NHK広島 核・平和特集

ご家族が語る、今井泰子さん(「やすこ」)の戦後

2020年12月25日(金)

NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の社会状況や当時の人々の暮らしを、「シュン」「やすこ」「一郎」の3つのTwitterアカウントで発信してきました。

「やすこ」の投稿のもとになった日記を書かれた今井泰子さん。
泰子さんの日記は1945年9月18日で終わっているため、日記をもとにしたツイートの発信も9月18日で終わっています。
現在は、ツイートでは伝えきれなかった泰子さんのお話を、ブログでご紹介しています。

今回の記事では、戦後、泰子さんが原爆の記憶とどう向き合っていったのかを、ご家族のエピソードからお伝えします。

前回のブログ記事では、泰子さんが自らの言葉にするまでに50年かかった被爆体験の手記をご紹介しました。

泰子さんの手記には、1945年の日記には書かれていない8月7日のエピソードが書かれています。
泰子さんが疎開先の病院でけが人の救護にあたるなか、水をほしがる中学生くらいの少年に水を飲ませて看取ったというものです。

被爆当時おなかにいた娘さんが幼いころ、泰子さんはこの少年の話をしたことがあるそうです。

IMG_0003.jpgのサムネイル画像写真:泰子さんと娘さん

娘さんが「お水を飲むと死ぬのに、お水をあげたの?」と聞くと、「泣きながら頼むのよ。可哀想だったのよ。」と泰子さんは答えました。
娘さんが「でも‥‥、死ぬと知ってて飲ませたの?」と言うと、「飲んでも、飲まなくても死ぬのなら飲ませてあげたいじゃないの!」と泣きながら答え、娘さんは叱られた様でしょんぼりしたそうです。

泰子さんは1963年以降、再び日記を書き始めましたが、「8月6日」のページには、原爆について記述されていない年が度々あります。
ある年の日記には「原爆記念日、種々思い出される」と書いてあれば、別の年には全く書かれていません。
長い間自分の原爆の体験に向き合いながら、その、あまりにつらい体験を整理するのに苦労されていた泰子さんの気持ちがうかがえます。

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写真:日記を書く晩年の泰子さん

その後、娘さんは結婚し、男の子が生まれました。
おばあちゃんになった泰子さんですが、お孫さんには、自分から原爆について、話すことはなかったそうです。
そんななか、お孫さんが中学生になったある日、突然泰子さんが原爆の体験を語りはじめたことがあったといいます。

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写真:左から、娘さん、お孫さん、泰子さん、次雄さん

普段は穏やかで優しいおばあちゃんだった泰子さんですが、原爆について話しはじめると様子が一変。
感情があふれ、話の筋もまとまりません。
お孫さんはその様子にびっくりして、泰子さんのお話を受け止めきれずに終わってしまったそうです。

 当時の泰子さんの日記にはこんな文章が残されています。

「45年目の原爆の日で改めて又あの日を想う。はからずも末期の水を飲ませてあげた、あの少年も俊ちゃん(お孫さんのニックネーム)と同じ位の年だったろうに嘸(さぞ)お母さんに会いたかっただろう。今日も又あの日と同じ暑い暑い日で、もう暑いのは沢山と云いたくなる。」

あのとき看取った中学生とちょうど同じ年頃のお孫さんとを重ね、当時の気持ちを思い出してたまらなくなったのかもしれません。

そんな泰子さんですが、原爆投下から50年後に自分の原爆体験を手記にまとめ、1996年にはNHKの番組「昭和20年・被爆の言葉」でその体験をお話されています。

泰子さんの心境の変化を、ご家族の方はこうお話されていました。

 母は毎日、新聞を長い時間読んでいました。日本という国が再軍備していくのではないかと、とても危惧していて「戦争は絶対してはいけない」と常々言っていました。けれど自分の被爆体験を、私達家族に語ったことはほとんどなく、ポツリとなにか言ってたなというくらいです。
 1996年にNHKから体験を語るお話を頂いた時、私に電話で「お受けする前に、貴女に一言話しておこうと思って」と話を切り出し、「自分が被爆者である事を公にしたら、貴女もそうだと言う事が知れてしまうけど、いいかしら」その様な内容だったと思います。
 その頃には、父は仕事を退職し、私たち子供もそれぞれ結婚して孫たちも生まれ育ち、平穏な生活を送っていましたので、母はNHKから頂いたお話を受ける決心をしたのだと思います。母はおもんばかるという言葉をよく口にしていました。ですから家族一人一人に配慮し熟考したのだと思います。
 その後「被爆した少年の話」を寄稿した事も話してくれました。少しほっとした感じがして、無言でうなずき合いました。
 被爆した人達に、その時の事を絵に描いて下さいと言うキャンペーンがあった時に、私が「お母さんも絵を描くのだから、描いてみたら?」と勧めた時に「あれは、よう描けないのよ」と、答えました。80歳前後になった頃には、「もう、いつボケちゃうか分からないからその前に、あの事を話しておかないと、いけないのよ」と繰り返し言うようになり、だんだん思いが強くなったのだと感じました
 思いがつのっても話せなかった時から、半世紀たってやっと自ら話せる心境になり、書き残せるようになりました。母が亡くなっても、日記はいつまでも残り、平和への願いを訴え続けていくことと思います。

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写真:泰子さんの娘さん(現在)

つらい記憶と向き合いながら、同じ苦しみが二度とくり返されないよう声をあげるようになった泰子さん。
あの日、泰子さんの話を受け止めきれなかったお孫さんは、今は「語り部」として泰子さんの被爆体験を語り継いでいます。
お孫さんは、「『祖母の思いを受け継いで』というほど偉そうなものではないですが、祖母が向けてくれていた視線とか、話してくれたのを私がうまく受け止められなかったことに対して、今更ですけど何かしたいなと考えています。」とお話していました。

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写真:泰子さんのお孫さん(現在)