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ALSの母親を介護した私がヤングケアラーを支援するわけ

  • 2022年6月30日

母親がその病気と診断されたのは、私が社会人になったやさきでした。
「ALS=筋萎縮性側索硬化症」
全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病です。
その4年後、母は亡くなりました。
私はいま家族を“まるごと”支援する取り組みを始めています。

社会人になったやさきの母の異変

入社した頃の和田果樹さん

大学院を卒業して教育系のNPOに就職した私(和田果樹さん)は、最初の夏休みに実家に帰省することに。

異変を感じたのは、母と外で待ち合わせをしたときでした。

母の髪の毛がボサボサだったのです。

「病気で腕が上がらなくて髪をとかせないからボサボサやねん」

母はそう言って、全身の筋肉が徐々に動かなくなるALS(=筋萎縮性側索硬化症)と診断されたと打ち明けました。

当時は病気について詳しく知らず、母の見た目も変わっていなかったので、そこまで深刻には受け止めていませんでした。

NPOに入り、東日本大震災の被災地で教育支援の仕事を始めたばかりだったので、家族のことを心配するより自分のキャリアを優先したいという気持ちもあったと思います。

和田果樹さん(左)と母親(右)

当面は母のいる神戸市に毎月帰って様子を見ることにしましたが、病状はみるみる進行しました。

最初は片腕だけだったのが次に会うと両腕を動かせなくなっていて、歩くのも徐々に難しくなっていきました。

そして診断から1年あまり。母を介護するために休職して、実家に帰ることを決めました。

そのときはこんな気持ちでした。

「自分の力ではどうしようもできない悔しさと将来が見えない不安。線が引かれた気がして、あちら側ではみんな一生懸命仕事してキャリアを積んでいるのに、私はこちら側で自分を犠牲にして介護をしている…」

人工呼吸器を付ける決断 24時間介護に

母は呼吸するのに必要な筋肉も弱くなっていきました。

そこで決断を迫られるのが、気管を切開して人工呼吸器を付けるかどうかです。

当初、母は人工呼吸器の装着を望んでいませんでした。

私たち家族も介護をずっと続けられるのかわからなかったので、病状が進行していないときには、それを尊重したいと思っていました。

でもいろいろ調べていくうちに、人工呼吸器を付けても自立した生活をしている患者さんがいることを知り、人の力を借りながらにはなりますが、「命を諦めなくてもいいのでは」と母に伝えました。

主治医の先生からは「24時間のサポートが必要になるけど、ほんまに大丈夫か」と何度も確認されましたが、呼吸が止まってしまうギリギリのタイミングで手術してもらいました。

