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森鷗外 没後100年「いまこそ読みたい鷗外(1) 平野啓一郎さん」

  • 2022年7月8日

「鷗外ってなんか難しそう?」
2022年7月9日、没後100年を迎えた明治の文豪・森鷗外。国語の教科書の定番『舞姫』や、『高瀬舟』『雁』『山椒大夫』など、1,300以上の著述を遺し、いまなお多くの読者、そして作家にも影響を与え続けています。
ただ、その文体の難しさに、学校の教科書で挫折してしまったという人もいるかもしれません。そんな一度は鷗外から離れてしまった人たちへ、芥川賞作家の平野啓一郎さん、村田喜代子さんのお二人に、没後100年のいまだからこそ知りたい鷗外の魅力についてインタビュー!全2回シリーズでお伝えします。
(首都圏局/ディレクター 大森健生)

「いまこそ読みたい鷗外(2) 村田喜代子さん」の記事はこちら

作家・平野啓一郎さんに聞く「鷗外、すごいんです」

京都大学在学中に、『日蝕』で芥川賞を受賞した作家の平野啓一郎さん。鷗外を最も尊敬する作家の一人として挙げ、現在も精力的にその魅力を発信しています。

小学生の時に、『高瀬舟』を読んで以来、作品に隠された「人間への優しさ」に感銘を受け、全集はすべて読んだとのこと。鷗外について話を聞くと、“当時の最先端のTwitter”、“親ガチャ”、“アンチ自己責任論”など、思わぬワードの数々が。いまこそ知りたい鷗外、そしてその魅力について聞きました。

文京区 森鴎外記念館

作家 平野啓一郎さん
「鷗外作品は、ざっと読むとよくわからないという人も多いですが、何度も読んでいるうちに、“これはこういうことを言っているんじゃないのか”と、だんだん味がわかってくるところに魅力がある。没後100年のことし、これを機に鷗外を知るきっかけになれば」

実はふだん使いしている“鷗外のことば”

鷗外とは何者なのか?『舞姫』など小説家としてのイメージが強い鷗外ですが、文学以外にも医者や衛生学者としての顔も持ち合わせています。
さらに、戯曲の制作から都市計画へのアドバイスに至るまで幅広い活動をしていた鷗外。平野さんがおもしろいと話すのは、“翻訳者”としての一面です。

平野啓一郎さん
「文学者としての鷗外はもちろんのこと、医学や文学の他に、芸術関連の本など、有名なものからマイナーなものまで、かなりの数の翻訳をしています。鷗外は、翻訳のためにことばをたくさんつくったんですね。晩年は、『椋鳥通信』という、ちょうど今のTwitterのような感じで、そのときどきのヨーロッパの最新ニュースを日本語に翻訳して、数行で紹介していくようなことも。とにかくヨーロッパと日本との風通しを非常によくした人でもありました」

明治初期、開国したばかりの日本に、当時はまだ未知のものだった西洋文化を取り入れた鷗外。西洋と日本の狭間で、鷗外が生み出した「ことば」や「文体」は、芥川龍之介や三島由紀夫、また与謝野晶子や詩人の茨木のり子、そして近年では瀬戸内寂聴さんに至るまで、老若男女問わず多くの作家のお手本になりました。
江戸の日本文学と、ヨーロッパの影響を受けた明治以降の文学をちょうどつなぐ役割を果たした鷗外のことば。そのことばの中には、いまを生きる私たちが日常生活で使うものもあると話します。

鷗外に影響を受けた作家たち(文京区立 森鴎外記念館の展示より)

平野啓一郎さん
「例えば、今では誰もが知っている「業績」や「性病」、そして「○○的」ということばも鷗外がつくったんですね。「○○的」というのは鷗外がヨーロッパの言語、“なんとかティック”とかという形容詞を訳すときに、中国で、なんとかのという意味で使っていた「的」ということばを借用したという説があります。当時は、今のようなコンプライアンスなどのカタカナ単語をそのままふだん使いをしなかったために、何とかそれを日本語に訳そうとしていた。そのときに鷗外がつくったことばというのは、けっこう今でも僕たちが使っているものがたくさんあるんですね」

