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19のいのち

26歳の女性

26歳の女性

更新2020年07月 更新

母親

今の気持ちを少しだけつづらせてもらいます。

4年たつのに信じられない思いです。
判決が終わった時からあっという間に月日がたったような気がします。
裁判は本当の事をもっとくわしく教えてほしかった。

聞きたいです。
なぜ娘を殺したのですか。
娘はもっと生きていたかった。
みんなと会いたかった。
娘はそう思っています。

自閉症と言う病気でとても気を使って大変な時もありました。
でもあなたのすんだ瞳を見つめると大変だったことも忘れてしまう。
みんなをいやしてくれる不思議な魅力がありました。

いつも娘の事を思い出します。
生きていたら30歳ですね。
どんな顔になったのでしょう。
お母さんはあなたに会いたい。

大きくなったあなたの顔が見たいです。
でももう会えない。
さびしいです。
一緒にいたかった。
いつまでも一緒にいたかった。

娘はいろんな人を明るくさせてくれました。
いろんなおもしろい事をしてみんなを笑わせてきました。
娘の存在はなによりも大きかった。
娘が生まれてきてくれた事が何よりも幸せでした。

娘は私のそばにいます。
お母さんはあなたの事が大好きです。

こんなつらい事件は二度と起きてほしくない。
いろんな障害をもった人がいます。
みんな一生懸命生きています。
どんな障害を持っていても共に生きやすい世の中になってほしい。

更新2020年03月 更新

母親が法廷で語ったことば

私はどうしても娘の思いを伝えたいのです。私が病気になってしまい娘がやまゆり園でお世話になりました。園の行事ではフランクフルトやチョコバナナを自分で選んでおいしそうに食べていました。大好きなアイスクリームをうれしそうに食べて職員さんも喜んでいました。ブランコに乗って楽しそうに遊んでいました。

好きなテレビを見ていた、と写真とともに聞きました。いろんな思い出がたくさん娘の心の奥に残っていると思います。私は娘をいとおしく大切に思っていました。かわいくて、かわいくて、大好きでした。被告に大事な命を奪われてしまいました。娘はもういません。月日がたっても悲しみは癒えません。とても寂しくつらいです。この思いは永遠に続いて、消えることはありません。毎朝、遺影の笑っている娘の顔を見つめると、ずっと話しかけていたい、でももう会えない思いに、涙がこみあげてしまいます。さみしい思いをこらえて娘のことを思い頑張っています。

娘のことを思い出します。プールや川が大好きで、気持ちよさそうにほほえんでいたわね。ひなあられを私に食べさせてくれてうれしかった。双子を見て「おんなじ」と言えたのです。動物園の象を見て「大きい」とびっくりしていたわね。娘と学校に通ったことを思い出します。たくさんお友達ができて仲良く遊んでいましたね。浴衣を着てみんなでお祭りに行ったときのうれしそうな笑顔、いろんな姿が浮かんできます。

娘には色んなことを教えてもらいました。手を合わせお願いしたり、ジュースを買ってと指をさし思いを伝え、早く行こうと私の手を引いたり、写真を撮るときピースサインをし、意思を表現できました。笑ったり怒ったり泣いたりほほえんだり、色んな表情を自分で表していました。誕生日のケーキのろうそくを吹き消し、うれしそうに喜んでいて、感情もあり、吹く練習もしていました。私がお財布からお金を取り出すところを見て、買い物を覚えました。料理も野菜の皮をむいて切ったりフライパンで炒め野菜炒めを食べました。見たり聞いたりしながら、ひと針ひと針一生懸命つくった刺繍も上手でした。いろんなことができました。

外出のとき、私が行くととてもうれしそうにしていました。そして大好きなドライブを楽しみました。食後にはパフェをおいしそうに食べていたわね。外出するのは楽しく「娘の鼻が高いな」「足が長いな」「かわいいな」と娘のことばかり見ていてすぐに時間がすぎてしまい、帰るのがつらく心苦しくなってしまいました。それでもまた会えると思っていました。それもかなわなく、とても残念です。

