ンダと外交 切れない関係

愛らしい姿で人気のパンダ。
ご存じのように、日本にいるパンダは中国から貸与されたものだ。実は日中の外交とパンダの間には、切っても切れない関係がある。
いま、先行きに不透明感が漂ってきた日中関係。パンダの行く末は…。
(木村有李、金麗林)

神戸のパンダがいなくなる?

「タンタン、さようなら」
7月初め、神戸市の王子動物園に子どもたちの声が響いた。

動物園の人気者、ジャイアントパンダのタンタンの貸与期限が7月15日に迫るのを前に、子どもたちから、感謝の手紙とささの葉が贈られたのだ。ただ、返還先の施設がある中国・四川省と日本との直行便が運休していることから、タンタンはしばらく動物園にとどまることになった。

いま、日本にいるパンダは10頭。神戸のタンタンに加え、東京の上野動物園に3頭、和歌山県のアドベンチャーワールドに6頭となっている。いずれも中国から「貸与されている」ものだ。日本で生まれたパンダもいるが、それも所有権は中国側にある。

返還された後、代わりのパンダが貸与されるという取り決めはなく、このままでは長年“神戸市の象徴”だったパンダはいなくなる。

神戸市がパンダを招こうと本格的に活動を始めたのは1997年。その2年前、神戸市は阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた。王子動物園には多くの被災者が避難し、建物の一部は遺体安置所にもなった。

動物園の園長を務めていた大久保建雄は、子どもたちを勇気づけたいと、パンダの誘致を思いついた。関係者の熱意と、さまざまな偶然が重なり、誘致が実現したと当時を振り返る。

「震災後、子どもたちの笑い声が聞こえなかったんです。この子たちに笑顔が戻ったら、街に活気が戻ると考えました。神戸市は、全国の都市ではめずらしく、中国・天津市に事務所を置いていた。天津では1976年に20万人以上が亡くなったといわれる『唐山地震』があり、震災からの復興にかける思いを理解してくれたことも大きかったと思います」

2000年に関係者の努力が実り、ジャイアントパンダのつがいが神戸市に繁殖・研究目的で貸与される。そのうち1頭は、「旦旦(タンタン)」と名付けられた。21世紀の幕開けの意味が込められたという。

動物園の入園者は年間200万人に倍増し、マンホールにもパンダが描かれるなど、神戸市を象徴する存在に育っていく。

ポスト「タンタン」を獲得せよ

その後、貸与期限は2回延長され、ことし20年目を迎えた。
人間で言えば70歳とも言われるタンタンを、繁殖目的で貸与を受け続けることはかなわなくなり、返還が正式に決まった。

これに先立って神戸市は新たなパンダの貸与を受けるべく、動き出していた。

2018年6月、神戸市議会の超党派議連のメンバーが中国・北京を訪問した。その目的はずばり「タンタンの“後任”問題」。北京市内のホテルでパンダの貸与の窓口になっている中国野生動物保護協会の副会長、李青文と会談した一行が直面したのは、中国側の厳しい姿勢だった。

その時の議事録が残っている。

神戸市議団「神戸の幼児と神戸市がパンダを愛おしく思っている。是非、パンダをお願いしたい」

中国側「(世界中の)新しい機関もパンダを要求しているので、王子動物園は不利。科学研究と繁殖に関しては(神戸市は)評価が低い。われわれは14国、16の機関とコンタクトを持っている」

出席者の1人は「パンダを欲しがっているのはあなたたちだけではありませんよ」という強気な姿勢を強く感じたという。神戸市側は戦略を練り直すことを決める。

始まりは蔣介石の“プロパガンダ戦略”

「パンダを中国政府は厳重に管理し、外交の重要局面でたびたび外国に贈ってきました。中国から海外にパンダが移動するとき、その背景には必ず中国の外交政策があったとも言えます。これが『パンダ外交』と呼ばれてきたのです」

「パンダ外交」の著書もあり、中国近現代史が専門の東京女子大学の家永真幸准教授はこう解説する。

最初に外交の表舞台にパンダが登場するのは1941年だという。中華民国を率いた蔣介石の下、アメリカ・ニューヨークのブロンクス動物園にパンダが贈られた。

時は日中戦争のまっただ中。家永准教授は、アメリカの国民政府への支持を得るため、蔣介石がパンダを利用したと話す。

「中国は、対外宣伝戦の中で、パンダの温和で平和なイメージを、国のイメージとだぶらせ、うまく利用したんですよね。それに対し、当時の日本の新聞に『珍獣でご機嫌とり』と蔣介石を批判する記事が出る程度には、日本も、中国の『パンダ外交』を意識していた」

“対中ODA”の影にもパンダあり?

