衝撃のカムバック
有罪確定の元市長はなぜ勝てた?

あの男が帰ってきた。
かつて全国最年少の市長として注目を集めるも、贈収賄事件で有罪が確定することに伴い辞職してから4年。

「私は無実だ」と、再審=裁判のやり直しを求める中で臨んだ岐阜県美濃加茂市の市長選挙で、元市長の藤井浩人(37)は、みずから後継指名した現職市長を破って、返り咲きを果たした。

有罪が確定し、支援してくれる組織もないにもかかわらず、藤井はなぜ立候補に踏み切ったのか。
そして、なぜ勝てたのか。
当事者たちの証言をもとに迫った。
(森本賢史、齋藤恵実)

圧勝での返り咲き

「ガンバロー! ○○さん、ありがとう!」
1月23日午後8時すぎ、早々に当選確実が伝えられた藤井は、「バンザイ」ではなく、これからがスタートだと位置づけて、駆けつけた支援者とともに「ガンバロー!」と声をそろえた。

そして、支援者一人一人を探し出しながら、「○○さん、ありがとう!」と繰り返した。
みぞれが降っていたが、支援者たちは濡れることもいとわず、藤井をねぎらおうと歩み寄り、列ができるほどだった。

“最年少市長”藤井旋風

藤井が“全国最年少市長”として注目を集めたのは、およそ10年前。
大学院中退後、学習塾の塾長をしていた藤井は、2010年10月に行われた美濃加茂市議選でトップ当選を果たし、政治の世界に入った。26歳という若さだった。
市議1期目途中の2013年6月には、美濃加茂市長選に立候補し、自民党が推薦する候補を破って初当選。当時28歳。現役の市長としては全国最年少だった。

「市長室にいない市長」をキャッチフレーズに、市役所に閉じこもらず、まちに積極的に飛び出して市民と対話しようという姿勢が、市民に好感をもって受け入れられた。
藤井の周りには、写真撮影や握手を求める市民で列ができ、いわゆる「追っかけ」の女性も現れるほどだった。
市長として初めての議会に臨んだ際、所信表明を聞こうという人たちで、市議会の歴史上初めて、傍聴席が満席になった。
その人気は、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった。

駆け上がるように市長になった藤井は、その後、想像もしていなかった苦境に立たされることになる。

突然の逮捕、そして辞職

市長になって、およそ1年後の2014年6月、藤井は逮捕され、その後、起訴された。
市議会議員時代に浄水設備業者から賄賂を受け取ったとして受託収賄などの罪に問われたのだ。

藤井は一貫して、無実を主張。1審は無罪だったが、2審は逆転で有罪。
2017年12月、最高裁が上告の棄却を決定。有罪が確定し、3年間の執行猶予の期間中、公民権が停止されることになった。

辞職会見では、身の潔白を主張した上で「市政を停滞・混乱させないように、引くのが役目だ」とする一方、「あすもあさっても、市長として働きたい」と、悔しさをあらわにした。

後継指名された伊藤

2018年1月、辞職後の市長選で、藤井から後継指名され当選したのが、藤井が副市長に据えた伊藤誠一(65)だった。

伊藤は、藤井が生まれる5年前の1979年に美濃加茂市役所に入り、企業誘致から区画整理までさまざまな市の事業に携わった。確かな手腕と誠実な人柄は、市役所内外から高い評価を受けた。そして“たたき上げ”の副市長として藤井を支えた。


伊藤の当選後、2人は固い握手を交わし、藤井は市役所を去った。
この年結婚した藤井の披露宴で、仲人を務めたのも伊藤だった。

反対押し切り立候補表明

国会議員の秘書などとして働いていた藤井は、執行猶予が明けた2020年12月、およそ1年後に迫った市長選を意識し始めていた。

そうした中、伊藤が2期目を目指して立候補を表明。
周囲は藤井に対し、口々に「あと4年は待った方がいい」などと諭したという。
みずからを支え、後継指名までした伊藤に、戦いを挑むのは、「不義理だ」という意見がほとんどだった。
しかし選挙を翌月に控え、藤井は立候補を表明。
この約2週間前には、改めて無実を訴えて、再審=裁判のやり直しを申し立てていた。


藤井は「すでに執行猶予も終わっている。再審請求についても、弁護士と裁判所のやりとりがほとんどで、市政への影響はない。立候補にためらいはなかった」と語った。

立候補を引き止めていた地方議員などは「不義理だ」として、ことごとく伊藤の支援に回った。
県議の1人は「もし今回失敗したら、今後、政治の舞台には出てこられなくなる。『1度は辛抱しろ』と言ってきた市民が何人いることか」と、怒りをあらわにした。
岐阜県で大きな力を持つ自民党や公明党も伊藤に推薦を出した。市内のさまざまな組織・団体も伊藤の支援を決めた。