一度、鷗外を挫折してしまった人たちへ~いまこそ薦めたい作品2選~

意外にも私たちが使うことばと関わりがある鷗外。それでも教科書で出会った『舞姫』以降、読んでいないという人もいるのでは?
平野さんから、これから鷗外作品を読み始めようとする人たちへの、おすすめ作品を教えてもらいました。

平野啓一郎さん
「『舞姫』はすばらしい作品だと思いますが、まず最初に読むのであればもう少し平易な文体の作品もある。手のつけやすい短いものもあるので、まずはそこから鷗外に触れていくのもいいんじゃないかなと思います」

ハードルが高いと感じる人にまずおすすめだという作品が『花子』。わずか11ページほどの短編小説です。

(1)『花子』
目に見えるものだけが美しいとは限らない/鷗外が遺した“ことばの彫刻”

あらすじ
舞台はパリの芸術家・ロダンのアトリエ。そこへ通訳の久保田に伴われて、日本人の女優・花子が訪れる。ロダンは彼女の素描をするために呼んだが、久保田は見かけがみすぼらしい花子を紹介するのが恥ずかしい。やがて花子のデッサンを終えたロダンは、久保田に対して、西欧の美とは違う、張りつめた全身を持つ花子の美しさについて語るのだった。

 

『花子』は鷗外作品の気品と美しさが凝縮された、非常に短い作品です。
『考える人』で有名なロダンという実在の有名な彫刻家を主人公にした、アトリエでのちょっとした出来事を描いていますが、ロダンという芸術家のアトリエの、非常に澄んだ空気が満ちた創作の空間というのが的確に描かれていて、作品自体も、白い大理石で彫られたように感じます。日々インターネットなどことばがあふれる世界の中で、自分のことばの水準がだんだんと下がっていると感じている人が読むと、ことばのレベルが上がるような読書体験ができるんじゃないかと。決して日常ことばが必ずしもそんなに美しく彫琢されたことばでないといけないとは思いませんが、こういう日本語があるというのは、知ってもらいたいなと思います。

物語の終盤。ロダンが花子を描く間、書斎で待つ久保田が偶然、ある論文(エッセー)を見つけます。
それはパリの詩人・ボードレールのおもちゃについての論文。そこに書かれていたのは、「“こどもにおもちゃを渡すと、やがてはそのおもちゃをバラバラにしてしまうという性質”、そしてこの行動は、“このおもちゃのおもしろさの根源は何か知りたいという、人間ならではの、目に見えないものを追究したくなる衝動によるもの”」。論文を読んでいたらあっという間に待ち時間が過ぎ、ロダンから声をかけられます。

「ボオドレエルの何を読みましたか?」
「おもちゃの形而上学です。」
「人の体も形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔(ほのお)が面白いのです。」

(ちくま文庫 森鷗外全集2 p.112より抜粋)

 

これだけ短い小説の中に、鷗外はいくつも論点を提出しています。
1つは女性観の問題です。例えば、当時の日本人女性はヨーロッパでどう見られていたかとか、日本人から見て、その女性がどう見られていたかとか。また現代の我々から見ると、差別的に見えるかどうかなどです。
そして注目すべきは、作品では最後にボードレールの「おもちゃの形而上学」という短いエッセーに触れますが、これと花子という女性に対する認識と重なるように物語がつくられているところです。非常にさり気なく書かれているので、一見して読むと、関係していると思えないような書き方ですが、実はとても深く関係している。よく読むとつながっているという鷗外文学の味わい、そしてその深読みの仕方というのを学べる一冊かと思います。

 

続いて紹介していただいたのが、『最後の一句』。
こちらも17ページ程の、とても短い小説です。父の死刑を何とか回避しようと力を尽くす子どもと、その死刑を執行する役所との物語です。

