日朝首脳会談20年 拉致被害者帰国「交渉決裂寸前で回避」

日本と北朝鮮のトップ、当時の小泉総理大臣とキム・ジョンイル(金正日)総書記が初めて向き会った日朝首脳会談から9月17日で20年になる。
この会談を経て、日本人拉致被害者5人が帰国を果たしたが、その後、北朝鮮は、核・ミサイル開発を進め、日朝関係は悪化した。

2002年9月の首脳会談に至るまでには、極めて少数の当局者のみが知る、1年間の秘密交渉の存在があった。
今なお謎が多い、この秘密交渉。それを担った元外務審議官・田中均が私に詳細を明かした。
(増田 剛)

歴史的な首脳会談

2002年9月17日、ピョンヤン。
日本と北朝鮮は国交正常化交渉の再開で合意し、両首脳が共同宣言に署名した。


小泉総理大臣は、会談後の記者会見で、こう述べた。
日朝間の安全保障上の問題の解決を確かなものにするために、日朝国交正常化交渉を再開することにした。きょうまとめた共同宣言の原則と精神が誠実に守られれば、日朝関係は、敵対関係から協調関係に向けて大きな歩みを始めることになる
日朝関係の改善は、朝鮮半島や北東アジアの平和に役立つもので、韓国、アメリカ、ロシア、中国など、近隣諸国の安定にも大きく関わってくる。政治家として、この地域の安定の基盤作りに努力していきたい

「絶対に秘密だ」

この首脳会談の実現に向けて、小泉の指示のもと、北朝鮮との交渉を行ったのが、当時、外務省アジア大洋州局長だった田中均だ。

田中は、1987年に北東アジア課長に就任して以来、北朝鮮との懸案を解決し、朝鮮半島に平和を作ることこそが日本の国益につながると考えていた。

北朝鮮問題は、拉致や核、ミサイルなど、日本の安全保障に直結する、深刻で重要な問題を数多くはらんでいたからだ。
こうした難題に風穴をあけたいと考えていた田中は、2001年9月、アジア外交のトップになると、小泉に北朝鮮との交渉開始を「直訴」した。

私がやりたいのは、やっぱり問題解決なんだと。朝鮮半島において、なんとしてでも活路を開きたいと。それで、交渉してもいいですかという話をしたら、小泉さんはね、何を言ったかっていうと、『いや、田中さん、それやってくれ』って。『だけど、絶対に秘密だ』と。人の命がかかっているから、秘密というわけなんですね

秘密保持に関する小泉の指示は厳格だった。政府内で、当初、交渉の存在を知らされていたのは、小泉と田中のほかは、片手の指で数えられるほど。秘密を守るため、交渉は第三国で週末に行われた。田中は家族にも、行き先すら伝えなかった。交渉の舞台となったのは、主に中国の大連や北京のホテルだったが、上海やシンガポールで行われることもあったという。

日朝秘密交渉の開始

2001年晩秋のある週末。
大連のシャングリラホテルのスイートルームに、田中のカウンターパート=北朝鮮側の交渉相手が姿を現した。後に、日本で「ミスターX」として知られるようになる男性だ。男性は「国防委員会に所属するキム・チョルだ」と名乗った。この時、田中は「偽名だろう」と思ったが、男性が漂わせる雰囲気から、軍か諜報機関の幹部に違いないと感じたという。

名前、名乗りましてね。ただ、僕は、それを信じていませんでしたからね。私よりは、たぶん15歳ぐらい若かったんでしょうね。私に対して、自分の身元を明かすようなことは言わないというのが、北朝鮮のこういう交渉の鉄則だったんだろうと思うんですね。ですから、彼の言っていることから推測するしかなかったんですけど、軍人であることは明らかだったですね。どういう本を読んでいるんだっていうと、戦前の日本陸軍の教本とか、諜報の本、日本の中野学校とかの本を読んでいるって言っていましたね。彼が諜報機関のトップであったことは間違いない。『日本から送られてくる雑誌の類いについて翻訳されたものが、自分のところに上がってくるんだ』という話をしていました。それとか日本のテレビ。NHKなんて毎日、見てるって言いましたよ。非常に情報については詳しいっていう印象を受けましたね