「母が80歳まで生きたらあと30年介護を続けることになる」

もしそうなったとしても細々とでも社会とつながっていた方がいいと考え、仕事を辞めるのは踏みとどまっていました。

むしろヘルパーなどの手を借りながら復職したいと、利用できる制度や支援について調べ上げました。

支援を受けることがゴールじゃない

当時書いたブログ

介護で感じた気持ちをつづったブログ。

「人と関わらないと生きていけなくなる環境に、突然放り込まれたことによるしんどさ」

食事の介助やおむつ替え、着替えなど身の回りの世話を担うのは徐々に慣れましたが、ヘルパーや医療・介護関係者30人ほどが出入りする中で、その調整に苦労しました。

ヘルパーは昼間に対応してくれる人が見つかりにくかったり、母親と合わずに途中で辞めてしまったりした人もいました。

相手に納得して母のケアにあたってもらえるよう、細かい要望まで丁寧に伝える必要があり、その生活をしんどいと感じることも少なくありませんでした。

支援に入ってもらってもちろん助かりましたが、この部分をもう少し変えたいとか思っても「それはこのサービスでは対応できません」と言われることも。

支援を受ければ困りごとが解消され、困っていない人と同じになると思い込んでいたのですが、そうではありませんでした。

母との意思疎通に使ったパソコン

介護が始まったとき、自分のような人を何と呼ぶのかインターネットで調べました。

「若者介護」や「20代介護」などと検索すると、出てきたのは、“若者ケアラー”という言葉。

そこには「18歳未満の場合はヤングケアラーと呼ばれます」とも記されていました。

自分の気持ちをしっかり言葉にできない幼い子どもたちが同じ状況に置かれている。

このときそう感じました。

生きることを選択してくれた母のために

2020年の春。
母は亡くなりました。ガンでした。

ガンだとわかったのは、亡くなる3か月前。

表情はかろうじて読み取れ、足の指先も少し動いたので、視線やスイッチを使ってコミュニケーションはとれる状態でした。

最期は母の希望のどおり亡くなる直前まで自宅で過ごし、病院でみとりました。

何十年も介護が続くと覚悟していたのに、こんなに早く終わるんだ。

母が亡くなって悲しい気持ちと、心配ごとがなくなったという気持ち。

うまく言葉では表せません。

ただ母がまだ楽しめるうちに車いすでもっといろいろなところに連れて行ってあげたかった、たくさんの出会いをさせてあげたかったという心残りはあります。

そしてこうも思いました。

「生きることを選択してくれた母のためにも、このケアの経験を無駄にしたくない」

経験を生かしNPOで家族“まるごと”支援

自身の経験を語ってくれた和田果樹さん(31)。

母親が亡くなったあと、和田さんは子どもの学習支援にあたるNPOに戻り、ヤングケアラーをサポートする取り組みを始めました。

ポイントは、家族をまるごと支援する「伴走型支援」です。

和田果樹さん
「人の気持ちや家庭の事情はすごく複雑ですし、一人ひとり全然違うということが介護の経験を通してわかったので、そういうスタンスで目の前の子どもたちに関わっていきたいと思いました。

そして子どもたちが家族をケアする背景には家族全体の大変さがあって、そこに目を向けていかないと本質的な解決にならないと思ったんです。

自分が経験したように最大限のサポートを得たとしても残る負担、どうしてもつらいという気持ちはなくならないと思うので、そこに寄り添って伴走支援ができればと」

支援の仕組みです。

子どもと保護者それぞれに「メンター」と呼ばれる相談役がついて、定期的に対話をしながら家族全体に寄り添います。

その中で見えてきた課題に応じて、専門家などと相談しながら行政や民間のサービスにつないだり、支援につながったあとも困りごとがないか相談に応じたりします。

先生でも友達でも専門家でもない、利害関係のない“先輩のような存在”、例えば、子どもたちの場合は少し年上の大学生や社会人、保護者の場合は子育て経験のある人が関係性を築いていくことで、ふだん話しにくい本音や日常の困りごとを相談しやすくなると考えています。

ヤングケアラーの背景には、子ども本人の特性や経済的な問題、保護者の生い立ちに苦労があるなどさまざまな事情があるといいます。

子どもだけに注目するのではなく、親子それぞれの話を聞くことで家庭全体の状況を把握します。その家族にとってどういう状態が望ましいのか希望を聞きながら、いっしょに考えていきたいとしています。

子どもたちに伝えたい “自分の人生を生きる”

4月に開かれたヤングケアラーの子どもたちのオンライン交流会、「YCカフェ」。

同じようにケアを担う子ども同士が交流することで、孤立感を和らげたり自身の状況を客観的に知ったりできるように定期的に開催しています。

この日は、親をケアする中学生など3人の子どもが参加しました。

和田さんが繰り返し伝えていたのは、“もっと自分自身のことを大切にしていい、自分を大切にすることは周りを犠牲にすることではない”ということでした。

和田果樹さん
「家族のためと思って自然にやっていたことがいつの間にか自分の人生を犠牲にしてしまうことがあるかもしれませんが、そこに気づきを促せるといいなと思っています。しっかりと自分のことを理解して周りに発信できる力をつけて未来の選択肢を広げたり、たとえ家庭環境に制約があってその子らしい未来を描いたりできるように一緒に考えていきたいです」

取材後記

和田さんは「ヤングケアラー」という言葉が広がり、ケアを担うこと自体が子どもたちにとって悪影響があるかのように受け止められることがある一方で、ケアを担うことへの誇りやケアを通じて身につくポジティブな面にも目を向ける必要があると話していました。

和田さん自身も母親の介護をした経験から得たことは大きく、物の見方が変わったりいろいろな人の立場を想像できるようになったりしたといいます。

過度な負担になっていないかどうか見守りつつ、こうした面も注目していくことが社会や大人に求められるのではないかと思いました。

 

NHKではこれからも、ヤングケアラーについて皆さまから寄せられた疑問について、一緒に考え、できる限り答えていきたいと思っています。
ヤングケアラーについて少しでも疑問に感じていることや、ご意見がありましたら、自由記述欄に投稿をお願いします。

疑問やご意見はこちらから

  • 氏家寛子

    首都圏局 記者

    氏家寛子

    2010年入局。岡山局、新潟局などを経て首都圏局に。 医療、教育分野を中心に幅広く取材。

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