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関東大震災100年 “キャメラを持った男”の実像~映像で残された巨大災害~

  • 2023年8月25日

テレビ放送が始まる30年も前に発生した関東大震災。巨大災害の映像は、その当時としては異例とも言えるほどの多さで残されている。
しかし、これまで「カメラを回した」人物にどんな背景があったのか、意外なほど焦点はあてられてこなかった。発生から100年たったことし、撮影者に光をあてた映画が制作された。
(首都圏局《現・映像センター》/映像制作 石井孝典/カメラマン 井出健太)

“扱いにくい”映像

筆者(石井)は長く、ニュース番組の映像編集を行ってきた。自分なりに積極的に取り組んできたのが過去の映像の掘り起こしだ。明治から昭和にかけて一般の人々が撮影した地域の映像アーカイブをまとめて放送したこともある。その原点となるのは、祖父の家で昭和時代に見た、8ミリフィルム映像。
自分が生まれる前の時代なのに、タイムスリップしたような気持ちになったのを、鮮明に覚えている。

関東大震災の映像は、これまで何度もニュースの中で扱ってきた。NHKのアーカイブスにはたくさんの資料映像が残されている。しかし、違うタイトルの映像なのに同じカットがあったり、直前と直後のカットで場所が大幅に飛んでいたり、そもそも、どこで撮影されたのかがよくわからないカットがあったりする。
撮影場所や権利などに配慮しなければならない編集担当者としては、扱いにくい映像だったのも事実だ。

そんな中、一つの映画が作られていると耳にした。
「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」
関東大震災の映像を記録したカメラマンたちに焦点をあてたドキュメンタリーだという。
制作にあたったのは過去のフィルム映像の保存活動に取り組む「記録映画保存センター」だ。

1カットごとに検証

なぜいま、撮影した人たちに焦点をあてた映画を作ったのか、
演出の担当でアーカイブ映像を活用した記録映画の制作を行っている井上実さんに話を伺った。

井上実さん
「関東大震災のフィルムは歴史的な大事件だったのにかかわらず整理できていないという背景があったんです。この映像って誰が撮ったんだろうか。そもそものオリジナルって誰なんだろう、というところから始まったんです」

撮影されたフィルムは地震のあと複製され、複数の映画会社が編集し、全国の映画館や集会場などで公開されてきたという。その過程で、撮影者や撮影された場所などの情報が不明確になってしまっていたのだ。
そこで井上さんたちは、いつどこで撮られた映像なのか都市史・災害史が専門の田中傑博士(工学)など専門家に分析を依頼した。作業は、1カットごとと途方もないものだ。

まず、画面の中に目印となるものを探す。路面電車の軌道、会社や店名が判読できる看板。それらと昔の電話帳や社史、絵葉書などにあたって撮影地点を絞り込む。撮影地点とカメラの向きを特定できれば、フィルムに写った人物や建物の影の向きに着目することで撮影時刻を推定できる。また、火災の延焼の状況を示す「東京市火災動態地図」と照合する事で、その推定に矛盾がないかを確認する。その様子はさながら、推理小説を見るようであった。
 
映画で焦点をあてたのは、3人のカメラマン 岩岡巽、高坂利光、白井茂の3人。
地震の揺れや火災の被害を受けた町の様子や避難する大勢の人たちの姿を映像に収めていた。

“謎多きカメラマン”岩岡巽の足取りを追う

中でも私が注目したのは撮影技師・岩岡巽だ。彼の映像は「岩岡商會」(岩岡が設立した映画製作会社)のものとして、さまざまなフィルムに残されている。その一部はNHKのアーカイブスにも保管されていて、これまで多くのニュースに資料映像として放送に使ってきた。
その一方で、撮影した時の手記などが残されておらず、これまでほとんど詳細がわかっていなかった人物だという。今回の詳細な分析で、その岩岡の足取りが映像とともに浮かび上がってきた。

彼が地震発生後、最初に撮影したとみられる映像の一つ。現在の東京・台東区の入谷付近。
通りの建物と太陽光のあたり方などから、撮影時間は9月1日の午後1時ごろとみられることがわかった。
地震の発生からわずか1時間ということになる。しかしすでに、道は避難者であふれている。

その後撮影したとみられる火災の映像。岩岡が浅草に向かおうとしている途中に撮影した映像だと考えられる。

上部が倒壊した当時の浅草のランドマーク「凌雲閣」。間近から撮影している。

そして浅草寺の前。家財道具を荷車に載せた避難者がひっきりなしに通っている。右奥は火災が迫っていた両国方面だ。人々が向かっているのは、上野方面だった。
 
これらの分析から、地震発生時に岩岡は下谷区、現在の台東区根岸にあった「岩岡商會」かその付近にいて、すぐにカメラと三脚を持って撮影に出かけ、浅草方向に向かっていったことが推定される。

さらに、火災の延焼が広がり続けた地震の翌日も岩岡たちは撮影を続けていたことがわかったという。

9月2日の午前7時から8時ごろにかけて撮影された鶯谷駅付近の線路上にあふれる避難者の様子。
日が当たる方向や火災の状況などから、その日時が特定された。

その後、上野駅方面で撮影された映像。
多くの避難者と、浅草方面から迫る火災の様子が収められている。
最後のカットは、人で埋め尽くされた上野広小路だった。
 
関東大震災の火災はかつての東京市の4割を焼失したという。この一帯は2日の時点で、大半が焼け野原となっていた。

岩岡が撮影したと推定されるルート(青のピンは1日 緑のピンは2日)

