ウクライナ侵攻でロシア制裁
北方領土返還に影 元島民は

ロシアのウクライナ侵攻が、北方領土問題に暗い影を落としている。
ロシアが日本との平和条約交渉を中断し、元島民がビザがなくても故郷を訪問できる、いわゆる「ビザなし交流」の事業も停止すると表明したのだ。
日本の制裁措置への報復とみられる。
高齢の元島民たちは、もう故郷の土を踏めないかもしれないと危機感を募らせている。
(佐藤恭孝、青木新)

広がる落胆の声

「また故郷が遠のいた…」

ロシアが平和条約交渉の中断と「ビザなし交流」の停止を表明した3月下旬。
北方領土の元島民たちからは、憤りや落胆の声が次々にあがった。
旧ソ連軍の侵略により故郷を追われたあとも、いつかは戻りたいと島々を間近に臨む根室地方に住み続けてきた元島民たち。
ロシアが軍事侵攻を始めた2月以降、懸念されていた事態だったが、実際に表明されると、より重苦しい空気に包まれた。

福沢英雄さん(81)も肩を落としている1人だ。

福沢さんは、歯舞群島・多楽島出身。コンブ漁師の家に生まれた。

故郷で撮った家族写真は、今も大切に保管している。平和で穏やかな暮らしだった。
そんな生活は、戦争で一変した。

旧ソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えたあとの1945年8月下旬に北方領土に侵攻。
9月には福沢さんの故郷・多楽島にも上陸したのだ。

福沢さんは、当時5歳。酒に酔った兵士が、度々家を訪れ、貴重品を略奪。島民に銃を突きつけて脅す様子も鮮明に覚えている。

これ以上は危険だ。そう感じた一家は、漁船で夜にこっそり島を離れた。
その途中、海は大荒れとなり、船が浸水。父は船を軽くしようと積み荷の家財道具を海に投げ捨てた。

「この先の生活をどうするの」と叫ぶ母。
「命と財産、どちらが大事なんだ」と叫び返す父。
まさに命からがらの脱出だった。

(福沢さん)
「5歳でしたけど、これで死ぬのかなと思いました。生きるか死ぬかの境地にさらされた場面は一生忘れられるものではないです」

交流でつないだ望み

「奪われた領土を取り戻し、いつの日か故郷に戻りたい」

そう思い続けてきた福沢さんが、望みをかけてきたのが「ビザなし交流」だ。

「ビザなし交流」は文字通り、ビザの発給を受けずに、元島民やその子孫などと、北方四島在住のロシア人が相互訪問できる枠組みだ。
日本としては、草の根の交流を進めながら領土返還の機運を醸成していくねらいがある。

旧ソ連崩壊の翌年1992年4月に始まり、これまでに日本人およそ1万4000人、ロシア人およそ1万人が参加した。

故郷を奪ったロシアへの憎しみは大きかったという福沢さんだが、事業に16回参加。
北方領土のすべての島を訪問する一方、北海道を訪れるロシア人の島民をホームステイなどで受け入れ、交流を重ねてきた。
時の感情はどうあれ、交流が政府間の交渉を後押しし、領土の返還につながればという一心からだ。

(福沢さん)
「当初は、ロシア人のことを相当憎んでいました。でも将来、自由に往来できる時代が来れば、仲良くしておいたほうが得策でないかと。島に渡って抱き合える、そういう世界も開けるんじゃないかと」

そして、交流を重ねるとしだいに情も生まれ、親しみもわいていったという。


福沢さんは、自宅の離れに「北方領土友好館」という看板をかけ、交流の写真や記念品を展示するようになった。

(福沢さん)
「接しているうちに、性格もよく理解できるようになるんですよ。今、島にいるロシア人は、悪い人はいないと思います」

あきらめない

島の返還に向けて、着実につむいできた交流。
この2年は新型コロナの影響で交流が中断し、ことしはようやく再開できると期待が高まっていた。しかも、ことしは事業30年目の年。
しかし、その節目となる今月22日を迎える前に、突然、一方的に断ち切られた形だ。

