しきハーモニー?
公明から見てみると…

「ビューティフル・ハーモニー」と、総理が言った自公連立政権。
10月5日でもう20年になる。
そもそも主張が違う両党がなぜ一緒に歩むことになったのか。
そして今後の憲法改正にはどう向き合うのか。
今回、公明党担当として公明側から改めて見つめた。
(清水阿喜子)

密会

自公連立を語る上で、見逃せないこんなエピソードがある。

時は1997年の6月。

公明党の草創期を支えた1人、正木良明の葬儀が大阪で執り行われた。

参列者の1人に、後に公明党の代表となる神崎武法がいた。

葬儀からの帰り際、その神崎に声をかけた人物がいた。

「よい機会だから、話をしようや」

自民党の元総理大臣、竹下登。言わずと知れた重鎮中の重鎮である。

場所は大阪駅のVIPルーム。
そのころ、竹下が率いていた自民党最大の派閥「経世会」は分裂。一時、非自民の政権が誕生するなど、政界は大いに揺れていた。

「これから自民党と別の保守の政党と二大政党で動いていくだろう。その時に、公明党はどちらに付くかだ」

「日本の政治にとってみれば、やはり自民党と公明党が一緒になるのが、一番望ましいと思う。どうなんだろう。難しいんだろうな」

竹下はそう、笑いながら話したという。

神崎は、竹下の頭には、将来的には「自公の連立」があったのだろうと振り返る。それが小渕恵三、野中広務に受け継がれていったのだろうと…。

きっかけは、自民惨敗

翌1998年。
当時、自民党は、閣外協力という形で社会党や新党さきがけと連立し、与党第1党として橋本総理大臣のもと政権運営にあたっていた。

しかし、参議院選挙で自民党は惨敗し、橋本は退陣。

あとを継いだ小渕総理大臣は、内閣発足直後から、金融危機回避への対応に追われた。

しかし、自民党が参議院で過半数割れをしている中、国会運営は困難を極め、小渕内閣は連立政権へと舵(かじ)を切ることになる。

小渕はまず、小沢一郎が率いる当時の自由党に連立を呼びかけ、

翌1999年1月に自自連立政権が発足した。

そして、政権基盤のさらなる安定に向けて、公明党との連立を目指したのだ。

一方で、公明党はこの時期、新進党の解党を経て再結集したばかり。
1998年11月の再結集時に公明党代表に就任した神崎は、当時の状況を、次のように振り返った。

「『自民党と連立するか』、『民主党と連携するか』という2つの選択肢があったが、民主党と連携すると、いつ政権を取れるか分からない。その間は政治の不安定が続いてしまうということになる。差し迫って経済が危ないという時に、政治を安定させないと経済は立て直せない。そうすると当時の判断として自民党と連立という選択肢しかなかった」

連立への決断

一方で、神崎は、これまで野党として自民党と選挙で戦ってきた方針を転換することに対し、支持者から理解を得ることの難しさがあったと指摘する。

党内からは、
「自民党との連立は早急だ」
「非自民政権を作る努力をすべきだ」
「かつての社会党の二の舞だ」
などと、自民党との連立に慎重な意見が相次いだという。

自自連立政権が発足してから半年後の1999年7月。

小渕が神崎と会談し、連立政権に加わるよう正式に要請したことを受け、公明党は臨時の党大会を開催した。

この時、神崎は、連立参加へ強い決意を示した。

「閣外にとどまるべきだという意見もあったが、私はあえて閣内に踏み込むべきだと申し上げた。受け身で対応するのではなくて、一歩踏み込んで、政権の中で、公明党らしい政策を実現するという気迫を持って入っていくんだとね。相当な意気込みで連立に参加することを決断したということだ」

党大会から2日後、神崎は小渕と2度目の会談。

政策協議を行った上で閣内協力に応じることを正式に伝えた。
そして、10月5日、自民・自由・公明の3党の連立政権が発足。

この時から、20年もの長きにわたる自公の歩みが始まったのだ。

狙いは「選挙」

神崎は、自民党が公明党に連立を持ちかけた狙いについて、「選挙」だと指摘する。
小選挙区制へと選挙制度が変わる中での選挙協力にあったというのだ。

「公明党には安定した票があり、選挙協力の実質があると見たのではないか。浮動票を対象にしている党だと一緒に連立を組んでも、あまり票は来ない。固定票を持っている政党と連立を組めば、見返りはある。選挙制度が中選挙区制から今の制度に変わり、過半数を取れるかどうかなど計算していたのではないか。公明票というのは得がたいとね」

「言うこと聞かない」小泉

選挙協力を強化し、安定軌道に入っていく自公連立政権。ただ、紆余曲折(うよきょくせつ)が無かったわけではない。

まず、神崎にとって、想定外のことが起きた。

「小渕さんがそんなに早く亡くなられるとは思ってもいなかった」

「小渕さんだからこの政権に参加したわけでね。参加した以上はどなたがトップになろうが、連立はしようと思っていましたけど、こんなに早く政権のカラーが変わっちゃうと大変だなと思って」

その上で、代表として接した自民党総裁の中で、一番対応が難しかった人物として、小泉元総理大臣を挙げた。

「小泉さんの政策と公明党の政策は距離があった。現場で率直に意見交換したが、政府のやろうとする政策の中には、うちの党内や支持団体で『慎重に』というのもあった。例えば、自衛隊の海外派遣。政府はこれをやろうとしているのは分かる。どうするか」