実際、Xは自分が軍人であることを田中に見せつけ、威嚇したこともあったという。

オーバーをパーンと脱いだらね、真っ黒な軍服を着てるんですよ。そこに勲章がバーッと付いててね。『自分は命をかけてるんだ』と、そういうような意思表示だったのかもしれない。『自分はやっぱり軍なんだ』と。したがって、『この交渉がうまくいかなかったら、責任をとらなきゃいけない』。往々にして北朝鮮の場合には、それは死なんだと

交渉の最初のころ、田中はXにある要求をした。
北朝鮮にスパイ容疑で拘束されている日本人の元記者を無条件で解放してほしい

Xが交渉するに値する人物か、つまり、北朝鮮で物事を動かし、政策を実行できる実力がある人物かを、見極めようとしたのだ。田中がXに仕掛けた、いわば「クレディビリティ(信頼性)・チェック」だった。

この要求をしてからまもない2002年2月、2年以上拘束されていた元記者は、無条件で釈放された。Xは「クレディビリティ・チェック」をクリアしてみせたのだ。

名前がどうあれ、どこの所属であれ、交渉をするに値する。交渉するにあたって、信頼できる人物であるということは、私には、確信ができたということですね

ミスターXの正体

では、このミスターXとは、いったい何者なのか。当時、北朝鮮の外交官で、現在は、韓国の国会議員であるテ・ヨンホは、Xは外務省の人間ではなく、秘密警察にあたる「国家安全保衛部」の人間だろうという。

「外務省は、日本人拉致被害者の安否やどこにいるのかについて、全く知りません。国家安全保衛部は、絶対に(拉致被害者の)資料をほかの部署の人間と共有しません。保衛部出身者だけが知っています」
「(北朝鮮側の交渉担当者は、キム・ジョンイルと)とても関係が深かったと思います。キム・ジョンイルに随時、単独で会えるような位置にいる人間でした」

一方、日韓の研究者や報道関係者の間では、Xの正体について、リュ・ギョン(柳敬)という名前がささやかれている。
これについて、北朝鮮研究を専門とする慶應義塾大学の礒﨑敦仁教授は、次のように言う。

「ミスターXが誰だったかはわからないです。処刑されたリュ・ギョンという秘密警察の幹部であったというふうに言われていますけれども、その証拠はなかなか出てこない。反証もできなければ証拠もないという状況ですね。当時の国家安全保衛部の幹部であって、その後、失脚した、処刑されたといわれていて、日本側とも縁が切れているという情報と一致しているので、彼ではないかということなんでしょうかね」

筆者は今回のインタビューで、田中に直接、このことを確かめようとした。
「田中さんのカウンターパートって、国家安全保衛部の副部長だった、リュ・ギョンだったんじゃないですか」
僕は知りません。そういうことが韓国の新聞にも書かれているね。ただ、私が確信を持って言える話ではないのでね

「本人はそう名乗らなかったんですか」
もちろん名乗っていないですよ

田中は、X=「リュ・ギョン」説を、肯定も否定もしなかった。
また、田中はXのその後の消息について、次のようにも語っている。
彼が処刑されたっていう話を聞いた時は、やっぱり非常に思うところはありましたね

佳境に入っていく交渉

2002年の年明けから、交渉は本格化する。
当時、国際社会から孤立し、経済的に苦しい状況にあった北朝鮮。交渉の当初から、過去の植民地支配の清算として、日本から資金を得ることにこだわり続けた。

これに対し、田中は、拉致問題や核・ミサイル問題、国交正常化、その後の経済協力などをパッケージにして包括的に解決し、朝鮮半島に「大きな平和」を作ろうと呼びかけ続けたという。

自分たちがやりたいのは“大きな平和”を作ることなんだと。自分は、日本の外交官なんだと。外交官として、歴史を調べ、日本が朝鮮半島で行ったことも事実としてあると。だから日本には、当事者として平和を作る義務があると僕は思うと。朝鮮半島に平和を作るための交渉をしますと。だけど、拉致の問題をクリアしないと、先には行けない。日本からの資金の提供というのも、まさに拉致とか核の問題を解決しないで進むことはできませんと。だからその“大きな道筋”を作るということを、自分はやりたいんだと

