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森鷗外 没後100年「いまこそ読みたい鷗外(2) 村田喜代子さん」

  • 2022年7月15日

2022年7月9日、没後100年を迎えた明治の文豪・森鷗外。近代文学の父とも呼ばれる鷗外ですが、その文体の難しさに、学校の教科書で挫折してしまったという人もいるかもしれません。そんな一度は鷗外から離れてしまった人たちへ・・・。インタビューシリーズ第2回は、鷗外ゆかりの地、北九州市出身の芥川賞作家、村田喜代子さんです。没後100年を機に、鷗外作品をあらためて手に取ったという村田さん。どんな思いで、作品、そして鷗外に向き合ったのでしょうか?
(首都圏局/ディレクター 大森健生、北九州局/広報 藤丸泰成)

“鷗外は無理無理とずっと敬遠していた”

1987年に『鍋の中』で芥川賞を受賞し、その後も作家として第一線を走り続けてきた村田喜代子さん。77歳を過ぎたいまも、精力的に執筆活動を続けています。

そんな村田さんが生まれ育った北九州市にゆかりのある鷗外。37歳の時に軍医として赴任し、約3年間を小倉で過ごします。鷗外作品には、小倉での生活を書いたものもあり、村田さんも日頃から鷗外作品には触れてきたのではと思っていましたが、話をうかがうと意外な答えが返ってきました。

作家 村田喜代子さん
「私、北九州の八幡で生まれたんですね。小倉は、鍛冶町というところに飲みに行ったりして。鍛冶町は森鷗外が3年近く住んでいたところなんですね。自分の守備範囲の街なんですが、森鷗外とはどうしても結びつかない。
森鷗外といえばすぐに『阿部一族』、『高瀬舟』、うわー、無理無理という感じなんですよ、私には。おもしろくないという感じですね。お顔を見ても陸軍軍医総監。無理無理みたいな感じなんですよね。それでずっと敬遠していたんですよ (笑)」

しかし 『鶏』が自分と鷗外をつないだ

なかなか自身と鷗外を結びつけることができなかった村田さん。しかし、鷗外没後100年のことし、仕事で鷗外を見つめ直してみないかと声がかかり、作品をあらためて読んでみることに。
手にしたのは小倉を舞台にした作品『鶏』でした。

村田喜代子さん
“自分はこの年で、大事なことを見過ごしてないかな”と思って。鷗外が小倉で暮らした3年近くのあいだを一番手に取るように描いているのが『鶏』という短い本なんですね。それを借りてきて、あっという間にもう、20~30分で読んじゃったんですね。そしたら、なんかすごい胸がいっぱいになったんですよ」

文京区立森鴎外記念館に展示された『鶏』

『鶏』は、小倉時代の鷗外の経験をもとに書かれた小説で、『独身』『二人の友』とともに、小倉三部作と称される作品です。

『鶏』
作家の分身とおぼしき主人公・石田少佐が小倉に単身で赴任し、借家を借り、使用人を使い現地の人々と交流する様子が描かれています。

あらすじ
主人公の石田は、小倉への単身赴任を左遷と捉え、どこか失意に不満の影がにじんでいる。ぶっきらぼうな物言いに、はじめのうちは地元の使用人たちも物おじ。しかし、次第に石田に慣れると、こっそり目を盗み、台所の米を盗むなど、悪事をはたらきだす。
中でも馬の世話人は、自分の鶏を石田の飼う鶏の中に混ぜて買い、どの鶏が卵を産んでも「自分の鶏が産んだもので」と言い張る始末。
悪事を見かねて、周囲がその事を本人に伝えるも、石田はなぜか、彼らを怒らない。

村田喜代子さん
「鷗外は謹厳実直、真面目。それを絵に描いたような人だった。しかし北九州・小倉に来て、そこで彼は初めて“庶民”を見るんですね。ただ当時、鷗外の周りにいた庶民というのは、雑ぱくで、すきを見せたら何をやるかわからない人々だった。
私たちからすると、『なんか小ずるい』とか思うんですけど、そうじゃなくて、鷗外にすると、そのずるさは、“生活力”なんですよね。そういう人々と出会った時、したたかさに直面した時のまなざしが、鷗外の温かさなんだと読んでいてわかるんです。そして、鷗外は、絶対に読んでいて思わず微笑が湧くような書き方をするんです。どんなに小ずるくても、優しいんですよ。なんでこんなに優しいんだろうと思うんです」

地元北九州の当時の暮らしが描かれた『鶏』。村田さんは鷗外没後100年のことし、ぜひ北九州の子どもたちにも『鶏』を読んでほしいと話します。

村田喜代子さん
「夏休みの教材にして、子どもたちに感想文を書いてもらったらおもしろいと思うんですよね。作品はそんなに難しいことを書いてるわけじゃないから。
子どもたちが読んだら、『何だよ、小ずるいやつばっかり』とか感じると思うんですよね。でも、庶民はたくましくて悪知恵があって、生きていくためにはいろんなことをやったんだという・・・。100年前ですからね」