そして戦後、パンダは日中友好の象徴となっていく。

1972年に田中角栄が総理大臣に就任し、日中国交正常化が急速に進む。同年の9月に行われた「日中共同声明」の調印式後の記者会見で、官房長官の二階堂進がひとつがいのパンダが中国から贈呈されたと発表した。

そして上野動物園にやってきたのが「カンカン」と「ランラン」。日本に空前のパンダブームが巻き起こる。

パンダは日中の「経済協力」の歴史とも深く関わっている。

1979年に総理大臣の大平正芳が中国を訪問し、ODA=政府開発援助が開始された。40年にわたって続いたODAの合意に一役買ったと言われるのがパンダだった。この訪中で大平は、到着して真っ先に2代目パンダ「ホアンホアン」の贈呈式に出席。大きな額縁に入ったホアンホアンの写真をプレゼントされている。

首脳会談で、日本はODAの供与と500億円規模の円借款のプロジェクトを約束した。
大平は北京で行った演説で「善き隣邦の1人として、中国の近代化政策が実り多き成果を上げることを心から願うものであります」と強調した。

「ホアンホアン」は予定通り日本に到着し、日中の架け橋としてパンダは“不動の地位”を築いていく。

対中感情の悪化 翻弄されるパンダたち

1981年に中国がワシントン条約に加盟すると、絶滅危惧種のパンダは保護対象となり、「贈与」から繁殖・研究を目的とした「貸与」への時代に変わっていく。パンダ保全のためという名目で「レンタル料」も発生するようになった。

江沢民が国家主席に就任すると、中国共産党政権の正当性を保とうと、「党が日本との戦争に勝利した」と強調する愛国主義教育を推し進める。

2001年8月、総理大臣の小泉純一郎が靖国神社に参拝。中国側が反発し、日中関係は冷え込んでいく。

内閣府が毎年度実施している外交に関する世論調査では、中国をめぐって「親しみを感じない」と答えた人と、「親しみを感じる」と答えた人は90年代は拮抗していたが、2004年には「親しみを感じない」が大きく上回り、その後も対中感情の悪化傾向が続いている。

家永准教授は「2000年代半ば以降、『パンダなんか借りている場合じゃない』とか、『レンタル料を払って中国を潤わせてどうする』という議論が日本国内で起きた。パンダによって中国叩きが起きると、中国側としてはパンダを送るメリットは小さくなり、日本側としても受け入れるのが簡単ではない動物になっていった」という。

ただ「パンダ外交」の糸は、ぎりぎりで切れなかった。

2008年、中国の国家主席、胡錦濤が国賓として来日し、総理大臣の福田康夫との間で「戦略的互恵関係」をうたった共同声明に署名。当時、パンダが不在となっていた上野動物園に「リーリー」と「シンシン」が貸し出された。

しかしその後、日中関係は最悪とも言われる局面に入っていく。きっかけは2010年、尖閣諸島沖での漁船衝突事件だ。

「仙台にパンダを」と動いた“大物議員”

尖閣諸島をめぐり国民の対中感情がさらに悪化するなか、外務省関係者によると、このころから、パンダの貸与をめぐっては、外交当局の事務レベルの折衝でさえ、ほとんどなくなったという。

一方、今回の取材で、この厳しい時期に別のルートでパンダをめぐる交渉があったことがわかった。動いたのは、ある「大物議員」だった。

2011年の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県。訪日した中国の首相、温家宝は、宮城県の避難所を訪れ、子どもたちにパンダのぬいぐるみをプレゼントした。