(2)『最後の一句』
当たり前って、当たり前?その“違和感”を大切に 

あらすじ
元文3年(1788年)大阪の船乗り・太郎兵衛は、知人の不正を被ることで死罪に。家族は悲嘆にくれるが、長女・いちとその息子たちは父の無罪を信じる。死刑を執行する行政(大阪町奉行)に助命の願書を出し、父の代わりに、自身と兄弟たちを死罪にするよう申し立てる。

 

この作品はまさに、いまの若い人に読んでもらいたい。
お父さんが死刑になるということで、夜、お母さんが寝たあと、みんなむっくり起き上がって話し合いをする。お父さんはただでは助けてもらえないだろうから、代わりに自分たちを殺してくださいというふうに書こうと。
実際に死ぬのは怖いけど、願書をお奉行所に持っていく。奉行所の大人たちがそれを見て、大人が書かせたんじゃないかなと疑いますが、長女のいちは非常に毅然(きぜん)と全部自分たちで書いたんだと訴える。
最後に、これを受け取れば君たちは死ぬけどいいのか、と聞きますが、この場面が異様なんです。

「お前の申立には嘘はあるまいな」
いちは少しもたゆわずに、
「いえ、申した事に間違いはございません」と言い放った。
その目は冷かで、その詞(ことば)は、徐か(しずか)であった。
「お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか」
「よろしゅうございます」
冷かな調子で答えたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、
「お上の事には間違いはございますまいから」と言い足した。

(ちくま文庫 森鷗外全集5 p.239-240より適宜抜粋)

 

“お上のすることに間違いはございませんから”ということばに、奉行と同じように、読んでいる我々がどきっとする。
当時は、儒教的な忠孝ということが美化されていた世界で、その正しいことの究極として、まだ10歳にもならないような子どもたちが、父親のために自分たちを殺してくださいと訴えに行くと。親のために子どもが尽くすことが第一とされてきましたが、“お上(行政)のやっていることは間違っていない”とまで言われると、やっぱり大人はどきっとする。
やっぱり10代の女の子とかが、私を殺してくださいというふうに言ってくるというのは異様なわけですよね。『最後の一句』は、非常に短い作品ですけど、決して親のことを考えて自分の命を投げ出すなんて立派だなというふうに読まずに、やっぱりその“違和感”を大事にしてほしい。
今でいったら小学校の低学年とかの子たちが、親のために死んでもいいですというふうに奉行所で言っている姿に対して、本当にそれでいいのかなという、“違和感”を感じてほしいんですね。

短い作品の中で、社会システムの中で生きる家族を描いた鷗外。100年以上前に書かれた鷗外のこの物語には、いまの社会で生きていく我々にとっても大切なことがたくさん含まれていると話します。

 

この作品は、今の世界に生きている僕たちにとっても、政治やルールというものについて考えるときの非常に重要なレッスンだと思います。
守っているルール自体が、本当に人間のあるべき姿と乖離(かいり)しているときには、そのルールを自分たちがよりよく生きられるように変えていかなければならない。そうじゃないルールを押し付けるのは、一種の暴力だということを、国家の中枢にいた鷗外は肌身にしみてよく知っていました。

僕たちは学校の校則や、先生や親の言うことを聞く子が評価されるような社会に生きていますが、そのルールを疑うことを知らずに大人になった子が、社会に出て理不尽な目に遭ったとします。その時、上から言われたとおりやっているのがいいんじゃないかと疑わず、どんなルールにでも従わなきゃいけないと思う先には、全体主義的な社会が待っている。
私たちが民主主義の世界に生きている以上は、自分たちが人間らしく生きられるための社会の仕組みというのは何かということを、常に考え続けなきゃいけない。そんなことを気づかせてくれる、非常に現代的な作品だと思います。

 

このほか、平野さんおすすめの作品がこちら!

