人工呼吸器6日間の眠り
生還の記録 【前編】

夜中も響く電子音、指先には24時間酸素飽和度を測る機器がついている。
53歳。NHKで選挙報道の仕事をしている私は、新型コロナウイルス感染症により7月下旬から1か月間都内の病院に入院した。肺炎で一時重症にもなり、6日間人工呼吸器につながり眠り続けた。
いま、自宅療養者が十分な医療を受けられないことが問題となっているが、私もその時期、とても不安だった。
感染、発症した時の参考になればと病室でこの記事を書き始めた。
(花岡信太郎)

【リンク】後編「コロナは全身病 リハビリの記録」はこちら

静かに訪れた前兆

◆7月15日(木)都内感染者1308人
体のだるさや背中の痛みを感じていた。熱はない。この政治マガジンの編集に関わっているので、オンラインの定例会議に出席した。前日にコロナの1回目のワクチン接種を受けていた。副反応かなと思いながら過ごした。

◆7月17日(土)都内感染者1410人
朝、38度を超す熱が出た。

「これはコロナかもしれない…」

かかりつけのクリニックでPCRを検査を受けた。
「結果は明日か明後日お伝えします。お大事に」と言って、医師は私を送り出した。

数年前に妻が倒れ、親元で介護生活を送っているため、私は東京都内のマンションで独り暮らしをしている。毎週日曜日は介護の手伝いに行くことになっているので妻の父に事情を説明し、明日は行けないことを告げた。
週末は薬を飲みながら自炊し、ずっと寝ていた。食欲は普通にあった。

まさか自分が…

◆7月19日(月)都内感染者727人
「コロナなのか、違うのか」と、繰り返し頭の中を巡ったこの日の朝、枕元のスマホが鳴った。
クリニックの医師からだ。

「陽性でした。保健所に連絡します」

私は、コロナウイルスに感染した。
身の回りに感染者はいない。感染経路に心当りはなかった。

保健所からは、薬を飲みながら今月27日までの自宅療養を指示された。
できればホテルで療養したいと希望したが、担当者は「声を聞いたらお元気そうなので自宅でどうでしょう」ということだった。「いっぱいなんですかね」と聞くと、「まあ」とあいまいな答えが返ってきた。
自宅療養者の健康観察を行う東京都のフォローアップセンターにも体調を説明した。

また、解熱剤がなくならないよう区に紹介してもらった医師のオンライン診療を受けた。受診後、薬局から電話があり、薬を午後3時過ぎに郵便受けに入れるので注意して取りに行ってほしいと指示があった。時間になり、周りに誰もいないことを確認し、小走りで郵便受けまで行き、薬を受け取った。
いま振り返ると、この日はまだ比較的元気だった。

◆7月20日(火)都内感染者1387人
ネットショップで注文した冷凍食品や水などが到着。宅配業者に接触するわけにはいかない。

「ちょっと、そこに置いといてください」

しばらくしてからドアの前の荷物を家の中に入れた。
職場の後輩も差し入れをドア越しに届けてくれた。
近くの神社のお守りも入っていた。以前、後輩とこの神社で初詣をしたことを思い出した。

届かない検査機器

◆7月21日(水)都内感染者1832人
この日までの3日間は、解熱剤を飲めば下がるものの、38度以上の熱が続いた。

ここでがっくりしたことがある。
区の保健所から水曜日までに届くと言われた血中酸素飽和度を測るパルスオキシメーターなどが届かなかったのだ。
手配を担う都に聞いてみると、区からの連絡を経由しているので、届くのは23日金曜日になるという説明だった。
体調の変化を知るうえで重要なデータが計れないことに不安を感じた。

「もう 動けない」入院したい

◆7月22日(木)都内感染者1979人
朝から38度後半の発熱。頭痛、匂いがしない。
食事を作ったが、台所に立つのも辛い。体調の悪化をはっきりと感じた。
長野で暮らす母から電話がかかってきた。状態を心配して炒め物や煮物を送ってくれていた。正直に話した。

「匂いがしない。味も野菜か肉かがわかる程度だ」

この日、体温を測ったのは13回。下がらない熱、呼吸も浅くなった。
ついに入院の希望を出した。区の保健所は「この日の入院調整は終わったので、翌日の調整になる」ということだった。