被告に言いたいことがあります。包丁を持つのが怖くなってしまいました。こわいニュースやサスペンスドラマも見られなくなり、当時のことを思い出してしまいます。私、心を閉ざしてしまいました。それでも娘のことを言いたいのです。
告別式のときには気丈にふるまっていましたが、お骨になった娘の姿を見たときはあまりにもつらかった。こんな姿になってしまい、悲しく、二度と会えなくなってしまったことに気づかされました。急に命をとられもう会えません。もっと生きていてほしかった。 娘は多くの人の心を癒やし、愛されて、娘の笑顔はたくさんの人を幸せにしてくれました。娘のことを心配して悲しんでいる人がたくさんいるのです。

私の娘は、気遣ってくれ、優しい子でした。娘を奪われどんな気持ちになると思いますか。もう抱きしめることもできない。私、とても傷ついています。言葉が出なくても娘は幸せでした。大好きでした。大事な心もありました。私の人生で欠かせない存在でした。
もっともっと生きていてほしい。娘は二度と戻ってこない。被告に大事な命をとられた。あなたが娘を奪った。娘と同じにしてください。死刑にしてください。

娘はいつも私のそばにいました。私に気持ちを伝えてくれ、安心しました。安らぎを与えてくれ、幸せでした。いつまでも忘れません。大好きです。障害を持っていても優しい気持ちで見守ってほしい。障害を持っていても大切な命です。19人のいのちは大切でした。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた母親の調書から

3歳ごろまでは他の子どもと同じようにおしゃべりができましたが、3歳の定期検診の時に名前を呼んでも反応がなく、病院で自閉症と診断されました。話すことは出来ませんが、園では職員がカードを使って意思を確認していたと聞いています。体は丈夫で不自由はありません。嬉しいことがあるとにこにこして飛び跳ねて、欲しいものがあると「あー」とか「うー」などと声を出して私の手を引っ張るなど、愛らしい仕草をしていました。

最後に会った日、友人の車で連れてきてもらったと思います。私が車でどこかに連れて行ってくれると思ったのか、駐車場に止まっている車のノブをつかんで「ドライブに行こう」とアピールしていて、嬉しそうで素敵な顔をしていました。本当にかわいかったです。
あれが最後になるなんて考えもしませんでした。

事件のことは当日の朝のニュースで知りました。けがをしていると聞き、友人の車で施設に向かう途中に、後見人の方から娘が亡くなったと言われました。信じられない思いでした。あんなにいい子がどうして亡くならないといけないのかと思いました。

いつもセーラー服がよく似合っているお気に入りの写真を持ち歩いています。今でも写真を見ると涙が出ます。遺体と対面し「痛かったでしょ。怖かったでしょ。ママが来たよ」と言って頭をなでてあげました。

娘は個性があって一生懸命生きていました。かけがえのない存在でした。
被告には日本でできる一番重い刑になって欲しいと思っています。

更新2019年07月 更新

母親

あれから3年月日がたちました。当時の事を思い出すと胸がつまって苦しくなり、いまだに、つらい思いは消えません。「もういないの」「本当にいないの」という時があります。さみしくてたまりません。

