先月、放送文化賞を受賞した川平朝清さん(96歳)。
戦後、米軍統治下の沖縄で、住民向けラジオ放送局の初代アナウンサーとして活躍。その後も民間放送局や公共テレビ局の体制作りに関わり、沖縄の放送事業に貢献してきました。
実は川平さん、ラジオやテレビでおなじみのジョン・カビラさんや俳優・川平慈英さんの父親という一面も。家庭人、そして放送人としての、川平さんの歩みを伺います。
川平さんは1927年、父親の仕事の都合で、台湾で生まれます。
川平家は琉球王家の末裔(まつえい)の家柄、川平さんは父の弾く三線(さんしん)を聴いて育ちました。
日本が終戦を迎えたときは17歳。翌年、家族とともに両親のふるさと・沖縄に戻りました。
初めて見る沖縄に、川平さんは衝撃を受けます。
川平朝清さん
「母が、船が着いたときに沖縄の海を見て『国破れて山河ありというけれども、山河も残らなかったわね』と。その言葉が非常に残ってますね。とても、父や母から聞いた緑豊かな沖縄に来たというよりは、全く別の国に来たという感じでした。私も、若い者として沖縄の復興に、役に立つようなことはないかっていう、そのとき本当に、心から思いましたね」
しかし当時はまだ米軍の統治下。川平さんは通訳などをしながら将来を模索していました。
そんなとき、兄の朝申(ちょうしん)さんから思わぬ申し出がありました。
当時沖縄でまだなかった住民向けラジオ放送局の立ち上げを手伝ってほしいというのです。
沖縄に行ったら医学部に私は入るつもりでいたんですけれども。けれども、兄が放送を始めるというときにアナウンサーがいない。『君は台湾時代に放送児童劇に出た経験もあるから、アナウンサーをやってくれ』ということで、アナウンサーになったんです。ですから、見よう見まねというよりは、聴きよう聴きまねで…
ということは、戦後沖縄の第1号アナウンサーということですか?
一応そうですね、1人しかいないんですから笑
【1949年5月6日 試験放送の日】
兄・朝申さんは「島々の多い沖縄では、情報・娯楽・教育のために最も必要なのはラジオ放送だ」と考えました。アメリカ占領軍に交渉してAKARという放送局を立ち上げ、川平さんもいよいよ試験放送の日を迎えます。
『こちらはAKAR、琉球放送局であります。この放送局は、アメリカ軍政府民間情報教育部によって所有され、運営されている放送局であります』という。そういうオープニングを必ず番組の初めに言わなければなりませんでした。
記念すべきこの日、川平さんがラジオで流した曲は、「かぎやで風」(かじゃでぃふう)。
沖縄で、古くから祝いの席で演奏される音楽です。
歌詞は「今日の誇らしさ、誇らしさは何にたとえよう、ちょうどつぼんでいる花が露を受けて、今まさに、咲き誇ろうとしているような思いだ」というような意味。
かつてお父様が三線で弾いて下さった曲。その曲と共に放送の第1声が始まったというのもご縁ですね。
そうですね本当にそう思います。
取材で人々の声に触れ、またラジオを利用する人が増えたことで、川平さんは放送の仕事にやりがいを感じるようになりました。それまでアナウンサーの専門教育を受けていなかったため、アメリカ側に交渉して、「NHKアナウンサー」の新人研修に参加。さらに放送局の経営についても学ぼうと、アメリカ・ミシガン州立大学に留学します。その授業は、当時の川平さんには刺激的なものでした。
川平朝清さん
「いつもノートに記して忘れないんですけれども『Public interest、convenience and necessity。上に興味関心・便宜・必要性』というふうに書いている。
留学した大学では、ラジオの講座を取ったときに真っ先に通信法を教えるんですね。『放送する立場というものは、絶えず、いわゆるリスナーが何に関心があるか。何に興味があるか。何が必要かということを考えた上で放送をしなければならない』。日本の放送法というのは、放送者の立場・義務というものを非常に強調した面があるんですけれども、アメリカのラジオの法律は聴く人のほうを中心にしている」
【離島にも放送局を作りたい】
1950年代後半から、沖縄ではテレビ放送が本格化します。帰国した川平さんは、まだテレビが見られない離島を含めた「放送網」を作りたいと奔走。1967年沖縄放送協会が設立され、川平さんは初代会長に就任。宮古島と石垣島に放送局を開設しました。
開局記念に誘致したのは、地元の人々が参加する公開番組「のど自慢素人演芸会」でした。
すごかったですよ。会場は野外のステージだったんですけど、そこを埋め尽くすっていいますかね。その時、鐘を鳴らした民謡歌手の方はその後、街の英雄ですよ。
喜んでいるお客様を見て、川平さんどんな気分でした?
