“無敗の男”はなぜ敗れたのか

衆議院選挙で、茨城県では、14回の当選を重ね「無敗の男」と呼ばれた前議員が、小選挙区で初めての敗北を喫した。
中村喜四郎。
「日本一選挙に強い男」がなぜ敗れたのか、これまでの取材からひもといていきたい。
(田淵慎輔)

「一敗地にまみれる」

「皆さまにあれほどまでお力添えいただき、家族挙げて地域挙げて、懸命にご支援いただいたにもかかわらず、私の不徳の致すところで残念ながら『一敗地にまみれる』結果になってしまいました」

対立候補の当選確実を確認した中村は、選挙事務所前に集まっていた支援者に向けて、まずは敗北をわびた。

そして、こう続けた。
「『日本再建』と『与野党伯仲』は今回は残念ながら道半ばになりましたが、国家・国民のためのまともな政治を取り戻すための運動は、これからもしっかり前を向いて進めていかなければならない」

「天が中村喜四郎に与えた試練と受け止めて、これからも前を向いて正々堂々と頑張ってまいります」

中村が選挙戦を通じて訴えていたのは、与党と野党のきっ抗による「緊張感のある政治の実現」。
これを諦めず、目指し続けるという決意の表明だった。

あいさつを終えた中村は「ありがとうございました」と繰り返し、拍手を受けながら支援者の前を去って行った。

圧倒的な強さの“無敗の男”

これまで14回の当選を重ねてきた中村喜四郎は「無敗の男」と呼ばれてきた。
実際、選挙前のことし9月下旬、記者会見で小選挙区での当選に自信をのぞかせていた。

「これまで、逮捕されて、起訴されて、それでも選挙をやってきている。有罪判決を受けても戦ってきている。自分のやり方でやってベストを尽くすだけ」

初めて衆議院選挙に立候補したのは昭和51年。
自民党のホープとして科学技術庁長官や建設大臣を務め、旧竹下派のプリンスとも称された。

ゼネコン汚職事件で実刑判決を受けたが、逮捕されてから判決までに2回当選。
さらに服役し出所してからの5回の選挙でも、圧倒的な強さで勝ち続けてきた。

今回、なぜ敗れたのか。
変化の兆しは、2年前の夏に現れていた。

“最強の後援会”のほころび

2019年8月。
茨城7区の市町村のひとつ、結城市の市長選挙で、中村の後援会「喜友会」が支援した新人候補が落選した。
中村が立憲民主党の会派に入り、立民への接近が進むさなかのことだった。

このとき、中村の後援会ともつながりを持つ元市長は、こう話していた。
「喜四郎さんは野党に行ってしまって、もう一緒にはやれないと思った。そういう声は地元でも多かった」

中村の強みは、選挙区全体に張り巡らされた後援会「喜友会」の結束力だ。
みずから地域をくまなく回り、築き上げてきた。

喜友会が支援した新人候補の出陣式には、会場を埋め尽くすほどの人が集まっていた。
人の波を縫うようにして取材しながら、喜友会、ひいては中村喜四郎の力を肌で感じたことを鮮明に覚えている。

しかし、かつては保守王国・茨城を代表する自民党の議員として、そして事件の後はいわゆる「保守系無所属」として活動してきた中村が野党に近づくことで、少しずつ彼のもとを離れようという支援者が出ていたのだ。

そして、その1年後。
中村は立憲民主党に加わることを表明。
今回の衆議院選挙では初めて野党から立候補し、結果、選挙区で初めての敗北を喫した。

衆議院選挙の結果について、結城市内の関係者もこう話す。
「これまで喜四郎さんを応援してきた人たちと話していても、『立憲民主だろ?うーん、ちょっとなあ』『共産党と一緒になってやっているところだから…』と言われてしまう。この辺りでは、自民党の対立候補の応援に移った人が多かった」

“野党候補”になった影響

今回の衆議院選挙で、こうした声は意外なところからも聞かれた。

公示直前に立候補を表明した日本維新の会の新人、水梨伸晃だ。

「中村喜四郎さんが無所属で出ていたら、自分は出ていない」

記者会見でこう話した水梨。
保守系を自認していることから、中村が保守系無所属のままだったら、自分は出る必然性はなかったということだ。

準備不足、知名度不足と見られていた水梨だが、結果的に1万4000票余りを獲得した。
中村が野党候補になったことで行き場を失った保守系の人たちの受け皿になったものと見られる。
水梨が出ていなかったら、勝負の行方は変わっていた可能性もある。

地元有権者の間では…

支援者が離れる動きは茨城7区のあちこちで見られた。

中村は今回、7区で最も有権者の多い古河市で、初めて敗れた。自民党候補との差は6000票以上もあった。
この古河市では「中村喜四郎を倒す会」とでも呼ぶべき人たちがいたという。

そのきっかけは3年前の茨城県議選だった。

古河市選挙区では、中村喜四郎派の現職・江田隆記がいたにもかかわらず、中村の息子・勇太が立候補。
勇太が初当選し、長年中村を支えてきた江田は押し出される形で落選したのだ。

この時のしこりが今も根強く残り、江田本人は特段の活動をしていないものの、事情を知る古河市の有権者たちが「江田さんがかわいそうだ」と「反中村」ののろしを上げたという。

また、かつては中村喜四郎派だった県議会議員たちは、今は自民党に入っている。
今回の選挙で中村を支援した県議は、息子の勇太1人だけだった。

はがきにも異変

さらに、支援者の「中村離れ」を感じさせるこんな話も聞いた。

中村は、選挙区の有権者に送るダイレクトメールのはがきに、その地域の一般の人を「推薦人」として記してきた。
ほかの政治家の場合は、知事や市町村長、団体のトップなどの名前が推薦人として書かれるのが通例だ。
ところが中村は、いわゆる「偉い人」ではなくその地域の「普通の人」の名前を記すことで、地域の有権者との距離を縮め、深く支援を広げていくのだ。

今回の選挙ではそのはがきに異変があった。

写真の2枚のはがきはどちらも結城市の同じ地区に届いたものだが、Aさん(仮名)宛のはがきにはBさん(仮名)が推薦人、Bさん宛てのはがきにはAさんが推薦人とされている。

しかし2人はいずれも、今回は自民党候補を応援しており、中村の推薦人になった覚えはないという。

かつての支援者が離れるなか、推薦人となってくれる地域の人たちが見つかりにくくなり、こういったはがきが生まれたのではないか。
つい、そう勘ぐってしまう不思議な出来事も地元では起きていた。

初の敗北 「時代は変わった」のか

野党から立候補した最初の選挙で、初めて小選挙区で敗北した中村。
その後、比例代表で復活し15回目の当選を果たした。

「もっと若い人が立候補すれば、その人に投票するんだけどね」
選挙前、地域の人たちからは何度もそんな話を聞いた。

かつてはプリンスとうたわれた中村も、72歳。
そしてここ6回、実に15年以上、茨城7区は中村と自民党候補の同じ顔ぶれによる選挙戦だった。
今回の選挙結果を改めて振り返ると、そこには「変化」を求める有権者の意識があったと思わざるを得ない。

茨城7区の大きなターニングポイント、そう感じる選挙だった。
(文中敬称略)

水戸局記者
田淵 慎輔
2017年入局。警察担当を経て、2年間のつくば支局で茨城7区を担当。地元の人たちの話を聞いてまわり、選挙取材の面白さを実感。趣味はサイクリング。