田中は、こうした多様な問題を包括的に解決するための大きな枠組みを作るため、小泉総理大臣の訪朝=日朝首脳会談を、ありうべきシナリオとしてXに示したという。交渉は、佳境に入っていく。

交渉破綻の危機

しかし2002年の初夏、交渉は厳しい局面を迎える。田中がXに、小泉が訪朝する場合、北朝鮮はそれより前に拉致被害者の安否情報を明らかにすべきだと、要求した時のことだった。

その瞬間に北朝鮮が完全に交渉を切るということになった。『日本の目的は、単に拉致の情報を得るだけ。単に拉致の問題を世の中に明らかにして、それで総理は来ないということなんじゃないか』と。『だから私たちはもう公表するつもりはないです』と言ってきたんですよね。で、私はこれはもうダメかなと思いましたね

決裂寸前だった交渉。
破綻の危機を乗り越えたのは、小泉のひと言だったという。田中が、厳しい交渉の状況を報告した時のことだった。

答えはね、『田中さん、それでいつ行くんだ』っていう話だったんですよね。『いつ行くんだ』って。『もう行くのは当然だ』と。総理は当時、思ったんでしょうね。『もし自分が行かなければ、この拉致の話っていうのは、全部闇に葬られてしまう』と。だから、ああそうなんだ、これが政治家なんだっていうふうに思った。僕は、この総理大臣のもとでこの問題をやってよかったっていうふうに思いましたあれが瞬間だったんですね。もし小泉さんが『いや、そうか。それはちょっと考えよう』ということになっていたら、ちょっと違った結論になったでしょうね

対米極秘ブリーフィング

交渉は再開された。その後は、小泉訪朝を前提にして、どういう外交シナリオを組んでいくかという交渉が進んでいくことになる。

そして、小泉訪朝が事実上固まり、交渉が最終盤を迎えていた2002年8月下旬。田中は、来日していた当時のアメリカ・ブッシュ政権の幹部に対し、東京・虎ノ門のホテルオークラで、北朝鮮との交渉と小泉訪朝の計画について、極秘のブリーフィングを行った。


出席者は、アーミテージ国務副長官、ケリー国務次官補、国家安全保障会議のマイケル・グリーン日本担当部長、ベーカー駐日大使という面々だった。

日朝平壌宣言のドラフト(草案)も含めて、自分の見通しも含めて、全て話をした。彼らはじっと聞いていました。みんな。物音ひとつせず、じーっと聞いていた。日本がアメリカのブリーフを受けることって、よくあることですよね。それも驚くようなことをブリーフを受けることはある。だけど、その逆っていうのはあんまりないですよ

アーミテージがすくっと立ち上がって、『俺に任せろ』と。『自分は今からこの近くのアメリカ大使館に戻って暗号電話でパウエル(国務長官)に直接、話をする』と。『ついては、その次の日、小泉総理大臣からブッシュ大統領に電話をしろ』と言ってくれた

その翌日、日米電話首脳会談が行われた。田中は、総理大臣官邸の執務室で電話をかける小泉の隣にいた。

ブッシュが言ったのはね、『小泉、お前が言うことについて、俺が反対するわけがない』って、こう言ったんですよ。総理には、『自分はアメリカの利益を絶対に害さない』ということを言ってもらった
同盟国といっても、それぞれ違う利益はあるわけですよ。日本は日本のアジェンダがある。で、拉致っていうのは、日本のアジェンダなんですよね。これは、日本自身が解決しなければいけない問題だ

そして、日朝首脳会談が開催

こうして30回近くの交渉の末、首脳会談への道が開かれた。
2002年9月17日。
キム・ジョンイル総書記は、これまで否定し続けてきた北朝鮮による拉致を認め、謝罪。
これを受けて、両首脳は、日朝平壌宣言に署名した。


