あの日、そして明日へ

こころフォト

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福士交三さん(ふくし・こうぞう/当時82歳) トヂノさん(とぢの/当時84歳)岩手県山田町

福士交三さんは妻のトヂノさんとともに津波に流されて亡くなりました。孫のこずえさんも一緒に流されましたが、助かりました。

震災から9年PHOTO



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震災から13年を迎えて

孫の福士こずえさんより

あれから13年。もう13年。まだ13年。
人によって受け取り方は違うと思う。

今では平気で話せる津波のことも、息子は「もう言わないで」と言うようになった。
その想いが「自分だけがつらい想いをした訳ではない」
「自分だけが苦しんだ訳ではない」「津波を理由にしたくない」
口にはしないが 私はそのように感じている。
本人の心の中では、さまざまな葛藤があったと思う。
話を出すと私に「もういいから」と止める息子の姿にたくましさを感じ 涙があふれ出る。

おじいやん、おばあやんが生きていればまた違った生き方(生活)をしていたかも知れない。
それでも私は、強い心を持って成長してくれた息子を誇らしく思う。
きっと広い空で、おじいやん、おばあやんが見守ってくれているから安心して、息子の成長を見届けていく。

震災から12年を迎えて

孫の福士こずえさんより

悲しみの中に暮れていては、
おじいやんもおばあやんも喜ばないと思う。

急な別れで心には大きな傷をおったが
「これからを大事に生きろ」と願ってくれているはずだ。

毎日 空から家族を守ってくれていることに感謝し
二人が私に残してくれた命を大切に 毎日をおもいっきり
笑顔で過ごせるよう 強くこれからを生きていこうと思う。

震災から11年を迎えて

孫の福士こずえさんより

「大切な家族忘れない」

あの憎い大震災から11年。
家族をバラバラにした震災は忘れることはできないが、怒ることもできない。
あの日、私がとった行動で2人の命を助けられなかったけれど、許してくれるかな!?本当ごめんね。

11年経った今も、あの日のことを鮮明に覚えています。
11年間は2人との思い出はないけれど、大切な家族。

買い物へ行けば、「これ、おばあやんっぽい服だね」「これ、おじいやんが好きだったね」「この本、毎月見ていたね」と、ついつい目がいってしまいます。

「息子がこんなにおしゃれになったのは、おじいやんに似ているね!」と話題に出てくることもちょくちょくあります。
色々な困難や悩みも近くで2人が見守っていてくれるから良い方向へ進んでいっているのだと感じています。

今も2人に助けられてばかりだけれど、これからも私達の近くで見守っていてほしいです。
そして、新しい思い出を一緒に作っていってほしいです。
私の大切な家族だから・・・♡

震災から10年を迎えて

孫の福士こずえさんより

あの日から10年たってしまったんだね。
一度に2人の家族を亡くすということは、とても寂しいです。
急な別れで悲しむ時間もなかったように思います。

時間がたって、やっと気持ちの整理はついたけれど後悔ばかり。
あの日2人を助けていれば、今の生活も変わっていたでしょう。
私のとった行動が本当に合っていたかどうかもわかりません。
助けることができていたのに助けられなかった後悔。
ずっとずっと心から消えることはない。誰かに言うこともできない。
正解があったかどうかもわからないけれど、2人からもらった命を今は大事に生きていこうと思う。

2人は空からずっとずっと見守って下さい。
間違っていることがあったら違うと教えてほしいです。
私達家族がずっと幸せでいられるように。

震災から9年を迎えて

孫の福士こずえさんより

あの日から9年。あの日平和な休日だったはずだったのに、一瞬で不幸へと導かれた。
右手に抱いたおじいやんのぬくもり。助けることのできなかった罪悪感。
そして、腰のぬけたおばあやんをひっぱりながら安全な場所へ連れていくのがやっとだった。
すぐに病院へ連れていけたら2人は助かったはず。どこまでも仲良く2人で行ってしまって、くやしいよ。

空から見てる!?優君がおじいやん、おばあやんを連れて、なれない土地で勉強しているよ。

大人になったら「家族旅行しようね」と言っていた優君は、名前の通り優しい子には育ったけど、せめて一人前になるまでは見届けてほしかったよ。 夢が叶えられるように、ずっとずっと見守ってあげてね。

