生き残った信州の王国

新型コロナウイルスに感染して羽田雄一郎元国土交通大臣が死去して4か月。

その「羽田」の議席を得たのは、やはり「羽田」だった。自民党の候補におよそ9万票差をつけた、雄一郎の弟・次郎。
総理大臣を務めた父・孜。そして祖父・武嗣郎の時代から続く「羽田王国」の底堅さは、今回も健在だった。

世襲に批判が集まることもある今のご時世で、いったい、なぜ、これほどまでに「羽田家」は長野県で支持されるのか。
長野局に赴任して2年。信州出身ではない私・西澤には、その理由がよく理解できなかった。

「羽田王国」とはなんなのか。今回の補選を通じて探ってみた。

(西澤文香、牧野慎太朗)

「羽田王国」前面の選挙戦

初当選を果たした次郎の選挙戦は、「羽田ブランド」を前面に出したものだった。

次郎は東京出身。
父・孜の秘書を務めていた経験はあるが、その後はコンサルティング会社の役員となり、政治とも縁遠かった。
今回の選挙、頼れるのは「羽田」の看板以外になかったと言っても過言ではなかった。

補選の告示日。次郎は父・孜と、兄・雄一郎が眠る墓を訪れた。

「兄の遺志を継いでの戦いなので、戦い抜くから見守っていてほしいと手を合わせた」

そして告示日の第一声。11分ほどの演説で次郎は「兄」ということばを8回使った。

「兄が目指した政策を何としても実現しなければならない」
「兄がご期待をいただいた、この信州長野県の大きな、そして大変重要な議席を、私は何があっても勝ち取らなければいけない」

しかし、いくら名門だといってもそれほど簡単に支持が集まるものなのか。私たちは、県内各地の街頭で有権者に話を聞いてみた。すると、聞かれたのは次郎への投票を考えているという声。自民党への批判を理由に挙げる人もいたが、何より目立ったのが「『羽田』だから」だった。

もちろん、「弔い選挙」という側面はある。ただ、それだけではない「羽田」という言葉の持つ重みを感じた。

まさかの訃報

初めて「羽田」という言葉の持つ重みを感じたのは、次郎の当選から遡ること4か月前の12月27日。
この日の夕方、突如、雄一郎の訃報が飛び込んできた。

デスクからの一報を受け、私は信じられない気持ちで、午後8時頃、長野市を出て、上田市にある雄一郎の後援会事務所へと向かった。10人くらいの関係者が憔悴しきった様子で電話対応などに追われていた。雄一郎の死が、紛れもない事実だということは、その様子から理解できた。

私は事務所に着くまでの車の中で、必死に関係者に電話をかけ続けた。どうしても聞かなければならないことがあったからだ。

「後継はどうするんですか?」

『こんな時にそんなことを聞くな』という声が返ってくるかとも思ったが「出すなら『羽田家』からしかありえない」というはっきりとした言葉が返ってきた。この「羽田家」という言葉に、必ず議席を守らなければならない、という関係者の執念を感じた。

「羽田王国」の威信をかけた闘いは、すでに始まっていた。

華麗なる一族

「羽田王国」はいつから始まったのか。その歴史を調べてみた。

「羽田王国」のおひざ元は、長野県第3の都市・上田市だ。長野県の東部に位置し、新幹線も通る。ここにはかつて、武将・真田幸村ゆかりの城、上田城がそびえ立っていた。その城のあとにできた、上田城跡公園の片隅に、次郎の祖父・羽田武嗣郎(ぶしろう)の胸像がある。

武嗣郎は、戦前の1937年から衆議院議員を務め、通算8回の当選を果たした。

その息子の孜は、2012年に引退するまで、14回連続で衆議院議員に当選し、長野県出身者では唯一の総理大臣の地位にも就いた。そして孜の地盤を次いだ長男・雄一郎も、民主党政権で、国土交通大臣を務め、地元でも、「再び総理を」という声も聞かれるようになっていた。

