NY~東京~沖縄 1万2千キロの大移動で見えたもの

7月12日、東京に4度目の緊急事態宣言が出された。新型コロナウイルスの“第5波”に、身をすくめる日本。

一方、世界最悪の感染拡大を経験したアメリカ・ニューヨークでは花火が打ち上げられ、コロナ克服を祝っていた。

次の一歩が踏み出せない日本。それでも突き進むアメリカ。

ニューヨークから帰国した記者が感じたこととは…
(野口 修司)

「ワクチン打ったか、聞かないの?」

6月中旬。
ニューヨーク発JAL005便で日本に帰国した私を待っていたのは、「何時間かかるのだろう」と案じていた羽田空港での入国審査だ。

出発直前の6月4日。日本政府は、ニューヨーク州からの帰国者について、3日間、政府指定の施設にとどめる措置を決めていた。
帰国後14日間の「自主隔離」のうち、最初の3日間は、政府が決めたビジネスホテルなどの宿泊施設で過ごすということだ。

それ以外にも、出発前72時間以内のPCR検査の陰性証明、誓約書、GPSで現在地把握などに必要な3つのアプリのインストール、ウェブ上での健康診断アンケート回答と最後に出てくるQRコードの保管…といろいろある。

指さし確認しながらチェックイン、搭乗。機内では、さらに検疫所長宛の「私はちゃんとアプリをインストールしますし、スマホがなければ借ります」という、別の誓約書にも署名した。持ってきた客室乗務員の申し訳なさそうな表情が印象に残る。

日本時間の翌日夕方、羽田空港到着。

国際線のゲートをいくつか転用して、書類提出などのための関所が設けられている。
行く先々で、アルバイトとおぼしき若いスタッフが相手をしてくれる。目の前にアクリル板、機械的にスムーズに書類を回収していくが、誰も聞かないのだ。

「ワクチン接種は済んでますか?」

同じ便に搭乗していた、おそらく米大学に留学しているのであろう女性と目が合った。

「誰も『ワクチン打った』って聞かないんですね」

懸命に私たち入国者の相手をしてくれているスタッフに、逆に聞いてみた。

「皆さんは、ワクチン打っているの?」
「いえ」
「じゃあ、きょうは最後にPCR検査とかするの?」
「いいえ」
「ちなみに、きょうの仕事が終わったあと、家までどうやって?」
「電車です」

世界中から入国する不特定多数の人と接する彼ら彼女らは、そのまま帰宅するらしい。
ワクチン接種済みの私らは、政府指定のホテルへ半ば強制的に連れて行かれる…

彼ら彼女らは、入国者4~5人に“羊飼い”のように付き添う。私たちは、コンビニなどに立ち寄ることは許されておらず、待機するバスに導かれる。
ろくに外の風景も見ないまま、ホテルに着いたのは、午後10時半。

ニューヨークの旧宅を出てから24時間がたっていた。

ホテルは、横浜にある「アパホテル」。HPによると2500室もある大きなホテルだが、丸ごと政府が借り上げている。
3度のごはんはドアノブにぶら下げられる「箱弁」。

部屋から一歩も出てはいけないし、アルコールは禁止。
広さ11平方メートルの部屋から一歩も出られないのは、なかなかきつい。
大きなスーツケースが足場を消す。
部屋にある案内には大浴場も紹介されていたが、当然行けるわけもない。

食事の時間が近づくと室内アナウンスが流れ、それに促されてドアをそろりと開け、引っかけてある弁当をいただく。
アメリカ帰りには美味しかったが、ある時、ドアの小さな窓から廊下をのぞくと、防護服を着た人がワゴンを引っ張って、弁当をドアノブに慎重に引っかけている。

「あぁ、俺たちは感染疑い者なんだ」と教えられる。
「やってる感」はすごい。でも、「そこじゃないだろう」とも感じた。
3日間の宿泊費・食費は無償。国の予算で賄われている。

少なくともスタッフ全員にはワクチンを打たせてから、そして、なるべくペーパーレスの手続きを、何よりワクチン接種の確認はしてほしいなと。

ちなみに、こうした措置を求められるのは、アメリカからの場合、どこの州から帰国するかで違う。感染状況によって判断が分かれるからだ。
ニューヨーク州が対象になったのは6月4日から24日まで。私はちょうど「当たった」ことになる。
ただ、ニューヨークを出発する前にはこんな話も聞いてはいた。

「陸路で移動してワシントンから飛行機乗れば、アパホテル行かずにすむらしいよ」

ニューヨークは死の淵を見た

去年の3月22日午後8時。
感染が急拡大したアメリカ・ニューヨークは、「ロックダウン」に突入した。

マンハッタンから人がほぼ消え、時に、「オレの近くを歩くな!離れろ!」という怒号も聞こえた。
近くに大きな病院があるのだが、入り口はトリアージ(症状による患者の選別)用にテントが設けられ、駐車場には亡くなった人を一時的に安置する大型コンテナ…。

