蛇口をひねれば、すぐに水が飲める。そんな光景は、今の私たちには当たり前かもしれません。都内1400万人あまりの生活を支える「東京の水」。
その「源」はどこにあるのかご存知ですか?
(首都圏局/記者 生田隆之介)
私たちが目指したのは、山梨県にある笠取山。
登山道を1時間半ほど歩いた先に、「水干(みずひ)」と呼ばれる、多摩川の水源があるというのです。
11月10日午前6時、渋谷のNHK放送センターを車で出発。
2時間余りかかって、山梨県甲州市にある都の管理施設に到着しました。
この時点で、すでに標高は1000メートル超え。外の気温は4度。11月上旬と考えると、寒い。
登山道を徒歩で登るのが通常のルートですが、管理用の山道を都の担当者の車に同乗して特別に通行させてもらいました。
一般車両が入れないゲートをくぐったところで、車を降りました。
すでに空気が澄んでいて、思わず深呼吸。木や土のにおいがします。山から流れている沢の水は、数メートル離れた場所からでも川底の様子がはっきりと見えるほど、透き通っていました。
飲めそうですね。飲んでもいいですか?
ちょっと待った!
それが、飲めないんです。実は、近年、森林内に増えている鹿の糞尿や、死がいが混ざっていて、目には見えない菌がたくさん潜んでいます。飲むと、確実におなかを壊しますよ。
聞けば、鹿の増加は、私たちの水にも大きな影響を及ぼしかねないと言います。
そもそも、生活用水に使う水は、山に降った雨水が、川を流れて貯水池にためられ、浄水場を通って、私たちの家に届けられます。
この貯水池に川から土砂が流れ込んで積もると、しだいに貯水量が減って、水質も悪化します。
このため、流れ込む土砂の量を抑えることが必要で、その役割を果たしているのが水源林です。雨が降ると、斜面の土が雨水で削られ、川に流れ込みますが、枝葉や草、落ち葉などで土が覆われた水源林はクッションの役割を果たして土砂の流出を防ぐとともに木々の根が地面を支え、大規模な土砂災害も防ぐのです。
鹿は、この水源林の植物や樹木の皮を食べてしまいます。
つまり、鹿が増えれば、水源林を支える植物がなくなって、土砂の流出や災害を引き起こし、水質に影響を及ぼすというのです。
このため、都は鹿の侵入を防ぐ柵を設置したり、樹木の1本1本にネット巻いたりするほか、猟友会に捕獲をしてもらったりして対策を進めています。
車はどんどん山道を進み、余裕のあった道幅は、車1台がぎりぎり通れるほどに。急角度のカーブを曲がるのも、一苦労です。
1時間ほど走ったところで、山小屋に到着しました。標高は1776メートル。ここからは、徒歩で「水干」に向かいます。
10分ほど歩いたところで、開けた場所に出ました。
澄んだ青空が広がる南側には、富士山の姿をはっきりと見ることができます。
また、西側に目を向けると、今度は日本で2番目に高い北岳の頂上も見えます。
これ以上ないほどの絶景です。
ここには、小さな石碑がありました。
『小さな分水れい』と呼んでいる場所です。この場所から西側に降った雨は、山梨県に流れる富士川に、東側に降った雨は荒川に、南側に降った雨が、多摩川に流れ込みます。この場所を境界に少し降る場所が違うだけで、3つの川に分かれるのは不思議ですよね。
さらに10分ほどいくと、看板に古い写真が見えます。
ちょうど100年前のこの場所の様子を映したもので、登山道は同じように見えますが、その両脇には1本の木もありません。
ここはかつては『裸山』でした。100年前、水道の管理をしていた当時の東京市長がこの場所に植林することを決めました。このため、ここにある木は、すべて樹齢100年前後のものになっています。
この山はもともと、江戸幕府が管理をしていました。
地域の農民が「まき」などを生活資源として、必要な分の木々を採取することが認められ森林の手入れを担っていました。
ところが、明治政府の管理下に置かれたあと、焼き畑を原因とする山火事や伐採が進み、木々がほとんどなくなりました。
これにより、少しの雨が降っただけでも、大量の土砂が川に流れ込み、洪水や土砂崩れを引き起こす状態になっていました。
こうした事態を防ぐために、この場所が管理されることになり、苗木を植えたことが、「水源林」の始まりになったのです。
100年にわたって守られてきた水源林。長い時間に思いをめぐらせながらさらに歩くと…。切り立った崖にたどり着きました。
ここが、『水干』です。
切り立った崖の中に、大人がかがんで上半身が入る程度の小さなくぼみがあります。
その中に「受け皿」のようにへこんだ岩と、その上には拳大の小さな穴。
ここが目的地、東京の水のはじまり「水干」です、が…。水がどこにも見当たりません。
ここ最近、晴れの日が続いたので、乾いていますね…
残念ながら、この日は水が出てくる様子を直接見ることはできませんでした。
まとまった雨が降ったあとには、水干から水が出てくる様子が見られるということです。
デスクに取材の結果を報告しました。水源林の歴史や背景についても詳細に説明。
すると、ありがたいひとことが。
めっちゃおもしろいなあ。それだけに、どうしても『水干』が見たくなるなあ。もう一回登ってみる!?
冗談かと思いましたが、この10日後、都内は雨の予報。雨が降れば、水干から水が出る“ワンチャン”があるかも…。雨が降った日の翌朝、再びチャレンジしました。
山には、ちゃんと雨は降っていたのか…。不安な気持ちを抱えながら山を登ります。山中は、以前来たときとは違ってしっとりとぬれていて、ぬかるんでいる道もあります。ただ、ところどころ乾いている場所も。
山岳取材専門のカメラマンもその様子を見て「山はそんなに雨が降ってなかったのかも…」と不穏なひとことをこぼしています。
しかもこの日、午前中は雨の予報でしたが、山小屋に着くころには、青空が見え始めていました。
「水よ、したたってくれ…」
祈る思いで水干をのぞき込みます。
ぽたり。
目をこらさなければ見えないほど、ほんの少しでしたが、水がしたたり落ちました。
「これが最初の一滴か」と感慨もわきましたが、ほっとした気持ちも大きかったです。
さらに、水干から60メートルほど下にくだったところにも案内してもらいました。
岩の隙間から、ちょろちょろと水が流れ出ています。
これは、多摩川です
指の第一関節もないほどの深さで少しずつ流れ出ている水。水干から地中にしみこんで多摩川として最初の流れ出ている場所だといいます。
ここから山中を流れながら、だんだんと大きくなって、私たちの住むまち中を通り、東京湾まで138キロの距離を流れていくというのです。
この水源林を保全する活動として、とりわけ重要なのは「手入れ」です。
森林に光を入れるために木を切る「間伐」や枝打ち(枝の切り落とし)など、手入れが欠かせません。
こうした作業の大部分は、都が委託した造林業者が行っていますが、都によりますと担い手は、年々少なくなっていて、昭和40年には2700人ほどいた都内の林業従事者は、現在では500人程度になっているということです。
こうした状況で、20年前から、都は水源林の手入れを手伝ってもらうボランティアを募る事業を始めました。11月現在、登録している人は1000人を超え、週に3回ほど、15人ほどのグループで山に入り、枝打ちや間伐などの作業を行っています。
安心・安全といわれる東京の水。100年以上前から、人の手で守り継がれてきた結果、蛇口をひねれば、安心して水が飲める日常があることに気づかされました。
私たち一人ひとりが、蛇口をひねるときに、水がこうしてたくさんの人の手で守られていることに思いを至らせ、大切に使うことが、将来にわたってこの環境を守ることにもつながっていくと思います。