『寒山拾得』 『鶏』 『高瀬舟』
※『鶏』については近日公開の第2回の村田さんの記事でご紹介します!

“どんなことでも事情を聞く” いまに響く鷗外のまなざし

鷗外には、『舞姫』から一貫して、どの作品の中にも“問い”があると語る平野さん。その貫いた文学の中でとった鷗外ならではの手法に、平野さんは、いまに響く鷗外の優しいまなざしを感じているといいます。

平野啓一郎さん
「鷗外作品はなんというか、ある人がある運命をたどったということに対して、“事情を聞いてあげている”という感じなんですよね。こういう事情で、ああいう事情でこうなったと。それはもう『舞姫』だってそうですよ。踊り子を一人、海外に置いてきた。それはこういう事情だったんです、ということをずっと書いている。
『阿部一族』でも、こういう事情で、一族が滅亡していく。そのことを淡々と、とにかく事情を聞いていくスタイルなんです。どの作品・登場人物についても、“しょうがなかったんじゃないか”と。
不条理の多い人生に対しての鷗外のまなざし、そして不条理な状況に置かれた人たちの、折り合いの付け方の描き方は、とても優しいんですね。ここはみなさんがあまり気づいていない。鷗外の癒やし系のところじゃないかと思います」

事情を聞くとは、一体どういうことなのか?

平野啓一郎さん
何もわからない相手に、“こちらの事情を説明すること”。逆に知らない人は、“その事情に耳を傾けること”が、人間社会のコミュニケーションの基本だと。鷗外の小説はそれを教えてくれる気がします。
鷗外の物語では、日常的なちょっとした感情の齟齬(そご)から、人を殺してしまったとか、大きな出来事に至るまで、やっぱりそれぞれの事情が語られていて、感情的になりそうな出来事であっても、とにかく事情を聞く、ということは一番大きなことですよね。
これはもう戦争に至るまでどんな大きなことであっても、「あいつは悪いやつ」だと突っぱねていては、いつまでたっても終わるものも終わらない。どんな相手でも事情を聞いて考える。そのうえで、やっぱりそれは間違っているということは指摘をする、その大切さが感じられると思います」

没後100年 鷗外に触れることで得られるもの

没後100年という節目で鷗外に巡り合った私たち。最後に改めて、鷗外作品に触れる意味について伺いました。

平野啓一郎さん
「今の時代なぜ鷗外を読むのか、僕がよく強調するのが、鷗外はやっぱり、“アンチ自己責任論”なんですね。今の時代、“こうなったのは社会のせいではなく、お前のせいだ”と、自己責任ということは非常によく言われていて、私利を求める競争社会の中で、成功すれば自分の手柄、うまくいかなければ努力不足と言われるような、残酷な格差社会になっている。しかし今は“親ガチャ”ということばが生み出されているように、生まれ育ちによって非常に最初から不平等というのがあるのが現実。本人の力とは別のところで、成功、不成功の要因があるのも事実かと思います。
鷗外は、明治という時代に政府の中にもいて、国家の制度設計を行う側の人間でした。人間の運命は、一人の人間の努力だけではどうしようもなく、国家次第で、個人の人生が大きく様変わりしてしまうことをよく知っていた。制度以外にも、無意識や習慣、人との義理、社会を覆うイデオロギーなど、一個人の人生は、本人の努力では克服できないようないくつもの要因によって成り立っているんだと。
だからこそ一作ごとに、さまざまな条件設定をしながら、非常に丹念に描いていった。どんな立場の人にもそれぞれに事情があることを知ることで、“しょうがなかったんじゃないかと”。何でもかんでも自己責任といった価値観があるいまの社会のなかで、鷗外を改めて読むというのは、さまざまな物事の見方を考え直す、非常にいいきっかけになるのではないかと思います」

  • 大森健生

    首都圏局 ディレクター

    大森健生

    東京都出身 2016年入局。 札幌局で戦争や領土問題などを取材、2020年から首都圏局で戦争や文学をテーマに取材を続ける。

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