日本が、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に与えた損害や苦痛への反省とお詫びを表明する一方、北朝鮮は、日本国民の生命と安全に関わる懸案問題、すなわち拉致問題が再び生じることがないよう適切な措置をとるとした。
さらに、核・ミサイル問題を包括的に解決し、国交正常化の早期実現に向けてあらゆる努力を傾注することが、合意された。

しかし、拉致被害者の安否情報として告げられたのは、拉致された人のうち、5人は生きているものの、8人はすでに亡くなっているということだった。
あまりにも衝撃的で残酷な報告は、日本国民の心を激しく揺さぶった。

硬化する対北朝鮮世論と田中バッシング

拉致被害者家族の怒りと悲しみが連日大きく報道され、日本の対北朝鮮世論は硬化した。
こうしたなか、10月15日、5人の拉致被害者たちが一時帰国を果たす。
その際、「一時帰国」という約束どおり、再び5人を北朝鮮に戻すか、それとも日本に永住させるかが、政府内で大きな議論になった。
田中は、この時の自らの言動を次のように説明する。

私は、拉致被害者を日本に永住帰国させるか、あるいは北朝鮮との約束どおり、いったんは向こうに戻すかという判断は、政治判断だと思っていました。ただ、私が言ったのは、『戻さないと、どういうことになるかは、政治的な判断をされる前に考えてください』と。『ひとつは、私がこれまでやってきた交渉のルートはきっと潰れるでしょうねということと、もうひとつは、場合によっては、(拉致被害者の)子どもたちを帰すまでに、相当長い時間がかかるかもしれません』と

結局、政府の判断として、5人の拉致被害者は日本に永住させることが決まった。
田中は、こうした経緯から「北朝鮮寄りではないか」と、一部の政治家やメディアから、激しいバッシングを受けるようになった。

最初から最後まで『秘密でやれ』といわれて、秘密の交渉で。もし秘密がわかると、成ることが成らないし、場合によっては、人が死んじゃうかもしれない。そういう思いを持って交渉したわけだから、ある意味、しょうがなかったと言われれば、しょうがないんですが、だけどやっぱり、家族会の人とか、あるいは国内のメディアに対してよく説明をする余地はなかったかって、思う時ありますよ。やっぱり、秘密でやったことに対するツケがね、来たのかもしれないですよね

ただ、慶應義塾大学の礒﨑教授は、20年たった今、田中が主導した交渉そのものは、高く評価されるべきだと言う。
「秘密交渉を進めるということ自体は、成果を得る意味で必要であれば、それ自体は、批判の対象にはなり得ないと思うんですけれどね。少なくとも、北朝鮮問題、拉致問題で、この20年間で唯一の成果ですよね。それ以降、拉致被害者は帰ってきてないんですから」

官僚としてできることに限界を感じた田中は、やがて外務省を去ることになる。
ただ、今でも、20年前の交渉の影響や、今後の日本外交のために何が必要かを、考え続けているという。

これは、官僚もそうですし、政治もそうなんですけど、プロフェッショナルな役割は何なんだっていうことを、常に自問しながらやっていく必要があると思うんです。官僚は、世論に流されて世論が好むようなことをまず考えるということは、たぶん、やってはいけないんだろうと思います

取材後記

拉致問題は、20年前に被害者5人が帰国して以降、その家族が帰国したほかは、具体的な進展はなく、日朝関係全体も停滞といっていい状況にあると思う。こうした中で、田中の証言を聞くと、プロフェッショナルの意識に徹した外交交渉の進め方が、一定の成果につながった部分がある一方で、そうした手法が、必ずしも世論の理解を得られず、外交と世論の間に深刻な乖離が生じていたことがわかる。複雑な国際情勢の中で、いかにして、世論の理解を得ながら、適切な「解」を導き出していけるか。世論の望む方向と中長期的な国益とのギャップをいかに埋めていくか。そこに政治はどのような役割を見いだせるか。難しい課題だと感じた。
(文中一部敬称略)

国際放送局記者
増田 剛
1992年入局。政治部、ワシントン支局、解説委員室などを経て、2019年から現職。2002年9月の日朝首脳会談当時は、政治部記者として外務省クラブに所属し、田中均アジア大洋州局長を担当していた。