当時の機材は

ここで当時の機材がどのようなものだったのか、振り返りたい。
カメラの重さはおよそ10キロ、そして同じような重さの三脚もあった。スマートフォンで簡単に映像が撮影できる現在では考えられない労力がかかっていた。
さらに撮影媒体はフィルムなので、今のように失敗したらその場で消去して撮り直す、というわけにはいかない。一本のフィルムに撮影できる映像はせいぜい3分くらい。まさに、「一瞬を切り取って」いたのだ。
燃え広がる中、これだけの距離を歩いて映像に残すことの大変さが私も少し実感できた。    

岩岡巽とは誰か?

このように貴重な映像を残した岩岡巽とはどんな人物なのか。

国立国会図書館の資料などによると、岩岡は実業家、梅屋庄吉が設立した映画会社で撮影技師となり、その後大正5年に「岩岡商會」を起業。皇室行事や大相撲の撮影を行っていたという。
いわば、報道カメラマンの先駆けとして評価を得ていたという。
関東大震災発生時、29歳の若さだった。
 
その若さで巨大災害に直面した岩岡は、どんな心境で撮影していたのだろうか。
手記など、直接うかがい知る資料はまったく残されていなかったが、今回映画ではお孫さんに話を聞いていた。小宮求茜(きゅうせん)さん。書家として活動されている。私も話を伺うことにした。

祖父の岩岡とは幼いころの思い出しかないというものの、「優しい人」という印象がはっきり残っているという。

岩岡巽の孫 小宮求茜さん
「当時、病弱でベッドで横になっていた時、『あなたは死なないから大丈夫』と声をかけてくれたんです。それで気が楽になったのをよく覚えています」

直接、関東大震災の話は聞いたことはないが、震災を撮影していたことは母から伝え聞いていたという。
特に覚えているエピソードを聞くことができた。

“こんなときに撮影してんのかよ!”

小宮求茜さん
「人々が避難してくる方向に向かってカメラを持っていくので『邪魔だ!』と怒声を浴びせられたそうです。
それで、鉢巻きをまいて、決死隊のようなかっこうで撮影したんだそうです。そうすると、人々も、『私たちとは違う目的の人たちなんだ』と思ったようで、声をかけてこなかった」

改めて岩岡が残した映像を見てみる。

入谷付近の避難者を撮影したカットの冒頭部分に、帽子をかぶった男性が映り込んでいる。助手だろうか。
手は斜め下を向き、明らかにカメラを守っているようだ。手の向こう、こちら側(カメラの方向)を見つめる男性もいる。小宮さんの話を聞いてから見ると、どことなく緊張感がただよう。

ほかのカメラマンの手記などからは、

 「こんなときに撮影してんのかよ!」

 このような罵声を浴びせかけられたり、暴力を振るわれたこともあったりしたという。
 カメラというものすら一般的でない時代、岩岡たちは混乱を極めていた災害現場で、誰に命じられたわけではなく、みずからの使命感で撮影し続けたのだ。

フィルムを守り切った岩岡

岩岡は昭和30年に61歳で亡くなったが、小宮さんによると、フィルムは一度、焼失の危機に瀕したという。
地震のおよそ20年後の太平洋戦争。東京は空襲に晒され、岩岡商會の建物も全焼した。
小宮さんによると、その前に岩岡はフィルムを会社のあった鶯谷の敷地に埋めていたのだという。

小宮求茜さん
「空襲のあと、この辺りじゃないかと掘ってフィルムが出てきた時は大変うれしかったそうです。大事な記録だったんだと思いますよ」

“アーカイブ”することの意味

100年前の映像を中心とした映画をいま制作する意味はどんな所にあるのだろうか。映画を演出した井上さんは今回のプロジェクトを「“保存”から“活用”のためのインフラ整備だ」とたとえた。

井上実さん
「アーカイブされたフィルムから我々は歴史を学び新たな発見をする事ができる。記録がなければわたしたちは事実を確かめることもできないし、過去の成功や失敗から学ぶ手立てを失う。フィルムアーカイブは私たちの文化遺産の一部として欠くことのできないものだ」

災害に限らず、記録を残すことの重要性はたびたび指摘されている。
私たちも、映像を保存する「アーカイブ」という仕事を担っている。撮影者、場所、日時、内容、権利関係などを記録した情報を日々記録する地道な作業だ。
しかしこれがどれだけ重要な意味を持つのか、私自身分かっていたつもりだったが、まだまだだった。

ただ単に映像を「保管する」ことが映像をアーカイブする仕事ではない。
何を伝えようとしているのか、その真実にわずかでも迫ることなのだ。

  • 石井孝典

    首都圏局 映像制作

    石井孝典

    映像編集デスクとして首都圏のニュース制作にあたる。 歴史的な映像を元にしたリポートや番組の制作をライフワークとしている。

  • 井出健太

    カメラマン

    井出健太

    2012年入局。京都局ー報道局などを経て首都圏局に。カメラマンとして入局し、去年から7月まで記者として首都圏の取材に携わった。取材を経て、改めて災害報道の意義を考えさせられました。

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