私の今、一番のお願いだよ。

震災から8年を迎えて

孫の福士こずえさんより

復興と共に忘れさられていく震災。
必死に生きてきた自分が、やっと楽しく生きてる気がする。

震災から8年。
仕事をしていると、おじいやん、おばあやんの事を知っている人に会って、色々な話を聞くことがあるよ。
涙をこらえながら懐かしく感じています。

今一緒に居られたら、どんなに幸せなのか。
ひ孫の優も来年から家を出て1人暮らしを始めるよ。

おじいやん おばあやんが「大学へ入れてあげる」と言っていた年齢になりました。
夢を叶える為の第1歩を踏み出します。

空の上から夢が叶うよう ずっとずっと見守ってくれたらうれしいです。

震災から7年を迎えて

孫の福士こずえさんより

家族バラバラになって7年。
私の体の痛みが出始めたので、またこの時期がきたと思っています。
津波でろっ骨を折り、そのまま治療も受けていない私は、寒くなると右のろっ骨が痛み出す。冬期に入り寒くなってくると、ほぼ毎日、痛みに耐える毎日を送る。
そしてまた3.11を、頭も心も体にも思い出させる。

あの日、大事なものを背負い、階段を下り、おじいやんの乗る車いすに手をかけた時、私たちは一緒に津波に巻き込まれた。
あの流れの中、たった1度だけ息継ぎをし、おじいやんを抱いていたあの感覚、最後の顔を見て「ごめん」とひと言言って別れた。
あの強い引き波。どうして私は、あの場所での別れを決断したんだろう。
おばあやん、せっかく助けたのに、お医者さんも救急車も呼ぶことができない中、痛みを訴えることなく、おばあやんらしい別れでしたね。

おじいやん、おばあやんから、もっともっと教えてもらうことあったのに。
優くん(ひ孫)は、おばあやんのカレー食べたいって言ってるよ。
おじいやん、おばあやん、優くんを大学へ入れてくれるって言ってた約束かなえてよ。私1人じゃムリだよ。

なんで私だけ助かったんだろう。
これからも私は痛みと共にかかえる課題です。

震災から6年半を迎えて

孫の福士こずえさんより

震災から6年半と聞くと、そんなにたってしまったのかと感じる。
日々の生活の中では、考えないようにしているからだ・・・。

第1の思い出の場所「被災した自宅」
家族7人、けんかしたり笑ったり、泣いたり、集まったりしたあの自宅。
小さな家だったけれど、おじいやんのベッドに孫の優が一緒に寝ていたことも思い出します。

第2の思い出の場所「病院」
私が物心ついた時には、おじいやんは脳梗塞で入院療養中。
そこに何度も行き、入浴の際、背中をこすったり着替えを手伝ったりしたことが思い出され、現在の介護の仕事へ就くきっかけになったから。

第3の思い出の場所「レストラン」
おばあやんを車で1時間かけて定期通院へ連れていった時、帰りは必ず寄ってお昼を食べた、あの「レストラン」。
おばあやんは必ず天ぷら定食。私はカツ丼で、「多いから」と天ぷらを分けてくれたおばあやんの優しさ。
時々、おばあやんを思い出しに行ってみようと思います。

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

震災から6年を迎えて

孫の福士こずえさんより

おじいやん、おばあやんと突然の別れから6年経つんだね。
二人仲良く過ごしていますか?
毎日私たちの事見守ってくれてありがとう。

あの日の記憶が薄れつつあるけど、私はあの日の出来事鮮明に覚えています。
私の取った行動が良かったのか悪かったのか今でも答えが見つからないままでいます。

でも今の私があるのはおじいやん、おばあやんのお陰。
もしも私が…と考えると優君のことで頭がいっぱいになります。
時々おじいやんのベッドで一緒に寝ていた時の話がでて、優君も「おじいやん大好きだった」と言っていたよ。

今はおじいやんより大きくなり一緒に寝る事もできないくらい成長しました。
優の成長、おじいやん、おばあちゃんにも見て欲しかった。

まだまだ私たちの心配はあるだろうけどこれからも空から見守っていてくださいね。

震災から5年半を迎えて

孫のこずえさん(39)より

「もう5年半?」「まだ5年半?」みんなどのように思っているのだろう。
世界中でさまざまな災害がおこっている中、東日本大震災の記憶は薄れつつあるように思う。
メッセージを書くにあたり、いつも思うが、この5年半、どのように生きてきたのかわからない。
1日1日が必死の毎日だからだ。
生活は再建できても、心や身体の再建はできていない。
何をするにも おじいやん おばあやんが生きていれば、「こうはならなかった。」「このようにした」と考えてしまう自分がいる。
後悔 後悔の毎日。
苦しい。戻りたい。5年半前に。そして私のとった行動をやり直したい。

おじいやん おばあやんへ
何もしてあげられないまま別れてしまい後悔。
せめて優(ひ孫)の成長を社会へ出るまで見届けてほしかった。
それが1番の私の心残り。
あの日の私を許してくれるなら家族みんな仲良く
幸せに過ごしていけるよう見守っていて下さい。
そしてたまに夢の中に出てきていいよ。
会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。