仙台市は、中国側が日本の震災復興のためにパンダの貸与の可能性を探っているという内々の情報を得て、パンダの誘致に新たに手を挙げた。

その際、仙台市は1人の政治家に相談をしている。自民党の元幹事長、加藤紘一だ。

外務官僚として中国課にも勤務した加藤はかつて、大平正芳の流れをくむ派閥「宏池会」のプリンスとも呼ばれ、当時は、野党議員だったものの、親中派の重鎮として、日中友好協会の会長を務めていた。

震災から半年たった9月、加藤は仙台市長の奥山恵美子とともに中国大使の程永華と面会。程は「意向は、中国政府に伝える」と応じた。その後、自らも訪中し、旧知の元外相、唐家璇と会談した加藤は、周囲に「中国側は前向きな感触だ」と話していたという。

そして、12月に総理大臣の野田佳彦が訪中。会談した中国の首相、温家宝は「被災地の子どもから手紙を頂いた。積極的に検討する」と約束。事務レベルでの具体的な協議が始まる。

中国側では仙台市に貸与するパンダの選定も始まっていたといい、話は具体的なレベルにまで進んだ。

しかしその翌年の2012年9月、尖閣諸島が国有化され、事態は急変する。加藤は再度訪中するが、中国側の反発は予想以上に厳しいものだった。

それから8年たった今も、仙台市にパンダは来ていない。

習近平訪日へ 期待高まるも…

「パンダが止まったままになっている」
関係者によると、2018年1⽉、北京を訪れた外務⼤⾂の河野太郎は、中国の外相、王毅にこう語りかけたという。

日中関係はこの年、日中平和友好条約締結から40年の節目を迎え、関係は正常な軌道に戻りつつあった。

外務省関係者は、関係改善の背景には、アメリカのトランプ大統領の登場で、米中関係が急速に悪化する中、日本との関係を重視したいという習近平体制の思惑もあると分析している。

そして去年6月、国家主席、習近平の国賓としての日本訪問で合意。ことし4月に訪問する段取りとなった。

外務省の幹部は、習の訪日の際にパンダ貸与が約束される可能性はあったと振り返る。
「首脳会談があると、事務的に積み残された話を、この際だから進めようというモメンタム(勢い)が生じる。パンダの貸与は、機会があれば進めたい気持ちはずっとあった」

「パンダが動き出した」タンタンの「後任」を模索していた神戸市、そして震災復興の象徴として、パンダの貸与を求めていた仙台市。ともに関係者は期待を高めた。

しかし、盛り上がったムードは突然断ち切られた。新型コロナウイルスの感染拡大で、習近平の訪日が延期になったのだ。

パンダにとっては…

「訪日延期とともに、パンダの話をすることもスーッとなくなった」と外務省幹部は話す。

コロナ禍で「パンダどころではない」という声も聞こえる。こうした中、神戸の「タンタン」だけでなく、上野動物園の「シャンシャン」も、ことし中に返還されることが決まった。

日中関係は、先行きに不透明感が出ている。

香港では、反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」が施行されたことをめぐって、自民党が「外交部会などとして、習近平国家主席の訪日中止を要請せざる得ない」とする決議文をまとめた。

尖閣諸島周辺の領海内への、中国公船の侵入も絶えない。

ただ、外務省幹部は「パンダで日中関係の大きな流れは変わることはないかもしれないが、それでも日本のどこかにパンダがやってくることは、1つの変数になるのかもしれない」と話し、少しだけパンダに期待を寄せた。

「パンダ外交」の著者、家永准教授は取材の最後にこう締めくくった。
「19世紀にパンダが発見されてから、ずっと人間にとって、どう役に立つのかという観点から、さまざまな政治問題・外交問題に巻き込まれてきたのがパンダです」

「本当は放っておいてもらったほうが、パンダにとっては幸せなんでしょうけどね」

(文中敬称略)

政治部記者
木村 有李
2010年入局。青森局・水戸局を経て政治部。外務省を担当。今回、原稿を書きながら、本物のパンダを見たことがないことに気づく。
神戸局記者
金 麗林
2019年入局。神戸局に配属され、警察や阪神間地域を担当。ソウル生まれ上野育ち。幼少期から上野動物園のパンダを見て育つ。