える自分がいます。
最近になり、つくづく思える日もできて、みんなに感謝している今日です。

大切な思い出も、ふるさとも、すべてなくなった今、財産は自分と健康な体だけ。これがあれば、どんな困難な道でも生きていけると自信が沸き、自分は1人じゃない・・・と思うと勇気が出てきます。
7年になって、苦しいこと悲しいことばかりじゃない、こんな仲間作りもできたんだと最近になってようやく考えられるようになりました。自分を見失うことなく、一歩一歩着実に歩いていきたい。
きっと私のように苦しんでいる人たちもいると思いますが、私の体験が少しでも役に立ってくれるならと思います。

まだ震災のつらさは消すことができないけれど、毎日自分との戦いです。
泣いてばかりいると5年前に1人さびしくアパートで旅立った進入が怒っていると思います。
姉妹のように毎日会い、おいしい料理を私に作ってくれ、どんな時も一緒で、私が泣いてばかりいると元気をくれ、そんな大切な友も、きっと空から私を見て「元気を出して」と言っているように思います。亡き友、いつまでも心の中に生きている友のために、一歩一歩着実に歩いていきたい。

きっと3年、5年後には元気を取り戻して、以前のように明るく楽しい日々を送っている私がいます。心が模索する中で、本当の自分になれると信じています。

震災から3年を迎えて

職場の元同僚で20年来の親友の三瓶セツ子さんより

震災、原発事故、あの辛い苦しい日々から、早3年になろうとしています。
親友そして、身内が突然死して、この悲しみ苦しみを引きずり生きて3年です。
自身も体調を悪くして病院通い。とうとう介護の世話になり、なんとか頑張っています。

生きることが、こんなに辛いのか、と何度も自信をなくしてしまったが、そんな時、私に夢、希望を持たせてくれたのが、愛犬「ムク」でした。

この日、3・11の次の日、町内放送にて、川内方面に逃げるように言われ、何も持たず車に乗って必至に川内に行きました。
ムクの事は、すっかり忘れ、我に顧みた時、初めてクサリを解かずに逃げてきた事、でも家に引き帰る事も出来なかった。許可が出なかった。
小屋の前に沢山ドッグフードがあるから何とか頑張ってくれると信じて、不安な気持ちで家を転々として、埼玉の息子の家に四ヶ月間いて、ムクの事が毎日気になり、想い出して仕方なかった。

我が家に愛犬ムクが来たのは、6年前。願っていた犬が生まれてすぐ東京から来てくれた。
ミルクで育てた。どんな時も私の傍にいて、苦しみ悲しみを聞いてくれ、孫が1人増えたようでした。
そのムクが、きっともう駄目かと思い、スコップを持って悲しい気持ちで車で家に向かう途中、目にするものは、以前の風景ではない家の近くに来たら、野良犬化してしまった犬が5、6匹遊んでいた。もしかしたら?ムクもその中にいるかと小さな希望を持ったが、残念かな、いなかった。

やっぱり思った通りかと悲しく心が苦しく、庭に入っていったら、玄関前にムクはきちんとお座りして家を守って主人と私の帰って来る事を信じて待っていてくれました。
びっくりとうれしさで、主人は大きな声で泣き、私はムクを抱いて、どんなにムクは心細かったことか、ドッグフードを食べて小川の水を飲んで待っていてくれたんでしょう。
こうしてこの紙面でクサリをはずし、ドッグフードの袋を開けて下さった人に感謝します。
心より、本当にありがとうございました。

ムクは、今度は連れて行ってと車の前に座り離れません。
大丈夫だよ、連れていくからと何度も言って聞かせました。
ムクは現在、郡山の親類の家で預かってもらっています。
みんなに可愛がられて、のんびり幸せそうに毎日を送っています。

人と動物、人間同志も信頼が大切な事を、ムクを通して教えられました。 この震災で失ったものも多いけど生きている私達の深い絆も生まれた。
不安な事が数多くある中、心身共に、そして1歩1歩、前向きに進んでいきたいと思う今日です。

職場の元同僚で親友の三瓶セツ子(さんぺい・せつこ)さんより。三瓶さんも原発事故で富岡町から郡山市に避難し、励まし合って暮らしてきたそうです。

会田さんに会えて、私は生きることの夢、希望を戴きました。
郡山に避難してきた時は苦しく、故郷に帰りたい思いでいっぱいだったけれど、貴女は私の背中をいつも押し、勇気をくれました。
「三瓶ちゃんの介護は私がするから安心してね。どんな不自由な体になっても、私が傍にいるからね」と言って、毎日楽しく生きようといろんな所に行きましたね。会田さんは毎日私の所に来て、食事をしたり、準備をしてくれたり、花の手入れをしてくれました。
ありがとう。最初は誰にも心を閉じていました。貴女がいたから今日の私がいるのです。
そして12月29日、私は息子(埼玉)の所に行き、来年1月4日の新年会の約束をして会田さんと別れました。
12月30日から毎日何度電話しても出ず、1月3日、貴女は帰らぬ人になって一人避難先のアパートで亡くなっていました。
いつ、どんなに苦しさで旅立って行ったのか、私がもう少し気配り出来ていたらと今になって後悔するばかりです。
許してね、苦しかったでしょう。淋しかったでしょう。
でも、貴女の死を無駄にしたくない、思い切ってこのページに応募することを決心して、私自身前を向いて歩いて行こうと決めました。
今回大勢いる震災・原発関連死の亡くなった人に、少しでも感謝と、「死」を無駄にしたくないと思い書きました。
ありがとう、私も強く生きて行きます。貴女が弱い私を見て、怒っているでしょうから・・・。
本当に長い間ありがとう。感謝でいっぱいです。あちらでゆっくりと休んでくださいね。

会田正子さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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