鉄の結束「千曲会」

その羽田家を支えてきたのが、後援会の「千曲会」だ。

「千曲会」をまとめてきた幹部の1人、北澤英男を訪ねた。
「武嗣郎も県内では、そこそこ名の知れた議員だったが、人気を爆上げさせたのは孜だ。総理大臣になったというだけではなく、様々な面で県内に恩恵をもたらした。長野オリンピックの誘致、それにあわせた新幹線、高速道路の整備。大型事業の中心には必ず孜の功績があった。孜はまっすぐな性格で多くの人に愛された」

なるほど。地元への貢献が、必然的に千曲会の結束を強固にさせてきたということか。
とはいえ、それも20年以上前の話だ。一世代前の功績が今も息子たちを軽々と当選させる力の源となっていることに驚かされる。

次郎に託された王国ブランド

雄一郎の死後、後継には複数の名前が取り沙汰された。孜の秘書も務めた、元衆議院議員の名前も挙がったが、「今回は羽田家の闘いだから」と身を引いたという。

「羽田家からの擁立を」という声が日に日に強まっていった。しかし雄一郎の子どもはまだ若い。雄一郎の妻の名前も挙がったが、実現には至らなかった。

この間、取材で印象に残っていることがある。関係者のもとを訪れると、羽田家の家系図が登場することだ。

家系図は、羽田家のみならず、孜の妻・綏子(やすこ)の一族の家系、雄一郎の妻・七栄の一族の家系まで含まれているもの。
孜は兄弟が多く、登場人物も多彩だ。

「ここに声をかけているんだけど、だめで、今、この人は海外にいるんだよな」

陣営の関係者と、候補者を巡って家系図を見ながらのやりとりをすることもあった。まるで戦国時代かと思わせる時間だった。私もネットでたどって家系図を入手し、次は誰が候補者になりそうか、考えてみたりもした。

そして、雄一郎の死去からおよそ1か月後。白羽の矢は弟の次郎に立てられた。

もう1人の訃報

「千曲会」の支援のもと、次郎は立憲民主党の公認候補となった。
共産党、国民民主党、社民党からの推薦も得て野党連携も構築し、盤石の態勢で選挙に向けて歩み出した。

しかし、その矢先、もう1人の男の訃報が陣営に衝撃をもたらした。

2月10日。
立憲民主党長野県連で選挙対策委員長代理を務め、長年、羽田家の選挙を支えてきた元県議会議員の倉田竜彦が亡くなったのだ。

倉田は、野党勢力をまとめる長野県政界の重鎮。

もともと保守層を支持基盤としてきた「羽田家」と野党勢力をつなぐパイプ役となってきた。野党連携は寄り合い所帯。政策や理念が違う部分は少なくない。

倉田は、それぞれが譲れない一線を守りつつ、一致点を見いだしてきた。今回の次郎の選挙でも、その手腕が期待されていた。政治経験が浅い次郎にとって、倉田を失ったのは痛手だった。

盟友の訪問

そんなさなか、信州を訪れた男がいた。中央政界における野党連携のキーマンの一人、小沢一郎だ。

激動の平成初期に、孜とともに非自民の政権樹立に向けて行動してきた小沢は、孜と雄一郎が眠る墓前で静かに手を合わせ、街頭には立たず、事務所で次郎を激励して、長野県をあとにした。政権交代可能な二大政党制を目指した孜と小沢。民主党政権で閣僚を務めた雄一郎。絆とともに、「羽田王国」の歴史を感じる墓参りだった。

小沢に限らず、選挙中は、共闘する野党の関係者が大勢、次郎の応援に訪れた。

野党共闘が実ったように映った選挙戦だが、告示日の直前には、思わぬ足並みの乱れが生じた。原発ゼロの実現などを目指すことを明記した政策協定を次郎と共産党の県委員会などが結んだことが明らかになったのがきっかけだった。

次郎が公認を受ける立憲民主党は、同様に原発ゼロを掲げ、問題はない。しかし、推薦を決めていた国民民主党から反発の声があがった。

国民民主党を支援する電力総連や自動車総連などにとって、原発ゼロは譲れない一線。これを丸飲みした形の政策協定を陣営が結んでいたことは、到底受け入れられないということだった。