ベッドでぐったりしながら「入院を明日まで待たなければならないのか、本当に明日決まるのか」と焦りを感じた。
フォローアップセンターにも入院の相談をした。
「状態がこれ以上悪くなれば、救急車を呼んでください」ということだった。

俺の体に何が起きているのか。
高熱がこんなに続くことは経験がない。

身長170センチ体重84キロ。健康診断では、もう少しやせるように言われている。右膝を手術したこともあり、どうしても運動不足になりがちだ。血圧は一時、医者に通うほど高かったが5年前からは正常値を維持している。
たばこは18年前にやめた。ただ、熱が出るまでは、酒は家でほぼ毎日飲んでいた。
とはいえ、大きな病気もせず、今は基礎疾患も無い。

体温は引き続き38.5度以上。体が熱くて仕方がない。水を多めに飲む。エアコンの温度も下げる。あまり変わらない。冷蔵庫の氷を薄い袋に入れ首筋や脇に当てるがすぐにとける。

「もう、動けないな…」

コロナウイルスが体内で暴れているのか、どうして、こうなっているのかが分からないことが最も不安だった。
早く入院したいという気持ちが募る。

夜7時過ぎ、熱は39度を超えた。
救急車を呼ぶことを考えたが、いったん少し下がったので、思いとどまった。寝ようとしたが眠れなかった。

未明の救急搬送

◆7月23日(金)都内感染者1359人
午前1時ごろ、再び39度を超えた。ここで決心した。
1時20分ごろ、救急車を要請。
1時45分頃、3人の防護服姿の救急隊員が到着した。血圧や酸素の状態を調べた。酸素の値は92。健康な人は100から95。

「やっぱり低いんだ」
妙に納得した。

隊員は「搬送先はこれから決めます」と告げた。
1人が玄関先で私の様子を見ている。後の2人は外で連絡している。
祈るような気持ちで成り行きを待つ。

何十分たったころか「救急車呼んでいいって言われたんですよね」と念押しされた。呼んでいいと事前に言われていなければ対応は変わったのだろうかという思いが、もうろうとする頭の中でよぎる。
その後「区で入院調整中」という言葉が聞こえた。間もなく搬送先が決まったようだ。
救急隊が到着して1時間20分後の午前3時過ぎ、大きなサイレン音とともに出発した。

救急車に生まれて初めて乗ったが、装備などに興味も湧かず、ただうつむいていた。15分後、病院に到着。
コロナ感染者専用と思われる入り口から入る。
検査や診察が終わった。

「コロナウイルス感染症による肺炎ですので、入院して治療します」

こう告げる医師の声が重く響いた。

「よろしくお願いします」

自然に頭を下げていた。

この時撮ったCTスキャンの画像で肺の部分が白く映り、肺炎と診断できたということだった。画像では炎症は白く、炎症がない部分は黒く見えるそうだ。
つまり、自宅療養中に肺炎を起こしていたことになる。

コロナの患者の対応にあたる人たちは、当然、全員防護服にフェイスシールドやゴーグル。エレベーターを操作する人も専任という感染対策の徹底ぶりだった。コロナ専用病棟の病室に入ったのは 午前4時を回っていた。4人部屋で私のほかは1人だけだった。

少し楽になったが…

◆7月24日(土)都内感染者1128人
コロナによる肺炎の本格的な治療が始まった。病院が作った入院診療計画書には、推定される入院期間として1週間と書かれていた。
しかしそうはいかなかった。治療は、ステロイド剤などの投与で肺の炎症を抑え、多くの酸素を含んだ空気を鼻から吸入し続けて、呼吸状態を改善するという方針だった。
医師に、私が感染したのはデルタ株なのか聞いてみた。

「治療にはどんな株かは関係ないので調べていません」

そういうものかと思った。
自宅にいた時にあった背中の痛みは消え、少し楽になった。しかし酸素の値は上がらないままだった。

広がる肺炎

◆7月25日(日)都内感染者1763人
CTスキャンの結果を持って、医師がやってきた。予想もしない内容だった。
肺のあちらこちらに炎症がみられるとして、ICUでの治療の可能性を示されたのだ。
医師は帰り際、こう言って部屋を出て行った。