町で障がいを持ったお子さんに出会うと、なぜか娘の事を思い出しなつかしさを感じます。一生懸命頑張っている姿に胸があつくなり応援したい気持ちになりました。
ある日の事、なにげなく用紙を取り出してみると、それは、やまゆり園さんのお便りで、娘の名前が書かれており「娘さんは元気にしておられます」という内容が目にとまり、それを見たとたん悲しみがこみ上げてきてしまい、申し訳ないのですがそのお便りを取っておく事は出来ませんでした。
告別式の時の遺影は、少しおさなくて、お気にいりの写真をもう一度遺影にしてもらいました。明かりをともすと、はい景の色とかさなりほほえんでいる娘がうかびます。いつまでも見ていたくなるようなそんな素敵な遺影でした。
三回忌の時にはお気にいりの写真を置かせてもらいました。お経をあげてもらうと、どこかで娘が聞いているような気がします。時おり娘の笑っている写真を見つめると、いとおしい思いで私の心はいっぱいになりました。終わってから写真をかたづける時、娘に「おうちに帰るからね」と声をかけました。
お墓にお参りしていても、まだ実感がわいてきません。そこに眠っている事は頭では分かっているのですが娘の死を受け止めきれないからでしょうか。それでもいろんな話をしていてなかなか帰る気持ちになれない自分がいます。
「今度くる時には大好きだったアイスを持っていこう」「持っていくからね」。

娘は多くの人々に安らぎをあたえてくれ、たくさんの人達に愛されていて、大切な大切な娘だったのにもう会う事が出来ないなんてあまりにもひどいです。
たとえ重度の障がいがあっても一生懸命生きている。その存在をけっして無理やりうばう事は絶対に許されない。娘のためにも、早く裁判が始まってほしいと思っています。

更新2018年07月 更新

母親

2年もたったのに、私の心の中は、娘の事でいっぱい。おいしそうによくアイスを食べていましたね。プールや川が大好きで気持ちよさそうにしていた姿を思い出します。4歳の頃に男の子に好かれ抱きつかれていましたね。保育園に入るとお友達にお人形さんのようにかわいがられていましたね。いろいろある行事の中でみんなが支えてくれ、まるで家族のようでした。小学校に入学し、たくさんお友達が出来たよね。中学生になり、バス通学し、運動会ではリレーの選手にえらばれ、楽しそうに笑っていましたね。高校生になり私と一緒に電車で通っていたね。 たくさんお友達ができ、娘によりそってくれる女の子や大好きになってくれた男の子もいましたね。保育園、小、中、高とも良い先生やお友達に恵まれ、とても人気者でした。やまゆり園さんではスタッフの方々にかわいがられ行事に参加させてもらいました。園でのお風呂が大好きで楽しみにしていましたね。

娘が生きて来た中で、多くの人達と出会い係わりを持って、愛されてきました。話す事が出来なくても、身ぶり、手ぶり、視線で表現し、愛らしい瞳で、いやしてくれました。障害をもっていても、いなくても、大切な存在です。それなのに私の娘はうばわれてしまいもうここにはいない。まだ、いなくなった実感がわかない。でも、それを認めなければならない現実があります。とても、さびしく、悲しく、つらいです。毎日、思い出がよみがえるけれど、いっしゅんであわの様に消えてなくなり、涙が、こみあげて来てしまいます。 2年たった今でも、つらい思いは増すばかりかけがえのない命をうばわれてしまい、どれだけたくさんの人達が悲しみにうちひしがれている事か被告には自分のした事を認識し罪をつぐなってもらいたい。もう私の娘は二度ともどってこないから。

娘と共に歩んで下さった皆様、そして共に共感して下さった方々に、お礼を申し上げます。

更新2017年07月 更新

母親

娘を亡くしてから時が気ぜわしく過ぎてゆきました。一周忌を終えて一年がたっても、いたたまれない。小さい頃からお友達に好かれ、時にはわがまま言ったりしても、かわいがられてきました。水遊びが大好きで園のお風呂も大好きでした。学校では、音楽部に入っており、カラオケでマイクを持って満面な笑顔の娘の写真を見るといとおしくて涙があふれてしまいます。

娘の事を思い出さない日はありません。よくそばによりそって甘えてきたね。そんなあなたと共に一緒に歩んで来ました。今、思うと、もっといっぱい遊んであげれば良かった。もっと思いをわかってあげたかった。心残りがいっぱいあります。娘の好きだったスピッツの「チェリー」のCDを探しに行くと店頭にアイドルの横にならんでスピッツのヒット曲がかざられてあり、まるで娘が導いてくれたかのようでした。たまにかけて娘と一緒に聞いています。