本当に朝申が何よりも喜んでくれましたね。宮古・八重山に、石垣島にラジオテレビを持ってきて、しかも「のど自慢」というのがですね。人々が参加して、こんなうれしいことはなかったですね。
川平さんたちがつくった沖縄放送協会は、その後NHK沖縄放送局へと引き継がれていきました。
川平さんは東京のNHKに勤務し、退職後は大学や講演を通して放送の歴史や役割について伝えています。
川平さんは、良き夫、良き父親でもありました。
1957年、アメリカ留学中に出会ったワンダリーさんと結婚し、沖縄での暮らしがスタート。
戦後、アメリカ人女性が来日して沖縄の男性と結ばれるのは初めてのことだったそう。
ワンダリーさんのどういうところにひかれましたか?
人種的な差別が家族や両親たちにも全然なくて。「be fair」(公平)ですよね。人との対応でも、すべてに相手を敬うっていうか。よくぞ私と結婚してくれたなと今でも思ってます。
二人の子育ては、子供の自主性を尊重するもの。犬の散歩やごみ捨てなど家事を分担し、アルバイトも積極的に勧めました。ワンダリーさんがいつも心掛けていたことがあるそうです。
【家族円満の秘けつ「ハグをする」】
これほどいい愛情表現なんじゃないかなと思って。私は国際結婚のことで、よくご夫婦の会みたいなところで話をするときに『これからおやりなさい。感謝の意味を込めてハグしてから送り出しなさい』と。これを私は『ハグまし』(励まし)って言ってるんですけどね。
【家族円満の秘けつ「会話の時間をもつ」】
やっぱり夕食の時は何か話をしようと。ワンダリーさん子どもたちの学校での過ごし方を必ず聞く。子どもたちも心得ていて、それなりに話題を持ってきて話をしてましたね。それだけに、通信簿が私に示されて。ワンダリーさんが『あなたは今週は、家では1度も子どもたちと夕食をしていませんよ』と。
お父さんの成績を示されて。
ですから、『はい、わかりました。来週は努めます』って。もう、しかたがないって諦めるところがなかったですからね。言うべきことは言う。
2018年にワンダリーさんが亡くなるまで、常にお互い「be fair」の関係でした。
2019年、川平さんは、長男ジョンさんのラジオ番組に出演。戦中戦後の体験から、現在の沖縄への思いまで、息子を相手に語りました。
放送文化賞の授賞式では、3男の慈英さんから話を伺うことができました。
川平慈英さん
「家族として本当に誇りに思います。もちろん、弱いとこあるし、抜けているところもあるんですけど、そこがまたいい。私が父からもらった座右の銘が『和顔愛語』という言葉。優しい顔で愛を語る、平和を語る、まさに和顔愛語の父ですね。これからも追っかけたいです」
いま、どんどん通信手段が広がっています。これからのメディアの使命は何だと思いますか?
私はもうメディアはですね。人々の“手中”にあるって私は言うんですよ。スマートフォンなどによって、全てのニュース、世界の情勢がそこに現れる。しかも、顔を見ながらお互いに対話ができる。これは同時に、パブリックにも持っていこうと思えば、そのまま放送にもつながってくるわけですから。
私は今の放送人の方たちに期待するのは、まさにBe fair(公平)というひと言につきますね。対談などでも、お互いにプライベートなことを話し合うようにしても、電波にのる限りにおいては、パブリックに伝わっているということを忘れてはいけないと思います。
私はよく言うんですけれども、もうラジオは終わりだとかテレビは終わりだって言うけど、いや、そういうことはありませんよ。
来年は日本でラジオ放送がはじまって100年。大きな節目の年を迎えます。そこで!
「ひるまえほっと」では、放送100年の歩みをいろいろな角度から特集していきます。
【編集後記】
やわらかな語り口におしゃれなスーツ、96歳の年齢を感じさせない川平朝清さん。
外出のコーディネートを楽しんでいるそうで、お会いするたび今日のファッションはどんなだろう?と楽しみにしていました。ちなみにインタビュー当日は、ネクタイに八重山ミンサー織の模様が入っていました!
戦前戦後を見つめてきた川平さん、1つ1つのエピソードが興味深く、台湾時代のことだけでもインタビューが終わってしまいそうなほど。NHKアナウンサー養成研修に参加してみたら、放送設備は沖縄の方がよかった、なんていうエピソードもありました。インタビューの最後、私たちに語りかけてくれた「be fair」。放送人のはしくれとして身の引き締まる思いがしました。
ディレクター:戸部美紀