「コロナの肺炎の勢いはすさまじいです」

厳しい口調が胸に突き刺さり、言いようのない不安に襲われた。

緊張感に満ちたICU

◆7月26日(月)都内感染者1429人
肺の面積を広げて呼吸しやすくするためにうつぶせで寝ることを指示された。しかし86と酸素の値は悪くなる一方だった。
その後、酸素吸入量を増やしても状態は良くならなかった。

夜に入り、ついにコロナ専用のICU=集中治療室に移された。
一般病棟よりも厳重な感染対策をした人たちがいた。こちらからは相手の目しか見えない。

生きて還ってこられるのか…

◆7月28日(水)都内感染者3177人
緊張が解けないまま、夜が明けた。

「肺炎が重いので人工呼吸器による治療をします。気管に管を入れますので苦痛を和らげるための鎮静剤で眠ってもらいます」

「どれくらいかかるんですか?」と尋ねた。

「人によって違いますが数日です。承諾書にサインしてください」

何を承諾するのか、意味を想像して凍り付く。
いったい生きて還ってこられるのか。この上ない怖さが込み上げてきた。

私は看護師と何か話をしたらしいがよく覚えていない。
後から聞いたところでは、選挙報道の仕事について説明し、8月22日投票の横浜市長選挙には間に合わせたいと言ったらしい。

鎮静剤で眠り、人工呼吸器を使った治療が始まった。
この治療、東京都の定めた重症の基準となっている。ここまで来て、ようやく私は重症患者になったということだ。
呼吸を助け、並行して薬を投与して炎症を抑え、太い静脈に点滴を入れて栄養を補給する。他にも胃や尿管が管でつながっている。


足には、安静状態に伴う血栓防止のためのマッサージ機が動いていた。
後日、医師に当時の状態を聞いてみた。

「花岡さんの場合、肺炎が悪化していまして、呼吸が十分に行えていませんでした。このままだと体全体が低酸素になり、命が危なくなるおそれがあったため、人工呼吸器を使いました」

入院がもう少し遅れていたらと思うとぞっとする。

6日間眠り ようやく目を覚ました

◆8月2日(月)都内感染者2195人
目を覚ますと、沢山の医師や看護師がいた。
この日が8月2日であることは後で知った。
7月28日から6日間、眠り続けていたことになる。

「肺の状態が大幅に改善しました。よく頑張りました。これは、グッドニュースですね」

人工呼吸器の治療が終わったことは職場の上司と私の両親に伝えられた。この治療の期間中、緊急連絡先として登録していた上司と両親に逐一、医師たちが電話で経過を報告してくれていた。人工呼吸器の患者が自分から連絡が取れないので少しでも安心してもらおうと行っている取り組みだという。
きめ細かい心遣いに感謝するとともに、大変な負担をかけていることを痛感する。

6日間眠り続けて困ったことの1つは日付と曜日の感覚を失ったことだ。さらに、この病院、病室に時計がない。ICUに入る時に腕時計も携帯も預けてしまったので、看護師が来るたびに時間を尋ねていた。

「オリンピックどうなってます?」

そういえば、まさに、佳境を迎えているころだと思い、看護師に話しかけた。テレビをつけてくれた。久しぶりのテレビだ。競技を少し見て消した。スポーツ観戦が好きなので普段ならずっと見ているはずだがそんな気分では無かった。

再び 暗転

◆8月3日(火)都内感染者3709人
状態が安定してきたため、看護師に手伝ってもらいながら、職場の上司、私と妻の親に電話した。私から電話があると思わなかったようでびっくりしていたが少しは安心してもらえたかなと思った。

ICUで急患を受けるため、私は一般病棟の個室に移った。
人工呼吸器が外れた後、私の呼吸を助けたのはネーザルハイフローという療法だ。
鼻に入れたチューブから酸素を多く含んだ空気を突風のように送り込むというものだ。ビュービューと音がして風のなかで寝ている感じだ。スピードをつけて送り込まれる空気によって鼻などを痛めないように水分を含ませ、温度も体温に近くに設定されている。口は開けられるので話はできた。

