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鉄道150年 東京・新橋で再開発目指す動きも 親子3代で街を見る女性は

  • 2022年10月14日

日本で最初の鉄道が新橋・横浜間に開業して10月14日で150年になります。
新橋駅周辺の街は「サラリーマンの聖地」とも呼ばれ、鉄道とともに発展してきました。
いまは再開発を目指す動きも出ていて、近い将来には、昭和の雰囲気を色濃く残す駅前の歴史あるビルもなくなり、街の風景は一変するかも知れません。
そのビルで商いを続け、親子3代にわたって街の移り変わりを見つめてきた女性に、いま何を思うのか話を聞きました。
(首都圏局/記者 辻智史)

レトロなビル 昭和の香り今も

新橋駅の東側に広がる高層ビルが建ち並ぶビジネス街「汐留シオサイト」。平成初期から始まった旧国鉄の貨物駅跡地の再開発で生まれた街です。
150年前に鉄道が開業した当時、新橋駅は現在の場所ではなく、およそ300メートル離れたこの汐留地区にありました。鉄道の建設時の測量起点となる最初の杭が打たれた地点には今も記念碑が残っています。

その汐留地区背にして駅前に建っているのが、新橋のランドマークの1つとも言える「新橋駅前ビル」です。格子柄のデザイン、そして、入り口にどっしりと構える、大人の背丈ほどの高さがある「開運狸」の像。建設から50年以上がたち、新橋ならではの昭和の雰囲気が色濃く残っています。

このビルに事務所がある不動産会社の社長、川田圭子さん(67)は、新たな鉄道の開通など、街が激変していく様子を見続けてきました。

川田圭子さん
「昔の汐留は高い建物がほとんどなくて、海風が新橋駅まで吹いてきていました。当時はこの地区だと『新橋駅前ビル』が一番高い建物でしたね。その後、再開発で高層ビルが次々と建てられ、新たにゆりかもめや都営大江戸線も開通し、辺り一帯はずいぶん様変わりしました」

親子3代 新橋で商い

川田さんは、「新橋駅前ビル」が建っているこの地区で、祖父の代から70年以上にわたって不動産業を営んできました。
会社を立ち上げた祖父の吉村剛さんは、戦後、この地区に闇市が広がる中、各商店をまとめあげて「狸小路共榮会」という商店街をつくるのに尽力したといいます。

この「狸小路」という名前の由来になったのは、150年前の新橋駅開業にまつわる言い伝えです。
それはこんな内容です。

明治時代に駅の建設が始まった時、タヌキの巣が見つかった。
作業員が餌をやり小屋を建ててかわいがっていたが、いつしかタヌキがいなくなると、残された小屋に人が集まって酒を飲むように。
しだいに飲食店街ができ「狸小路」と呼ばれるようになったーーー。

「新橋駅前ビル」の「開運狸」もこの言い伝えをもとにつくられました。

当時の商店街の写真を見ると、小料理店や居酒屋など木造の家屋がひしめき合うように建ち並んでいたことがわかります。

川田圭子さん
「表通りに面したところだけではなく、裏通りだから出せる雰囲気、少し奥に入っていかないと分からない、隠れ家としての雰囲気がありました」

1954年には、圭子さんの父親の進さんが会社を継ぎます。その後、地区では東京都の再開発事業が動き出しました。「狸小路共榮会」がある地区一体も対象となり、その跡地に建設されたのが、現在の「新橋駅前ビル」です。
進さんのもとには、各店舗から「新しいビルになっても、今のような雰囲気や店構えを残したい」という声が数多く寄せられたといいます。

「新橋駅前ビル」は1966年に完成。

進さんの会社が所有する地下1階の飲食店街の区画には、裏通りとも言える細い通路が設けられ、店がひしめき合う今の形になりました。
各店舗の願いが反映され、当時の狸小路の面影が残ることになったのです。

