さまざまな選択がある「人生」。人生の岐路で、どんな選択をしてきたのか…
今回は、サラリーマンから一転、檜原村を舞台に木工職人として歩んでいる男性を取材しました。
(ひるまえほっと/リポーター 佐藤千佳)
檜原村で木工職人 中島保(なかじま・たもつ)さんです。
自然豊かな檜原村。遊歩道沿いに、中島さんの木工房があります。
ほとんどが、檜原村の木材で作られており、デザインから製作まで、すべて中島さん1人で手掛けています。
ひのきの箸を作ったときに出た削ったときに出た産物を生かした「羊」や、木の端材を芯に使った「キャンドル」。
できるだけ、よそにないものを、ここで作るように心がけています。
ユニークな発想で“付加価値”をつけることで、檜原村の木材の魅力を、より多くの人に知ってもらいたいと考えているんです。
そもそも、中島さんは、どうして木工職人への道を選んだのでしょうか。
中島さんは、兵庫県芦屋生まれで、東京吉祥寺育ち。大学卒業後は、日野市にある大手自動車会社に就職し、サラリーマンをしていました。
40歳を過ぎたころ、これまでの本社勤務から、工場での勤務に異動となります。
仕事の内容も大きく変わり、望んだ転勤ではありませんでしたが、ここで檜原村出身の人と出会ったことが、中島さんの人生に大きな影響を与えます。
『ぜひ行きたい!』て言ったら、『じゃぁ、来たら?』って言われて、次の週には村へ来たの。
行動早いですね!
檜原に行ってこの自然はすごい!と。それで、ひと夏家をかしてくれって言ったら話をつけてくれたわけ。
中島さん、実は大学時代は山岳部で、年間200日以上山で過ごしたほど!
村を訪れて久々の大自然に触れ、すっかり檜原村を気に入ってしまいます。ついにはログハウスも建て、多いときには、1年の3分の1を、村の森の中で過ごしました。
さらに中島さん、村の人たちとも交流を深めたいと思うように。
そこで役に立ったのが、“サッカー”でした。
その腕前は、高校時代は国体に出場。会社でもサッカー部に所属しているほど。
「子供たちに技術指導をしてほしい」と頼まれたことをきっかけに、1984年サッカークラブを創設。
当時、村の子どもの半数以上が参加するほど、大人気となりました。
40代で出会った檜原村という新たな人生の舞台。平日は仕事に打ち込み、週末は大自然を満喫する暮らしでした。
檜原村での活動が充実する一方で、仕事にも変化がありました。勤めている会社が、早期退職を前提に長期休暇をとれる制度を導入したのです。
そこで、中島さん、人生最大の選択と向き合うことになります。
ちょうどその頃、「いつかは、檜原村の木を生かして、何かしたい」と考え始めていた中島さん。
▼このまま定年退職まで勤め、安定した生活を送るのかー。
▼それとも、会社を辞め、夢を追うのかーー。
中島さんが選択したのは、「早期退職」。長期休暇制度を使い、木工職人になるための技術を学ぶ学校に入学することにしたのです。選んだのは、長野県にある木工を学ぶ職業訓練校。56歳の時でした。
しかし、安定した生活を捨てるという選択に、周囲は大反対だったといいます。
当時のことを、妻の佳代子さんに聞きました。
50代後半でしたから。普通でしたら、勤め上げて退職金もいただいてって言う感じですよね。ですからみんな反対しましたね。特に男の兄弟が反対でした。
『何もいまさらそんなことしなくても』って。何か、みんなあきれてる感じでしたね。
そんななか、佳代子さんは唯一、中島さんの選択を応援していました。
中島さん
「どうかな?と迷ったときは、先に行く。迷ったときはバックしないで。そうすると、なんか道が開けていく」
晴れて入学した中島さん。若者たちにまざって、1年間の学業をスタート。厳しいながらも、充実した日々でした。
普通だったら大企業の管理職の立場にいて、部下にあぁしろこうしろって言う立場じゃないですか。それがいきなり、一生徒になって、ちゃんとカンナをかけるところからやるっていう。
すごく、そこでも楽しかったですね。
なんか、青春時代に戻ったような。
そうなんですよ。“青春とは人生のある期間だけ言うんじゃない。心の持ち方だ”という言葉があるけれど、だから、青春とは、もう死ぬまで、80なろうが、やりたいことやってるのが青春なんだ。
木工職人になったら、中島さんには、かなえたい夢がありました。
それは、「檜原村の木や木工を多くの人に発信する拠点をつくる」こと。
目を付けたのは、「村の中心部に建っている昭和4年建造の木造の郵便局舎」でした。
新しい郵便局ができたことで役目を終え、解体寸前の建物を、中島さんは「壊さずに移築したい」と強く思っていたのです。
郵便局を移築するって、なんでそんなこと考えたんですか?
