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ガタロさんに、会いにいきました。(1)

2014年01月21日(火)

2014年1月18日(土)夕方。
東京・江古田のギャラリーで行われているガタロさんの絵画展。
そこでガタロさんのトークイベントもあるということで行ってきました。
こちらのブログでは、何回かにわけその様子をお伝えいたします。


まず、個人的にどうしても知りたかったのは、ディレクターが
「どうやってガタロさんという人物と知り合ったのだろう?」ということ。
現在は福岡にいる、担当ディレクターの中間英敏さんにお会いできたので
いろいろ伺いました。

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中間さんは、トークショー後の懇親会から帰る際に、ガタロさんと抱き合って挨拶していました。


・どうしてガタロさんを知ったのですか?

中間)2011年9月にガタロさんは
清掃員として30年以上働いてためたお金を使って
自費出版で画集を出しました。
「清掃の具」。
初めての画集を出そうと思ったきっかけは、
その年に、Sさんの失踪や、20年来の友人が無くなったこと、
3・11があったことなど、
ガタロさんにとっていろいろなタイミングが重なったからでした。

ガタロさんが絵を持ち込んだ出版社は当初、
「画集は売れないから出版はやめた方がいい」と助言。
それでも出版したいというガタロさんに
「ではご希望の500冊ではなくて300冊作ることにしましょう」
と言っていました。


こうしてガタロさんの画集「清掃の具」が300部出版され、
そのポスターが出版社の入り口のドアに張り出されていました。
僕はその小さな出版社の近くに住んでいて、
前を通りかかった時にふとそのポスターが気になりました。
「政争の具」という言葉はあるけれど、
「清掃の具」というはなんだろう?
またこの力強い絵はどんな人が描いたのだろう?と。


出版社に掛け合い、ガタロさんを紹介してもらい、
その職場である基町アパートに会いにいきました。
画集「清掃の具」は本屋においてもらっても、
最初は10数冊しか売れなかったそうです。
ガタロさんは自分の絵を見てほしいと、
広島のギャラリーや美術館、新聞社などにも送りましたが、
反応は皆無だったとのこと。


そんな中、初めて画集を見て訪れた人間がいたことに
ガタロさんは、驚きそして喜んでくれました。
そうしてガタロさんとの付き合いが始まりました。



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ガタロさんが1985年描いた「豚児の村」の前でトークイベントが行われました。
左は、武蔵大学教授の永田浩三さんです。


ガタロさんは最初、中間さんのことを「あやしい」と思っていたそうですが、
中間さんが何度も職場である清掃現場に来て話をしたり、
職場の前を流れる太田川の堤防に並んで座って一緒に川を眺めながら
「ヒロシマ」や「原爆」のことを語り合ったりしているうちに
今のような関係が出来上がったとのこと。
 

「捨てられしものを描き続けて」での、
番組のガタロさんを見つめるまなざしは、
そっとそばに寄添っているような感じでした。

その二人の空気がいろいろなところで
静かに、大きな反響を呼び起こしていきます。

※その2へ続く。


◆関連コラム
ガタロさんに、会いに行きました。(2)
ガタロさんに、会いにいきました。(最終回)




◆番組ページ
ハートネットTV
捨てられしものを描き続けて ―“清掃員画家”ガタロの30年―

ETV特集
ガタロさんが描く町 ―清掃員画家のヒロシマ―

 

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