震災から5年を迎えて

孫の福士こずえさんより

「あ~何もかも嫌だー」と言って2011年3月11日に戻れたら、どんなにいいでしょう。
心の中には、あの日のつらい事がたくさん詰め込まれていて忘れることはありません。

先日、やっと、ガレキの中から見つけた数十冊のアルバムを整理できました。たくさん、おじいやん、おばあやんとの思い出の写真が出てきたよ。
そして、流された自宅、季節の行事の写真など、思い出のつまった写真を見ました。
優(ひ孫)が写真を見て一言。「オレ、前の家、好きだったなぁ」とつぶやいているのを私は聞きました。
「部屋ないよ」と言うと、「おじいやんのベッドで一緒に寝てもいいのに・・・」って!!
その言葉で、私は涙、涙。

おじいやん、おばあやんと一緒に成長できていたら、もっと、もっと、優しい子に育っていただろうなぁ。

会えることなら今すぐ会いたい!!
叶うはずのない私の想い。

震災から4年半を迎えて

孫の福士こずえさんより

あっという間の4年半。家族との元の生活を取り戻すため、必死に生活してきた4年半。
今となれば、一緒に流された私自身、最悪のことを考えるようになっている。

私が亡くなっていたら、息子はどうしてたのだろう。母も私も、家族4人亡くなっていたら・・・
震災のことを思い出すたび、このようなことを考えてしまう。私のとった行動は・・・

戻れるなら、3・11の朝に戻りたい。あの家へ帰りたい。
あの日、私が出かけなかったら、家族は助かったかもしれない。流されなかったかもしれない。
生活は取り戻すことはできても、心から消せることはないでしょう。
だけど、祖父・祖母からいただいた命。大切に1日1日を過ごしていこうと思います。
会いたい。おじいやん、おばあやん。

震災から4年を迎えて

孫の福士こずえさんより

おじいやん、おばあやん、2人仲良く過ごしていますか? 
あの日、私のとった行動、助けられなかったこと、あの日出かけてしまっていたこと、本当にごめんなさい。
突然の別れから4年。おじいやん、おばあやんを忘れる日はないよ。

新しい家での生活から1年。食事も日常も一緒に過ごしているよね。誕生日、母の日、父の日、敬老の日、今までと変わらずお祝いしています。プレゼント届いているかな!?
私の心の中、日常生活から、おじいやん、おばあやんがいないことはありません。

4月に、1番かわいがってくれた優(ひ孫)は中学3年生。受験生になるよ。
今、2人がいてくれたら、反抗期も変わっていたかなぁと思う毎日です。2人が家族を和ませていたということ、今、やっとわかった気がします。本当、私たちの家族でありがとう。

春に家族旅行、連れて行くって約束していたのに守れないままだけど、必ず行こうね!!
大好きだよ。おじいやん、おばあやん。

震災から3年を迎えて

孫のこずえさん(37)より

お空の上に居る、おじいやん、おばあやんへ。

あれから3年たちますが、仲良くしていますか?
私の夢に時々出て来てくれるけど、心配しての事だよね。

昨年末の夢では、優(ひ孫)が、学校が忙しくて、なかなかお墓に行けていなかったから、会いたかったんだね。
本人もお墓で手をあわせたら、肩が軽くなったって言って喜んでいたよ。

そうそう、私達、仮設を出て、やっと自立したんだよ。
昨年のお盆に間に合うよう、お盆の1週間前に新しい土地、海から離れた山側へ引っ越したけど、迷わず、自宅へ帰ってこれましたか? 室内は、居室で毎日みんなと過ごせるようにしたんだよ。
どうかなぁ!?
みんなの会話を聞いて、笑ったり喜んだりしているかなぁ?

3月11日、あの日は、にくくて、にくくて、おじいやん、おばあやんの命を救えなかった自分を責め、私のとった行動を反省し、悩みました。 でも2人は、一緒に流された私に、命をくれたんだと思っているよ。
私は、優の為に生きなくてはならない。
その為、私を生かしてくれたんだね。
ありがとう。

春になったら、みんなで旅行行こうと言っていたのに、叶えられなくてごめんね。
30年間、おじいやんの介護を続けたおばあやん。
お空の上では、おじいやんに今までの分、楽させてもらって楽しんでネ!!
大好きだよ!!おじいやん、おばあやん♡

孫のこずえさんからのメッセージ

天国で仲良くしてますか?私に命をくれてありがとう。
優君(息子)のために生かしてくれたんだよね。
優はおじいやん、おばあやんが大学に入れてくれるって言ってたのに
行けないじゃんと泣いていたんだよ。ずっとずっとお空から見守っていてね。
旅行に行く約束のために車いすもそのための車も購入したのに乗せられないままだったね。必ず家族旅行しようね。

福士交三さん、トヂノさんへのメッセージ・写真を募集しています。

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