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津田沼パルコと過ごした30年 閉店は残念 感謝の気持ちも

  • 2023年02月24日

45年の歴史に幕を閉じる津田沼パルコ。B館5階のバックヤードには、「POP室」という部屋があります。30年以上ここの主として、商品名やキャッチコピーなどのポスターやチラシを描いてきたデザイナーの小野千尋さん(63)。
閉店にあたって小野さんは、「残念だけど、自分が長年お世話になってきたところの最後が見られるっていうのは幸せなのかな」と振り返ります。
小野さんとパルコのエピソード、津田沼で一時期を過ごした人の中には、共感できる方も多いのではないでしょうか?

(千葉放送局記者 金子ひとみ)

小野さんと津田沼パルコ

小野さん

小学校に入ると同時に東京から船橋に引っ越してきました。当時はここの建物の場所はピーナツ畑で、道も舗装されていなくて。津田沼駅は、当時はまだ国鉄の駅でした。

小野さんが県立船橋高校に通っていた時に、津田沼パルコがオープンします。

小野さん

オープンの日は同じクラスの女の子たちが、『今日オープンだよ、帰りに行こうよ』みたいに話していたのを覚えています。私はパルコ自体を知らなくて、しばらくは行かなかったですね。

1978年ごろ(屋上には「自由の女神」像が)

館内放送で呼び出されたことも

芸大への入学を目指していた小野さん。高校卒業後は新聞配達のアルバイトをしながら、浪人生活を送りました。新聞配達を終えて、津田沼駅前で牛丼を食べていたときに偶然会った同級生から誘われて、パルコでアルバイトを始めます。装飾や商品の棚卸し、お客さんのカウント、チラシ配りなどをしたほか、古くなった絵の具をもらうのにひかれて、テナントの画材屋で、配達の仕事もしていました。

小野さん

近隣の絵画教室や画家の人のところに、車で商品を届ける仕事をしていたんですが、カーナビもないので、しょっちゅう道に迷いました。1回パルコまで戻って再スタートするので、お客さんに「遅い」と怒られたこともありました。パルコ内でのアルバイトをいくつも掛け持ちしていましたが、当時の時給は、420~450円ぐらいでした。

パルコのスタッフが私に連絡を取りたいときには、館内放送で、「津田沼からお越しの小野千尋様~」と呼び出すことも時々ありました。携帯がない時代だったけれど、私がパルコ内のどこかにいることはみんな分かっているから、放送すれば小野君が気づくだろう、と考えたんでしょうね。

屋上にあった「自由の女神」像の前で(20歳のころ)
小野さん

週末、屋上では生バンドの演奏が行われていました。「歌いたい人はさあどうぞ」ということで、周りに「おまえ歌ってこいよ」と言われて最初に私が歌ったのは、「北国の春」(千昌夫)です。歌詞を覚えていたのはその歌だけだったので。自由の女神を背にして生バンドの演奏で「北国の春」を歌うなんてね、恥ずかしかったですよ。

パルコの中ではなにかしら面白いことがある、毎日が文化祭のようでした。そのうち、芸大への入学もあきらめました。

運命を変えた「メニュー表」

A館6階のレストラン街の一角、いまはカレー店となった場所に喫茶店があり、そこで厨房に立ちながら、メニューを書いていたそうです。そのメニュー表が、小野さんの運命を変えます。

小野さん

日替わりランチのメニュー表は、カレーなら文字の先っぽをくるっと丸めてみたり、しょうが焼きだったら豚のイラストを添えてみたりしました。

あるとき、その喫茶店に、今、所属しているデザイン会社の幹部が来たんです。その幹部が「このメニュー表、誰が書いたんですか?」って店長に聞いて、店長が「厨房にいる若いのです」って言って私が出て行くと、「うちで働かないか?」って。「これで絵で食っていける!」と思いました。実際は、絵ではなく字ばっかり書くことになるのですが。

イベントの装飾作業にあたる小野さん

メニュー表がきっかけとなってアルバイトの掛け持ち生活に区切りをつけ、23歳のころに就職したのは、商業施設の店頭に掲げる宣伝文句=「POP」を作る業務を請け負うデザイン会社でした。小野さんはその後、30年以上を津田沼パルコのPOP担当として過ごします。

小野さん

当時、館内でポスターを作るのは自分しかいない。矜持を持って仕事していました。電車では中づり広告の色づかいや構成、文字の使い分けをしっかり見て覚えたり、デザインの勉強をしたりもしました。

爆笑問題さんやポール牧さん、石田純一さんなどの著名人が来るイベントもよく開かれていました。そういったステージの看板を作ったときには、出演者より看板が目立たないようにしながらもお客さんの目に止まるためにどうしたらいいか、頭を悩ませましたね。

「保健室の先生」のような存在で

小野さんがデザインしたスキー用品店の看板
小野さん

見た人の印象に残るような文字のメリハリや色使いにはすごく気をつかってきました。店の人に、「広告がすごく好評だよ」と喜んでもらえたり感謝されたりするのはやりがいでした。

困ったときは、他のパルコのPOP室の仲間に相談したりしながら、自由にやらせてもらいましたね。

B館5階にある小野さんのオフィス

津田沼パルコ店長の野口香苗さんいわく、歴代のスタッフにとって、小野さんは「かけがえのない存在」。上司に怒られたら小野さんの部屋でなぐさめてもらったり、一息ついたりしていたそうです。

小野さん

学校の保健室みたいな場所なんでしょうね。だいたい話を聞くと、満足して帰って行く人が多かったですけどね。

津田沼パルコで長年過ごした小野さん。閉店を前に残念な気持ちと、感謝の気持ちと両方あるといいます。

小野さん

人生の半分以上をここで過ごしました。仕事先だから、親友まではいかないけど、仲間ですね。いっしょに成長させてもらって、閉店は残念だけど、決定には従うしかないかなって。今までありがとう、という。高校の同級生の多くが大学行って大企業に就職してという一方で、俺何やってるんだろうなって思ったこともあったけど、今の会社に拾われていい仲間に出会えて、楽しく仕事してきました。

自分が若い時代にお世話になってたところの最後を見届けられるというのは幸せなことなのかもしれません。

取材後記

店長の野口香苗さんに、「津田沼店を裏方として支えてきた人の話を聞きたい」とお願いしたところ、「生き字引のような人がいますよ」と紹介してもらったのが小野さんでした。

取材の最後に小野さんが、「これまでは人の話を聞くことはあっても自分の話をすることはなかった。金子さんという人が現れて私の話を聞いてくれるというのだから、すべてをぶちまけようと思ったんです。こういう機会をいただけてうれしいですよ」と言いました。私は、それを聞いてとても温かな気持ちになり、「記者をやっていてよかった」と思いました。

まだまだ「津田沼」シリーズ、続きますので、よろしくお願いします。

  • 金子ひとみ

    千葉放送局記者

    金子ひとみ

    船橋市も習志野市も担当しています。船橋駅周辺、津田沼駅周辺でよく買い物します。

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