キラキラした瞳で多くの人に安らぎを与えてくれ、いろんな人に力をくれ愛されていたのに、何でこんな事になってしまったのか。あまりにもひどすぎる。障害を持っているのはとても大変だけれど、望んで障害者になったわけではない。偏見を持たないでほしい。障害者がいやでもいらない命はないのです。けっして傷つけたり殺してはならない。絶対に。

更新2017年01月 更新

母親

娘は自閉症で、言葉で伝えることは苦手でしたが、しぐさや行動で自分の気持ちを伝えてくれました。家ではアイスクリームが大好きで喜んで食べていました。パンも好きで固めのパンを好んで食べていました。親が言うのはおかしいかもしれませんが、本当にかわいい子で小さなころから友だちに好かれる子でした。バレンタインデーに女の子から手作りのチョコをもらったこともありました。本当に愛おしくて、娘の顔をずっとみつめてしまうこともありました。障害に合った専門的な学びを受けられる場がいいか、多くの子どもたちに受け入れられる状況が良いかなど、「少しでも娘にとって良い環境を」と考えて育ててきました。幼いころは階段をのぼるのも一歩一歩という感じでしたが、保育園に通うようになって長距離の散歩やマラソンもできるようになりました。保育園から高等部に通うにあたって、みんなの手助けもあり成長していきました。おちゃめなところもあって、夏場に教室でみんなが暑さにバテてしまっている時には、気がついたら隣の部屋に行って扇風機で涼んでいたこともありました。娘がいたことで「クラスが明るくなった」と伝えてくれた同級生もいました。良い先生たちにも恵まれ、ある担任の先生は娘との出会いをきっかけに特別支援学校の教師への道を選んだと話してくださいました。娘の思いも伝わっていたのだと思います。

やまゆり園には4年前に入所しました。事件の日、夜になって初めて娘と対面しました。すでに棺に納められていて、抱きしめることさえできずに嗚咽しました。ずっと顔を見ていたかったけれど「次の人もいるので」と言われ、去らざるをえませんでした。告別式には、友だちや元同級生の親御さん、それに先生や園でお世話になった多くの人が集まってくれました。娘は友達が歌っているのを聞いてからスピッツの「チェリー」という歌をとても気にいっていたので、皆で聞いて、たくさんの花で囲まれながらお別れしました。しんみりしたお葬式と違って、娘が残してくれた楽しかった思い出も振り返りながら偲びました。

まま

娘は中学生の時、書き初めで「まま」という字を書きました。他の字を書いていたのに、だんだん「まま」「まま」とばかり書くようになって、それが嬉しくて、告別式の時に「まま」という字を写真にしました。娘の写真とともに、いまも肌身離さず持ち歩いています。
事件後、気落ちしていた時に、小さい頃の娘が夢に現れてくれたときは「やっと会えた」と嬉しかったです。また夢に現れてほしいと願っています。

事件は、精神鑑定にかなり時間がかかっていたのでどうなるのだろうかと不安でしたが起訴されたのは良かったと思います。被告は反省もしていないのでしょうが、裁判が始まったら、どのような形になるかはわかりませんが気持ちは伝えたいと思います。みんなそれぞれ考え方が違うと思いますが、私は事故や災害であれば名前を出したと思います。ですが、このような形で娘を奪われ、いなくなってしまったことがあまりに辛く、いまは伝えられずにいます。被告に一番言いたいことは、ただただ「私の娘を返して」ということだけです。

母の手紙・似顔絵

娘は一生懸命生きていました。

福祉関係者

パンが大好きな方でした。大きな瞳をくるくるさせている表情が、とても心に残っています。不思議な魅力があり、支援者からはとても人気がありました。彼女が亡くなったと人づてに聞き、絶句して涙を流すスタッフもいました。

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