元日に起きた今回の大地震。
帰省先や外出先だったという方もいらっしゃったのではないでしょうか。
いまだに自宅とは違う地域で避難生活を送られている方もいるかもしれません。
土地勘のあまりない場所だったら…
小さな子どもと一緒だったら…
備えを考えるきっかけにしてください。
(アナウンサー 安藤佳祐・さいたま局/記者 二宮舞子)
石川県かほく市に住む24歳の女性は、珠洲市三崎町寺家の実家に帰省したさなかに被災、津波が押し寄せる中、高台に避難しました。
こちらは地震の翌日の1月2日に女性が撮影した写真です。
生まれ育った地域は大きな被害を受け、実家も揺れや津波で被災しました。
神社にいたため、家族と合流するのに時間がかかったという女性は家族で避難所に行きましたが、毛布しか配られず、3日になって、金沢市に自家用車で2次避難をしました。
しかし渋滞がひどく、到着したときは夜中になっていたといいます。
珠洲市の避難先には、ほかにも帰省中だった人がいたそうです。
24歳の女性
「私は地元で同級生たちもいたし周りも知っている人だったのでまだよかったのですが、知り合いが家族しかいない人たちは遠慮しがちで心細そうでした」
NHK首都圏局の氏家寛子記者も、地震発生時、夫の実家の新潟県上越市に帰省中でした。
夫と7歳と4歳の子どものあわせて4人で帰省していた氏家記者。
海の近くだったことから、義理の姉妹家族などと、裏山に避難しました。
実家の津波浸水リスクがわからなかったため、どこまで避難すべきなのかどうかがよくわからなかったといいます。
氏家記者
「どこまで逃げたらいいのか、ちょっとわからず、地元の人たちの動きを見ながら上へと行きました。義理の両親やきょうだいがいたので、コミュニケーションはとれましたが、もっと誰もいないところだったら、かなり怖かっただろうなと思いました」
新潟県の津波警報は夜になっても継続していたことから、高台から避難所になっている中学校へと移動しました。
義理の母はペットの犬を連れていたことから車中泊。
氏家記者一家は教室に案内され、配られた毛布などで暖をとりました。
暖房もあったそうですが、新潟は東京に比べれば気温は低く、小さなお子さんにとっては寒さが相当、こたえたそうです。
「床が氷のように冷たくて、大人はスリッパを確保できましたが、子ども用のものはありませんでした。『こんな冷たいところ歩けない』と言って、ずっと抱っこをせがまれていました。足元が冷えると全身が冷えるんだなと実感しました。冬の避難は避難所でスリッパをはけるように常備しておかないといけないんだ、というのを改めて実感しました」
氏家記者は、バスタオルなどを持っていると便利だったと振り返っていました。
翌日、群馬県の自分の実家に戻ろうとした氏家記者。ここでも思ってもみない状況に見舞われます。
新幹線は全席自由席になり、車内は大混雑。通路に立っていました。
そのときなんと、4歳の子どもが「トイレに行きたい!!」と訴えたのです。
「身動きが取れず、絶望的な状況でした。以前、放送でやっていたのを覚えていたので、スーパーの袋とタオルを使って簡易オムツを作り、その場で済ませました」
これまでも災害取材や、親子の備えについても取材したことがある氏家記者ですが「まさかこのタイミングで」が重なったといいます。
ふだんからタオルやポリエチレン袋、小さなお菓子を持ち歩いてはいるものの、帰省中など、長期滞在の際はより多めに持ち歩くことなどが大事だと感じたそうです。
帰省中に突然起こった地震。支えになったものはあったか、尋ねました。
「『帰省してきた人ですか?』というような声かけをしていただいて、ちょっとほっとしました。本当に知らない人しかいないところで被災してしまったら、近くの人と声をかけあい、どう動いたらいいかをみんなで考えながら行動しないと乗り切れないんじゃないかと思いました」
今回の能登半島地震では、道路の寸断などで集落の孤立が相次ぎ、避難している人は非常に厳しい状況に置かれています。
一方、想定されている首都直下地震では、勤務先などの都心部で被災することも考えられます。
大量の帰宅困難者が想定される中で活用してほしいのが、「災害時帰宅支援ステーション」「災害時サポートステーション」です。
徒歩で帰宅する場合を中心に、コンビニやガソリンスタンドなどで、水やトイレなどが利用でき、情報も入手できます。
外出先のすべての災害リスクを知り、十分な備えを持ち運ぶのは現実的ではありませんし、被害を防ぎきれるわけではありません。
しかし、備蓄など、ふだんのちょっとした積み重ねが大事だと感じました。