侵攻を続けるロシア軍。
ニュースで目にする、逃げ惑うウクライナの子どもたちの姿が、島を追われた5歳のときの自分と重なり、いたたまれない気持ちになる。

(福沢さん)
「小さい子どもが『死にたくない』と大粒の涙を流し泣きわめいているじゃないですか。かつての私と重ね合わさざるを得ないんですよ。胸が張り裂けそうです。他人事とは思えません」

不当な侵略で故郷を奪われた自身の記憶がよみがえり、交流してきたロシア人への親しみの気持ちと交錯しているようにも見えた福沢さん。

こう口にした。

「島にいるロシア人、一人一人は、悪い人はいないのでしょうけど、国家のやることになると、一線が引かれる。これまで親しくしてきたのに、今までの交流が水の泡になってしまうと思うと、悔しくて、残念でなりません」

戦後77年がたとうとする中、進む元島民の高齢化。
福沢さんは、返還運動にどう向き合っていこうというのか。

「大統領がかわらないうちは暗い日ロ関係ではないかと思っています。いずれ大統領がかわれば、日ロ関係も北方領土のことも変わっていくはず。その時期が来るのを見守ります」

その上で力を込めて語った。

「長い間積み重ねてきた返還運動ですから、どうあろうと、あきらめるわけにはいきません。ロシア側から『もう日本は北方領土をあきらめた』と思われたら悔しいですから。運動は末代まで続けていかなければいきませんし、あきらめるわけにはいきません」

島民の思いに政府は…

政府は、どう臨もうとしているのか。
ゆさぶりをかけてくるかのようなロシアの行為に対し、すべてロシアの軍事侵攻に起因して起きていることであり、日ロ関係に転嫁することは認められないと主張している。
今後もG7各国などと歩調をあわせて制裁を科し、圧力をかけ続ける構えだ。

一方、北方領土については、領土問題を解決してロシアと平和条約を締結する方針は不変だとしながらも、今後の見通しについて「展望を申し上げるような状況にはない」というのが政府の公式見解だ。

現場で領土問題に携わる外務官僚たちの本音はどうなのか。

「ロシアは、もう『戦争犯罪国家』だし、プーチン大統領は『戦争犯罪者』。今後いったいどんな交渉ができるのか。普通に考えれば、もう交渉のしようがない」

「一方的に『交渉をやめる』と言ってきているが、こちらが対話の窓口を閉ざしたわけじゃない。この70数年、日ロ間で交渉できない時期は、これまでにもあった。今はこういう状況だが『ビザなし交流』だけでもやるべきだ」

「平和条約締結を目指す立場は一切変わってない。変わってないが… 交渉というのは双方がテーブルにつかなければ出来ない。なんとか局面が変わってくれれば」

元島民らのためにも返還への道を完全に閉ざしたくない。なんとか人道上の措置だけでも続けられないか。
そうした思いはありつつも、動かしがたい国際情勢の前に、なかなか打つ手がない、というのが現実のようだ。

1年1年が重い

終戦時1万7291人いた元島民は、5474人になった(3月末時点)。
この1年間で186人が亡くなった。
時々の日ロ関係に揺さぶられながらも、北方領土返還に向けて30年間続いてきた「ビザなし交流」。
政府間の交渉の進展が見通せなくなる中、元島民をはじめ、多くの民間の人たちが懸命につないできたチャンネルさえも途絶えてしまうのだろうか。
元島民たちは、もどかしさや焦りを募らせながらウクライナ情勢の行方を見つめている。もう1度、故郷の土を踏みたいと願いながら。
元島民の平均年齢は86.7歳。1年1年、刻の重みが増している。

釧路局記者(現地ルポ担当)
佐藤 恭孝
新聞社勤務のち2003年に入局。室蘭局、稚内支局などを経て去年から再び釧路放送局に勤務。北方領土問題やアイヌ問題をライフワークとして長年取材。北方四島には6回訪問。
政治部記者(ユン大統領の就任式を取材)
青木 新
2014年入局。大阪局を経て2020年から政治部。林外務大臣の番記者として、大臣の一挙手一投足を追いかける日々。