「義理」より「政策」

2022年1月16日、選挙戦が幕を開けた。

伊藤の出陣式には、国会議員や県議・市議をはじめ、県内の政治家、地元の業界団体の幹部などが、ずらりと顔をそろえた。壇上で紅白幕をバックに、伊藤はこの4年間と2期目への思いをこう語った。

「市長の器ではないが、事件のあと、やはり継続をしなければいけないと、皆さんの熱い思いを聞いて決意した。本当にやれるのかなと不安もいっぱいだったし、事件で、美濃加茂市のイメージも決していいものではなかった。市民が“このままではいけない”、“明るい美濃加茂市にする”と一生懸命やってくれて、いろんな事業が今動きかけている。みなさんの思いを実現するため、私は何が何でも、その事業が花を開かせるまでは、責任を持ってやらなければいけない」

出席した自民党の国会議員は、「再審請求が認められなかったら、“またか”という話になる。市政を担う重責と自分の無実の証明。藤井氏には、今はどちらか1本に絞ってほしかった」と、藤井に苦言を呈した。

そのころ、藤井も街頭でマイクを握っていた。


応援に駆けつけたのは、同年代の支援者や、以前から付き合いのある県外の地方議員などにとどまった。
態勢に大きな差があるとわかっていて、藤井はなぜ、盟友ともいえる伊藤と戦う判断に踏み切ったのか。
選挙後に取材に応じた藤井は、「義理」より「政策」を重視したかったと振り返る。

「私の後任で、心から尊敬しているので、選挙で相まみえることには、すごく抵抗があった。しかし、市政をそのまま見過ごしてしまってもいいのかという葛藤があった。人間関係を乗り越えて、どちらの政策が未来にふさわしいかと訴えたかった」

市民の声聞いていれば…

藤井の言う「政策」とは、「市役所の移転計画」だ。
美濃加茂市役所は、築60年を超え、県内で最も古い市庁舎だ。


現在の計画では、市南部の美濃太田駅前に移転する案が示されている。藤井は、伊藤の計画の「決め方」に市民の意見が反映されておらず、見直すべきだとして、争点の核に位置づけた。

藤井は、立候補を表明する前から伊藤と話し合いの場を持ち、この計画や決め方について議論してきたという。
しかし伊藤は、市民に説明し意見も聞くが、場所の見直しまでは難しいと主張。藤井の立候補表明直前の11月にも、話し合いをしたが溝は埋まらず、藤井は立候補を決断した。

「市長時代、市民の意見をしっかり聞いて市政を運営するということをやってきたつもりだった。自分の方針と今の計画の進み方が違うなと感じていた。想像以上に庁舎問題に対する不満が多かった。課題が目の前にあるのに、伊藤氏にお世話になっているから選挙に出られません、人間関係が市の未来に優先しますと言えますか。ちゃんと意見を聞いてゆっくりこの計画を進めていれば、こんな選挙にならなかったのではないか」

愚直に継承したはずが…

伊藤は、「政治家」ではなく「行政マン」だと周囲から評される。


市役所の移転をめぐっては、藤井が市長時代に設置した諮問委員会が4か所の候補地を選定。
“ピンチヒッター”として市長になった伊藤は、場所をしぼり、計画を具体化させるために新たな諮問委員会を設置。メンバーの半数以上が、旧委員会でも委員を務めていた。
この委員会が「美濃太田駅周辺が最適」とする現行案の基礎となる答申を出していた。
伊藤は、藤井の方向性を受け継ごうと、愚直に突き進んだ。その結果が、藤井の指摘する“市民の意見を反映していない”という批判につながったと分析する人も多い。

新型コロナウイルスの影響もあって、移転計画の説明会に参加したのは、一部の市民に限られたこと、市長として市民と交流する機会が失われ、市民との距離を縮められなかったことも響いた。

藤井が市役所の移転を争点に掲げ、陣営の中には「こちらもいったん計画案を白紙にすると言えばいい」という意見もあった。
しかし、伊藤は自分を曲げなかった。耐震性の低さなど、問題の多い市役所の移転を先延ばしにしてはならないという責任感があった。

対照的な選挙運動

2人は、選挙運動のスタイルも対照的だった。
市議会議員16人のうち少なくとも12人から支援を受けた伊藤は、議員やその後援会、業界団体など、組織をフル動員した選挙戦を展開した。


新型コロナウイルスの感染が急拡大し、伊藤が公務に追われる中でも、代わって伊藤の妻や議員が街頭演説を行ったり、街宣車で支持を呼びかけたりした。
支援する各組織・団体も、伊藤支持を呼びかけて引き締めを図った。