市民が憩うセントラルパークには「野戦病院」が登場。

慣れない、いやおそらく好きでもないのに、ニューヨーカーはマスクを肌身離さず、ほぼ毎日行われるニューヨーク州知事の記者会見を食い入るように見ていた。
1日の死者は、最多の時で799人(去年4月10日)。
これは、アメリカ全体ではなく、ニューヨーク州だけでだ。

「感染したら死ぬかもしれない」と皆がリアルに感じたのが、アメリカだったと思う。

当時、ニューヨーク州が徹底したのが、PCR検査だ。

原則、無償。「受けろ、受けろ、受けろ」だ。
州外に出て戻ってきたら受けろ、でないと次の仕事には行かせない。
ロックダウン緩和には、数値的な7つの条件を提示し、クリアすれば、次の段階。
リスクをとってでも、ここは踏ん張るという気概は見て取れた。

あれから1年余り。
ニューヨーク州の10万人あたりの感染者数は、今月(7月)はじめ時点で10人弱。マンハッタンを含むニューヨーク市は13.5人だ。(日本では7月5日までの時点で、東京が29.44人、2位の沖縄が28.42人)

ニューヨーク州のPCR検査数は、ことし4月には1日20万件を超えたが、ほぼ同じタイミングでワクチン接種もほぼ同じ数。その後、ワクチン接種数がさらに伸びていく。

筆者は、4月2日に、日本で言う大規模接種会場で接種を受けた。
マンハッタンにあるジャビッツセンターという大きな展示場は、以前、モーターショー取材で来た場所だ。迷彩服を着た州兵の誘導で、医者ではない黒人女性に打ってもらった。訪ねてから接種後の待機も含めて、かかった時間は30分ちょっと。
正直、アメリカに来てもっともスムーズな体験だった。

州内に在住していれば、接種の権利が与えられた。日本のように接種券が送られてくることはなく、電話やネットで予約が取れれば“はいどうぞ”。5月に入るとドラッグストアやコンビニのような場所でも、予約なしに接種できるようになっていく。

アメリカでは、新型コロナが猛威を振るっていた去年5月、「オペレーション・ワープ・スピード」という名のワクチン開発のための官民合同プロジェクトが始動し、政府は100億ドル(1兆円超)の予算を充てた。
その年11月の大統領選挙に、ワクチンが間に合わなかったのはトランプ大統領(当時)にとっては不幸なことだったが、接種が加速しながら普及したのは、あの政権の“置き土産”だったと私は感じている。

あの経済状況と似る、今の日本

さて、日本に戻る。その後の自主隔離も終え、6月末、東京の街に出てみた。

ニューヨークで感じたような切実な感じはしない。
銀座も渋谷も人は多い。ただ、マスクはほぼ全員。もちろん、屋外でのマスク着用義務をとっととやめたニューヨークは行き過ぎだと思うが。
街の雰囲気の大きな違いの要因は、ニューヨーカーが感じたような「死ぬかもしれない」という経験がないことだと思う。
「こうしていれば、かからない」という確信にも似た思いもあるかもしれない。

結局、だらだら、と言ってもいいような状態が続いている感じだ。

日本経済は、長いことデフレにあえいでいる。
デフレーションとは、物価が下がり続け、経済規模が小さくなっていく、経済にとってはゆゆしき現象だ。
しかし皮肉なことに、(「値段が安いなら、いいじゃん」というか)強烈な痛みは、なかなかない。
だからこそ、長期にわたって続くということにもつながっている。
今の日本のコロナ禍の対応は、それに似ているように感じる。

「谷深ければ、山高し」のアメリカ

去年、アメリカは景気も株価も深い谷に落ち込んだ。しかし、その後は金融緩和と財政出動、それにワクチン普及をエンジンに、高い山を描くようなV字回復を続けている。

日本は深い谷には陥っていないが、高い山を臨む気配もない。
さながら、無限ループのようにも見えてしまう。デフレ克服と同様に決定打が出てこない。

アメリカを礼賛するつもりは、さらさらない。
ニューヨークは、依然、失業率も高く、傷は癒えていない。
公衆衛生に対するリテラシーは日本が圧倒的だし、だからこそアメリカのような悲惨な状況を免れているとも思う。

ただ、日本に帰国して街を見ていると「これでいいのかな」と何度もつぶやいてしまう。

「無限ループ」から抜け出すには

状況打破には、リスクテイクと展望、戦略、予見、それに推進力とスピードが必要と思う。

沖縄県の緊急事態宣言延長が決まった7月8日。筆者は那覇にいる。

ニューヨーク出発から3週間後、東京を経て赴任した。
「世界でいちばん感染拡大した」ところから、言ってみれば「いま日本でいちばん感染拡大している」ところに、合わせて1万2千キロ移動し、異動してきた。

すでに「梅雨明け」し、夏本番だが、那覇の繁華街・国際通りに人はまばら。

人事異動は、どの企業にとっても一大イベントだが、送別会も歓迎会も開けないでいる。

会う人みな、あたたかいが、国際通りににぎやかな人の声が戻り、「めんそーれ」な気分を味わえるのは、もう少し先になりそうだ。

沖縄局放送部長
元アメリカ総局(ニューヨーク)特派員
野口 修司
1992年入局。この夏から沖縄へ。任期中、ヤンキースが弱すぎたのが心残り。