新橋ならではの魅力

現在の“狸小路”で、45年にわたり営業を続けるこの小料理店。5人ほどが席に座ると満員になる小さな店です。

店主 石渡優織さん
「ここは1人で来ても、私やほかのお客さんと会話して、愚痴やら何やらを吐き出せる場所。小さいお店だから、お客さんどうしの会話も聞こえるし、その会話に入っていける。1人で広いお店に行ってもわびしくなるばかりですよね」

取材した日も、40代50代のサラリーマンの男性3人が初めて店を訪れ、石渡さんと話をしながらくつろいだ様子で過ごしていました。

訪れた客
「あっちに寄ってみようかな、こっちに寄ってみようかなって、ちょうちんを見ながら歩いて、いろんなお店に立ち寄ることができる。飲んでいるみんなが楽しそうに見える、そんなふうな世界が新橋なんだと思います」

長引くコロナ禍で一時は客が激減しましたが、最近では、昔ながらの昭和の雰囲気にひかれて若い世代が店を訪れることも増えているといいます。

店主 石渡優織さん
「この前も20代の子が来て、『お母さんおもしろいね、料理もすごくおいしいし、また来るね』って言われたりして。若い子においしいって言われたらうれしいね」

親子3代の思いを胸に

新橋駅東口地区再開発協議会のホームページより

分け隔てなく多くの人々を受け入れてきた新橋の街。そんな街にいま再開発を目指す動きが出ています。

「新橋駅前ビル」を含む駅の東側の地区や、駅を挟んで西側のランドマーク「ニュー新橋ビル」を含む地区では、それぞれ再開発のための協議会や準備組合が結成されています。
再開発が決まり、合意形成などが順調に進めば、双方とも新しいビルに建て替えられることになります。

川田さんも、協議会に理事として加わっていて、再開発を進めたいと考えています。
そうした立場になって思い起こすのは、目と鼻の先にある汐留地区の再開発のことです。

1999年に父親の進さんから会社を継いだ川田さんは、汐留の激変を期待と不安が入り交じる気持ちで見つめていたといいます。次々と超高層ビルが建って発展するのはいいが、“狸小路”は新しい飲食店に客を奪われてしまうのではないか。
しかし、にぎわいは失われませんでした。
新たに汐留地区で働くようになった人たちも「新橋駅前ビル」にやってきて、新たな活気が生まれるようになったのです。
その時に大切だと感じたのが、祖父や父が守り続けた“新橋らしさ”だったといいます。

川田圭子さん
「狸小路の雰囲気を守ってきたからこそ、今でも心温かに、かっこつけずに気楽に飲んだり食べたりできるという魅力が残り、それが新しく汐留に通うことになった人たちも引きつけてきたのだと思います」

川田さんはいま、“狸小路”の各店舗などと話し合いを重ねて、新橋の魅力をどうすれば次世代に残していけるのかを探っています。
新たな再開発でも、親子3世代で大切にしてきた思いを生かした街づくりができればと考えています。

川田圭子さん
「私としては、今ある魅力が新橋らしさなんだと思います。駅の近くにくつろげる場所があって、家に帰る前の『もう一つの家』になってきたからこそ『サラリーマンの聖地』として愛されてきました。そんな温かさがあってこその『新橋』なんだと思います」

取材後記

「お酒を飲んでいるみんなが楽しそうに見える」
小料理店のお客さんのこの言葉。学生時代に汐留地区でアルバイトしていた私も、「新橋駅前ビル」の“狸小路”を初めて訪れた時にまったく同じ思いを抱きました。温かい雰囲気にどこか懐かしさのようなものも感じました。
そんな思い出から、鉄道開業150年を迎えるいま、このビルの歴史や行く末を深掘りしたいと考え、取材を始めました。

小料理店の店主の石渡さんに再開発について聞くと、「若い人のアイデアが発揮されるようなおもしろい街になってほしい」と期待を語ってくれました。

今の“新橋らしさ”は将来どうなっていくのか。その魅力に引き込まれた1人として、これからも“狸小路”を見つめていきたいと思います。

  • 辻 智史

    首都圏局 記者

    辻 智史

    2022年入局。秋田県出身。

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