一方、藤井は、市長時代のように、市民一人一人との対話を重視した運動を展開。自転車で、市内をくまなく回り、市民を見つけるなり、走り寄って話しかけた。


陣営から議員や組織が去った一方、若いスタッフのアイデアが次々に採用されたという。
密を避けるために、車の中で演説を聴いてもらう「ドライブイン」型の総決起集会もその1つだ。また、YouTubeやインスタグラムを活用し、毎晩、ライブ配信で訴えた。YouTube配信の視聴者数は65歳以上が20%以上を占めるなど、若い人だけでなく年配の有権者にも届いたという。

陣営の中心にいた20代のスタッフは「今回の選挙では、若手が重要な意思決定に関わることができた。それぞれがアイデアを出して、やってみようとなって、フットワーク軽く運動を展開できた」と振り返る。

人間関係が援軍に

藤井は「人間関係よりも政策、市の未来」と言って立候補したが、援軍となったのは、これまでの人間関係だった。

市長時代に公務で訪れた中学校の生徒が成人し、藤井の元に駆け寄ってくることもあった。前述の陣営の20代スタッフは、塾時代の教え子だ。市長辞職後も、コロナ禍でテイクアウトを始めた飲食店に出入りして、SNSでメニューなどを紹介する投稿を続けていて、ある有権者は「とても参考になったし、地道に活動しているな」と評価した。

藤井自身も、これまでの人間関係が力になったと感じている。


「市長時代、市政に関心を持ってもらいたいと、私があちこちに足を運んでいたことで、直接会ったことのある人が多いと実感した。選挙しながら、そういえばこの人と会ったことある、話したことあるって。有権者も、会ったことない人より、会ったことある人。人気というか、親近感や距離感も今回の結果につながっているのではないか。学校に来たとか、自治会に来たとか、困りごとの話を聞いてくれたとか、そういうところからやはり市政って広がっていくと思う」

30代の陣営幹部は、「有罪は大きなマイナス要素にはならなかった。みんな無実と信じていたし、再スタートを応援したいという人が多かった」と分析する。

築いてきた人脈がきっかけとなって、藤井支持の輪は草の根で広がっていった。藤井自身も、日を追うごとに、その広がりを感じていた。
「選挙戦中盤あたりからは、街頭演説をしていると、人が湧くように集まるようになった。選挙カーで走ると、沿道の住宅のカーテンがどんどん開くようになった。その熱気は肌で感じられた」

4年ぶりの返り咲き

そして迎えた1月23日、市長選挙投票日。

結果は、藤井1万6307票 伊藤8325票。

逆風とみられた中で立候補した藤井の圧勝だった。
市長時代から続く人気や人脈をベースに、組織に頼らない選挙戦略と争点設定で支持を拡大したものと見られる。

藤井市政 今後は

藤井の勝利について、県内のある自治体の長は「藤井の『いいまちを作る。それには義理と人情は関係ない』というのは、新しい政治観だ。義理と人情が根幹にある人たちには理解できない。新しいタイプの政治家として、頭角を現す可能性はある」と評する。

また、伊藤陣営の幹部は「時代が変わった。私も古い考えを変えないといけないと感じた。議員や組織がまとまってどうこうすればよい、ではなく、市民感情についていけるかどうかが大切だった。藤井氏の義理を政治に持ち込まない姿勢を100%は理解できないが、こういう結果になってしまい、反省してもしきれない」と思いを吐露した。

市民の中には、藤井と市議会の関係が悪化し、市政の停滞を招くのではないかという不安を口にする人もいる。多くが伊藤の応援に回った市議たちも、「市民に迷惑をかけないことが一番大切だということを議会は心得ている」としながらも、藤井の出方に注目している。

選挙の5日後、自転車にリュック姿で市役所に現れた藤井は、市の幹部らから拍手と花束で迎えられ、「職員の思いと声を市の未来につなげ、輝く美濃加茂市を継続できるよう全力で取り組みたい」とあいさつした。


そして就任にあたっての記者会見では、市民などとの対話を重視した市政運営を進める決意を強調した。
「今の新庁舎計画に不満や不安を持ってる方がたくさんいることが選挙で形になったと思う。計画を検証した結果を市民に開示して、いただいたご意見を受け止めたい。庁舎の場所や予算規模、機能について、これまでのデータを有効に活用しつつ、1から作っていきたい。議員の皆さんへの働きかけも行っていきたい」

藤井が、激しい選挙戦で生まれたわだかまりを解かしつつ、市役所の移転計画などで、どのように「藤井カラー」を出していくのか。真価が問われるのはこれからだ。

(文中一部敬称略)

岐阜局記者
森本 賢史
2016年入局。金沢局を経て2020年に岐阜局に。県政キャップとして、県内の行政や選挙を幅広く取材。
岐阜局記者
齋藤 恵実
2019年入局。県警担当を経て、県政や美濃加茂市政を担当。選挙戦では藤井氏をはじめ両陣営の取材に奔走。