鷗外の人柄を “鷗外以外”から知る魅力

『鶏』をきっかけに鷗外作品を読み進めたという村田さん。次第に“鷗外自身がどんな人物だったのか”ということについても考えるようになりました。その中で、鷗外作品からだけでなく、別の作品からも鷗外を知ることができると薦めてくれたのが、『父の帽子』。鷗外の娘・森茉莉さんの作品です。『父の帽子』に描かれた鷗外と村田さんご自身の父親を重ねながら話してくださいました。

村田喜代子さん
「森茉莉の『父の帽子』というエッセーがあって、これはすごいいいんです。そのエッセーの中で、『ぱっぱ』と言って茉莉が後ろからしがみついて、『遊んで遊んで』みたいにやるんですよ。そうしたら、鷗外が抱いてやって、必ず葉巻を置いて、たばこを置いて抱いてやる。膝に乗せてやる。そのときに、『お茉莉は上等よ』と言うんですよ。私はそのときに、『はあ、なるほどな』と思ってね。そうか。自分の子を上等よというのかと思ってね。口癖なんですって。そしたら茉莉もお父さんにしがみついて『ぱっぱも上等よ』と。『ぱっぱなら泥棒しても上等よ』と言うんですよ。これにはもうまいりましたね。鴎外は泥棒しませんけど、ぱっぱなら何をしても上等よということなんですよね。この愛情のきめ細かさね。
私が、自分が産まれたときには父がいなかったから、父親というのがわからないから、『ぱっぱは上等よ』『泥棒したって上等よ』そんな親子関係があるのかと思うんですよね。すごくうらやましい。私は父に何て言ってもらえるんだろう。でも、上等ではないだろうな」

硬い印象の鷗外作品からはなかなか見えてこない、娘を愛する父としての鷗外。
その人間性を茉莉さんの作品から感じることができます。

『父の帽子』
「私の父は頭が大きかったので」から始まる、森鷗外の娘・茉莉の回想記。
父・鷗外の愛を一身に受けて成長した娘・茉莉の、日常の中の小さな出来事が題材となっており、家族でしか知り得ない鷗外の、貴重な私生活の一場面が繊細に描かれている。

鷗外作品に見る “たくらみ”と“人の心”

これまでどうしても無理だと鷗外作品を敬遠していた一人である村田さんですが、没後100年を機に読み返してみると、やはり、そこには100年読み継がれる魅力があるといいます。いまこそ感じてほしいという、“村田さんが捉える鷗外”とは・・・。

村田喜代子さん
「鷗外の作品って“硬いね”って思うと、どうして鷗外はこれほど硬く書いたのか、どうしてこんなに面倒くさくいっぱい人間を出したんだとか・・・、それには意味があるんです。
作家にはくせがあって、どうしてこんなにも面倒くさい書き方をするんだろうとか読む人は思うかもしれないけれど、それはその作品をそのように作家があえて書いているんですよ。それも作家の“たくらみ”なんですね。だから、鷗外作品も、その作品1つのその文体まで、構成から文章の“面倒くささ”まで全部含めて鷗外なんですよね。
そして、鷗外は、人間の心に入り込んで一人一人書いていく。一人一人を克明に、誰も粗末にしないできちんと書いていく。克明に物事を記述して、どんな脇役の人もその心をきちんと書き込んでいくので、鷗外の分け隔てのなさとかを感じますよね」

没後100年 いまこそ鷗外を“裏口”からものぞいてみませんか

没後100年。村田さん自身も、あらためて触れ直した鷗外作品。最後に、その難しく硬いながらもにじみ出る、鷗外自身の豊かさや優しさを、 “家”にたとえて語ってくださいました。

村田喜代子さん
「私たち作家は、いわゆる誰もが知っているような、“正面玄関の作品”だけでは、作家の評価をしないんですね。作家というのはやはり、謎を含めば含むほど、矛盾を含めば含むほどおもしろいんですよね。その一番難易度の高いところ、鍵がなかなか開かないところに作家としての鷗外があるんですよね。最初にコンコンってしてもなかなか出てこない。鷗外の作品は、戸がいっぱいあるんですよね。表の戸も裏の戸もあって窓からも入れるんですよね。まったく相反するようなものをちょっと探して、そっちからちょっとのぞいてみるとかするのもおもしろいと思うんですね」

  • 大森健生

    首都圏局 ディレクター

    大森健生

    東京都出身 2016年入局。 札幌局で戦争や領土問題などを取材、2020年から首都圏局で戦争や文学をテーマに取材を続ける。

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