NHK広島 核・平和特集

ツイートでは伝えられなかった今井泰子さんのお話

2020年12月25日(金)

NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の日記をもとに、当時の社会状況や人々の暮らしを、「シュン」「やすこ」「一郎」の3つのTwitterアカウントで発信してきました。

「やすこ」のモデルになった今井泰子さんの日記は夫・次雄(つぐお)さんが帰ってきた1945年9月18日で終わっています。
その後、泰子さんはどう暮らしたのか。このブログでご紹介します。

夫の次雄さんが帰ってきたあと、泰子さんは引き続き夫の実家である広島市郊外の緑井村で親戚と暮らします。
そして、1945年12月におなかの赤ちゃんを無事出産。女の子でした。
その後、夫の転勤で京都に引っ越し、1948年には男の子も誕生します。
1950年には再び広島に帰り、親しい友人と楽しい時を過ごし、趣味の絵に打ち込み、孫達に慕われて、満ち足りた時間を過ごされたそうです。
そして、1996年晩秋に夫の次雄さんが亡くなります。その葬儀で泰子さんは「申し分の無い夫であり、父であった」と挨拶されました。
その後、旅行や園芸を楽しむ日々を送り、20年後の2016年早春に97歳で生涯を終えました。
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※写真(上)長女を抱く泰子さん
 写真(下)左から泰子さん、長男、長女、夫・次雄さん

今回、「やすこ」のツイートを制作するにあたり、日記を読むだけでなく、ご家族の取材や残された資料の読み込みなども重ねて、「今井泰子さん」への理解を深めていきました。

そのなかで、ご家族に泰子さんが被爆から50年後の1995年に書いた被爆体験記を読ませていただきました。
原爆投下後、疎開していた病院にけが人が押し寄せ、救護にあたることになった泰子さん。
原爆投下の翌日、8月7日に直面した出来事がつづられています。以下、全文を掲載します。

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「被爆体験について」

広島に原爆が落された翌朝のことです。私の住んでいた広島から十粁(キロメートル)程離れた郊外の病院には昨日の朝からトラックで続々と運ばれて来た二百人もの傷ついた被災者が病院の中だけには入り切れず土の上に敷かれたむしろの上に横たわり、うめき、泣き、此の世のものとは思われない惨状でした。

老医師である義父は休む間もなく五人の看護婦と負傷者の手当を続けましたが医薬品も底をつき、既になす術はなくなっていました。私達家族の者も夢中でそれを手伝い疲れ果てまどろむ間もなく翌朝を迎えたのです。病院の待合室には足の踏み場もない程だった負傷者が大分少なくなっていました。家族に引取られ或は自力で家へ向ったものでしょう。

朝の光が待合室の中に射しこんで一隅を照らした時、そこに一人の少年が壁に向って横たわっていました。被爆した時、帽子の下だった頭髪の上半分はきれいな坊主刈なのに下半分から首、上半身は無惨に焼けただれており、下半身のズボンやゲートルは殆んど残っていました。

その朝は何体かの遺体が戸板に乗せられて運び出された後でしたからその少年ももしやと近づいてみると、もうよくは見えないであろう眼を私の方に向け、渾身の力をふりしぼって、「看護婦さん」と私を呼び「僕は一番初めにここに来たのですがまだ番がこないのでしょうか」と聞くのです。

思わず枕もとに膝まづき「ごめんね、おそくなって。今すぐ先生に来て貰ってあげるから、しっかりするのよ」と云うと「すみませんが水を一杯下さい」と云いました。私は“水を呑ませたら死ぬから、呑ませてはいけない”と、云われていた事を思い出しました。でも、少年の顔にはもう生きる力は残っていないように思えました。此の子の最後の頼みをきいてあげないわけにはいかない。私は台所に走りコップ一杯の水を彼に渡したのです。

矢張り少年はその水を一口飲んで息が絶えました。私はふるえる手でコップを握りしめ、もう我慢出来ませんでした。涙がもんぺの上に滴り落ちました。「お母さん」と、どんなに呼びたかったろうに。まだ中学一年生、幼さの残る可愛い一三才です。

学徒動員で建物疎開に狩り出され、先生とも友達ともはぐれてやっと逃げのびた知らない病院でたった一人で死ななければならなかった。「お母さん」とも呼べず、「助けて」とも云えずに。

もう絶対にこんな事は嫌だと思いました。私にもちょうどこの年頃の弟が二人あり、山形と日光に疎開していました。あの弟たちもこんなむごい姿にならないとも限らないと思うと矢も楯もたまりませんでした。

原爆の悲惨な体験の中で一番忘れられないことです。此の事を人に話す時、私は涙と共に、反戦の誓いを心に刻んでいます。

※今井泰子さんが書いた被爆体験記(1995年)
 資料提供:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
 原文ママ ( )内はNHK加筆

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被爆から50年を経てこの手記を書いた泰子さん。
ご家族によると、戦後しばらく泰子さんは自分の被爆体験を多く語らなかったといいます。
原爆の体験を言葉にする難しさと向き合い続け、やっと生まれたのがこの文章だったそうです。

このエピソードを公にするまで50年かかったという「今井泰子さん」の逡巡を考え、「やすこ」の8月7日のツイートではこの話をお伝えしませんでした。
しかし、泰子さんが実際に目にした出来事、そしてこの出来事を言葉にするまで50年もの時間がかかったことを知ってほしいと思い、ブログで紹介させていただきました。

後年、この泰子さんの手記があるラジオ番組で朗読されたことがありました。
泰子さんは知り合いの方に放送の予定をお伝えしたそうですが、何人かは間違えてテレビをつけてしまい朗読を聞いてもらえなかったそうです。
それを聞いて、泰子さんはとても落ち込んでいたといいます。


yasukosbaby.pngのサムネイル画像
※今井泰子さんが生後2か月の長女を描いたスケッチ(直筆)