古い建物ってのは、やっぱり、残さなきゃいけないなって。古いものもいいものは残せって。日本は木の文化だってわけ。木を残さなきゃいけないって言う。
しかし、大きな課題がありました。「建物の解体・組み立て」と「移築先探し」です。これらすべてを、中島さん1人でやらなければならなかったのです。
ここで、それまでの村の人との結びつきによって、中島さんの夢が花開いていきます。
木工の修行を終える1994年。中島さんは、村の成人式で、講演を頼まれました。この年は、サッカークラブの教え子たちの多くが成人する年でもあったのです。
大人の夢っていうか、夢っていうのは、『できないものを、できる!やる!』それが夢なんだよっていうことを話して。だからみんな、夢を持てよ!って。それで夢を持って前に進んでいれば、そのうちみんなが応援してくれるから。そんな話を40~50分やっちゃったわけ。
およそ100人が話を聞いている中、中島さん、「郵便局舎を移築したい」という、自分の夢も訴えました。
成人式をやってる場所の前にある檜原の郵便局。これをいただいて、移築するから。手伝ってくださいと。それが“私の夢”です、と。
そんな中島さんの熱い思いは、会場の人たちに伝わりました。
聞いていた地元の建設会社が、移築に必要な道具を無料で貸してくれることに。さらに、サッカーの元教え子たちや、その家族、村の人々が手伝いに来てくれたのです。
移築先は、日本の滝百選にも選ばれている檜原村の名所「払沢の滝」のすぐそばに決定。
土地の所有者は、中島さんがサッカークラブの指導に尽力していたことを知っていて、格安で土地を貸してくれることになったのです。
建物を解体し、ちょっとずつ車で運び、再び組み立てる。およそ1年かかる大工事の末、移築が完了。
今では、檜原村の木の魅力を広める拠点として、大勢の人が訪れています。
中島さんのこれまでの歩みを伺っていると、行き当たりばったりというか、出たとこ勝負なところありますよね。
行き当たりばったりなんだけど。なんかやれば、あいつについていくとなんかいいことあるかもしれないと思わせないと。
面白いことできるかもって。
だから、やっぱり毎日わくわくすることでしょうね。それで一生懸命やれば、まわりも、『しょうがない、あいつ一生懸命やってるんだから少し応援してやろう』っていう人がね、出てくるんですよね。
楽しかったですね。ここで過ごした28年間というのは。だから、2回人生生きた感じがします。サラリーマンの妻として。娘が嫁いで。その後のことですから、もうほんとに老後ですよね。だけど、もう一度生き直した感じがします。
選択の先に見つけた、木工職人の道。中島さんの夢は、まだまだ続いていきます。
長く、やっぱり檜原の木をね。“宝の山”を、守っていかなくちゃいけないし、そう思いますね。
【編集後記】
中島さんと初めてお会いしたのは、去年。檜原村での、木工製品の取材の時でした。
檜原村のことを聞くと、何でも教えてくださる中島さん。村への想いの強さ・深さに、出身地ではないことに驚いたのを覚えています。
さらに、木工職人になったのは“2度目”の人生でとのこと。
やりたいことがあったら、いつからでも、諦めることはないのかもしれません。
今回、最も印象に残った中島さんの言葉。
「迷った時は先に行く。バックしないで。そうすると、なんか道が開けていく。」
常に心にとめて、参考にしていきたいです。
リポーター 佐藤千佳
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