後は退院に向けて体を元に戻すはず、だった。
しかし、コロナは鎮まってくれなかった。

若手の医師から「あまり酸素の値が良くなっていないです」と告げられた。再び人工呼吸器を使用する可能性も示唆された。

「また何日も眠り続けるというのか…」

医師のPHSが鳴った。

「酸素の量を変えながら何とか粘っているところです」

私の状態を報告し、上司のアドバイスを受けていた。
体に負担がかかる2度目の人工呼吸器は、できれば使いたくないという意向がやりとりを通じて伝わってきた。

電話の相手、この病院のコロナ特別チームのリーダーを務める医師が来た。
「肺炎がこのまま収まっていくのかと思ったけど、ぶり返していく兆候が見られる。まだ、作戦はたくさんあるから、私たちも考えるから一緒に頑張りましょう」と励ましてくれた。

私から握手を求めた。手袋をしていたが、その手の感触が有り難く、無心で強く握っていた。

幻影に苦しむ

その日のうちに私はICUに戻った。
再び人工呼吸器につながれるのか。この3日間が辛かった。特に夜が辛かった。

ありもしない緞帳のようなカーテンが降りる様子、月がいくつも重なって見えたこともあった。
眠ろうとすると決まって見えたのは、万華鏡のような模様、たくさんの人がやって来て私の周りで動き回る様子だった。

コロナが幻影を描き、私を揺さぶっていた。見えない敵を吹き飛ばそうと大きく息を吐いた。
眠るのが怖かった。もう、戻ってこられないと思ったからだ。
体温も高く、氷枕を2つ持ってきてもらい、1つは頭の下、もう1つは右の脇に挟んで寝た。

悪夢が襲う夜

◆8月4日(水)都内感染者4166人
ICUは個室だ。頭の上には血圧や心電図の波形、酸素の値などを示すモニター。血圧計はベッドの左側にセットされていて1時間に1回自動的に測る。右には高カロリーの輸液などの点滴をコントロールする機器。右腕には採血などで使うため、動脈にチューブが入っている。左側にはネーザルハイフローの機器が置かれ、鼻から風のように酸素を送り込んでいる。

看護師は頻ぱんに出入りし酸素を送り込むスピードを調整し、数時間ごとに私が寝ている姿勢を替えている。いつも忙しそうだ。
これ以上悪くなれば、再び人工呼吸器のお世話になるのかもしれない。それはどんな状態を意味するのか。
2度目の人工呼吸器は避けたいという医師のやりとりが思い出される。

眠ろうとしたら、またも私の周りを多くの人が囲み、動いている様子が見えてしまった。しかし、これだけで左手に握りしめたナースコールのボタンは押せない。

夜勤の看護師が入ってきた時、思い切って聞いてみた。

「私は変になってしまったのでしょうか」

看護師が冷静に答えた。

「受け答えを見る限り正常です。夜に、変なものが見えたとしても治療中の一つの出来事と受け入れてしっかりしてください」

看護師は24時間、親身になって助けてくれた。聴診器での呼吸状態のチェックなど治療に直接つながることだけでなく、時には話し相手にもなってくれた。
中には、口を拭くためのティッシュペーパーを取ってほしいとお願いした際に「そんなことも出来なければ、何にも出来なくなってしまいますよ」とピシャリと叱ってくれる人もいた。
大変な重労働で自らの感染の恐れもある仕事なのに、みなさん明るかった。本当に頭が下がる想いだ。

◆8月5日(木)都内感染者5042人
酸素の値は95に回復。再び、人工呼吸器を使うことはなかった。ヤマを越したのだ。

「もう戻ってきちゃダメですよ」

看護師が明るく笑った。

【リンク】後編「コロナは全身病 リハビリの記録」はこちら

【英語 link】A COVID-19 diary: battle for survival

選挙プロジェクトデスク
花岡 信太郎
1992年入局 富山局 社会部 成田報道室 札幌局 横浜局などで勤務 現所属は2019年から(2回目)入院中食べたかったのはスイカ