「倉田さんがいたら…」
パイプ役の不在が響いたのか。
連合長野の幹部は「共産党との政策協定はこれまでも結んできていたが、政策を丸飲みするような内容となっていたことには驚いた」と、ため息交じりに話した。

最終的に雄一郎の弔い合戦に水を差したくないという気持ちも働いたことで野党連携はなんとか壊れない形で決着を見た。しかし、選挙期間中、立憲民主党や共産党、国民民主党、の党首がならんで支持を訴える場面は最後まで見られなかった。

「千曲会」の変化

ほころびは「羽田王国」の中枢でも起きていた。「千曲会」の弱体化も進んでいたのだ。

3年前には、地元の市長選挙への対応をめぐって内部対立が生じ、幹部が次々と脱会。直後の参議院選挙では、元幹部の一部が雄一郎を相手に自民党を支援する事態にまで発展した。

4月25日、投開票の結果、次郎が自民党の元衆議院議員、小松裕に10ポイントあまりの差を付けて勝利し、亡き兄の議席を守った。

NHKが行った出口調査では「世襲」に「弊害がある」と答えた人はおよそ68%にのぼった。その一方で、「弊害がある」と答えた人のうち55%が次郎に投票した。

千曲会の北澤はこう振り返った。
「『弔い』『羽田』『野党共闘』の3拍子揃ったことが大きかった。これが羽田家でもなんでもない、他人だったらダメだったかもしれない」

次郎自身はどう見ているのか。

「私のようなものが勝ち抜けたのはやはり『羽田』という名前が全県に浸透していたからだ」

今回の補欠選挙の期間中、次の衆議院選挙にむけた注目すべき動きが見られた。雄一郎や次郎のいとこが、選挙戦の間、ずっと次郎の陣営に張り付いていたのだ。

家系図で見たので覚えがある。このいとこは、孜の弟の息子だ。次郎の陣営に入って選挙運動を手伝っていたが、私の目には、選挙活動を手伝うというよりむしろ、「千曲会」を始め、陣営の関係者に顔をつないでいるような様子に見えた。

次郎の当選直後、「千曲会」は、このいとこを、次期衆議院長野3区の候補者に擁立する方針を固める。

現在、「羽田王国」のおひざ元の長野3区は、雄一郎らとともに野党として活動していたものの、去年、自民党に籍を移した井出庸生が議席を持っている。ここに羽田家の血を引く人物を擁立するのだ。

今回の補選でも、井出は、従来通りの選挙戦を行う「千曲会」を横目に、3区に小松が入るときはともに街頭演説に立ち、その様子をSNSに投稿して支持を呼びかけていた。この地域の自民党県議も前回の選挙で若い議員も含め1人から8人に増えている。次の衆議院選で、「羽田家」が今回のような戦いを展開できるかどうかは未知数だ。

どうなる羽田王国

今回、取材をしてみて、最も印象に残ったのは、「千曲会」の将来への不安だ。現在、「千曲会」を仕切っている人たちは70代。若手もいるにはいるが、組織を仕切れる人はいない。今の幹部がいなくなったときに、若手にその役が担えるかと考えると疑問が残る。「千曲会」の高齢化と並行して、「羽田王国」に投票する人たちの年代も高齢化している。いつまでも「羽田」の名にあぐらをかいてばかりはいられない。

また選挙の終盤、雄一郎や次郎の母・綏子が次郎の応援に顔を見せたことも印象に残った。綏子は長男・雄一郎を亡くして間もない中、誰よりも支援者に気を遣い、注目を集め、気丈に対応していた。まさに「羽田王国」の戦いは一族あげてのもの。そう痛感した。
「勝って当たり前」の選挙は、もしかしたら、今回までなのかもしれない。

令和の時代も「王国」はなお生き残ることができるのか。存亡を賭けた戦いは続く。

(文中敬称略)

長野局記者
西澤 文香
民放を経て2019年入局。長野県政キャップ。羽田氏と立憲民主党を担当。趣味は舞台鑑賞。
長野局記者
牧野 慎太朗
2015年入局。宮崎局から長野局。県政を担当し、小松氏と自民党を担当。趣味はドラマ鑑賞。