2001年に同時多発テロ事件が起きたアメリカのブッシュ大統領と強固な同盟関係を構築していた小泉は、イラク戦争でアメリカなどの武力行使を支持。

大規模な戦闘が終結したあと、イラクの再建を支援する国際社会の取り組みに主体的に協力するとして「イラク支援法」を成立させ、自衛隊の派遣を決めた。

この時、公明党内では、派遣への反対意見が相次いでいたほか、支持母体の創価学会の中にも派遣を思いとどまるべきだという意見が根強くあった。

神崎は判断を下すにあたって、派遣先の治安状況を確かめようと、みずからイラク南部のサマーワを訪れた。

「自分がサマーワを視察して、途中でこっちが撃たれれば、自衛隊派遣はできないだろうし、安全が確認できれば説得もできる。ということで、官邸の反対を押し切って、クウェートに行って、そこで交渉してイラクに入った」

「サマーワに入って、病院へ行ったり、いろいろ見たりして、『これだったら大丈夫だなと。安全だな』という判断ができたので、帰って総理にも報告し、党内、支持団体にも報告して、自衛隊の派遣を容認した」

小泉が在任中、毎年、靖国神社に参拝したことをめぐっても対立。

神崎は外交上の問題が生じる恐れがあるとして、強く懸念を伝えていたという。

「靖国神社参拝問題では、私どもは『中国とか韓国の反発を考えるとすべきでない』と繰り返し申し上げたが、小泉さんは言うこと聞かないで、何回も参拝を実施した」

「小泉さんはやっぱり人の言うことを聞かない人だったから、こちらも歯がゆい思いをした時もあった。しかし、政治を安定させるという大きなことを考えれば、これで、連立を離脱して政治を不安定にしちゃうわけにもいかないという思いで、ご一緒してきた」

「すぐ嫌になったとか、やめたというわけにはいかない。責任があるからね」

最大の危機、野党に転落

2006年9月、小泉内閣が総辞職。

神崎も、約8年にわたって務めた代表を退任し、太田昭宏・元国土交通大臣があとを継いだ。

しかし、このあと自公政権は大きく揺らいでいく。小泉のあと、総理大臣は、安倍から、福田、麻生と次々に交代。

そして、迎えた2009年の衆議院選挙。
自民・公明両党は大敗し、野党に転落したのだ。民主党政権の誕生だ。

太田は落選し、代表を辞任。急きょ、今の山口那津男が代表に就任し、党の再建を図ることになった。

山口は、当時の状況を、次のように振り返った。

「情けないというかショックだった。衆議院の大幹部がそっくりいなくなり、残った人はみんな打ちひしがれた思いで。他党のことなんか考えている余裕はないというのが当初の正直な気持ちだ」

「公明党をどうやって立て直すかで精一杯で、自民党との関係をどうするかや民主党政権にどう対応するかは、すぐに答えが出てくるような状況ではなかった」

そんな状況の中、自民党から離れ、民主党と組もうとは思わなかったのだろうか。

「民主党は国民の圧倒的な支持で生まれた政権なので、最初から対峙(たいじ)するというものでもないし、ここは民主党が本当にどうするかちゃんと見てみようと。そうこうするうちに、民主党政権そのものが崩れだした。長続きしないと思った。もっと責任を担える、次の政権を目指しながら、自民党とも、堪え忍び、協力し合いながら、次を目指そうという思いは強かった」

「自民党も公明党も、なぜ政権を失ったかについて厳しく反省し、問いかける必要があった。そういう意味で『反省のパートナー』だったと思う」

「げたの雪」

山口の狙い通り、2012年12月、自民・公明両党は政権を奪還。
現在まで続く、安倍総理大臣との歩みが再び始まった。

「もう2度と失敗を繰り返さないようにしようという強い思いがあった。政権は奪還できたが、決して自公に対する積極的な支持で勝ったものではなく、民主党政権に対する失望感から政権ができたということをちゃんと認識し、謙虚に真摯に政権運営に努めようという精神論や政治姿勢をあえて政権合意の中に入れ込んだ」

ともに野党時代の「風雪」に耐えたという思いが、両党の結束を固めることになる。
しかし、その後の7年、道のりが平たんだったわけではない。
安倍政権は、特定秘密保護法、集団的自衛権の行使容認、安全保障関連法などを推進。

公明党は、支持者から慎重論も根強かったが、最終的には賛成した。
一連の対応に、「政権のブレーキ役を果たせていない」という批判や、踏まれても自民から離れない姿から「げたの雪」という指摘まで出た。

「集団的自衛権全体を認めたわけではない。外国の領域で武力を使うところは絶対認めない。国民の生命や財産を守るために、必要最小限でのみ武力は使えるという大枠がはめられているわけで、その歯止めをかけたのは公明党がいたからだと思う」

「自民党単独では受け止めきれない民意がある。カラーの違う公明党がいればこそ幅広い民意を受け止める連立政権になる」

どうする憲法改正

今後の焦点は、安倍が意欲を示す憲法改正だ。

自民党は、臨時国会で、継続審議となっている国民投票法改正案の成立と、憲法改正案の議論の進展を目指している。
これに対し、「自衛隊の明記」には慎重な立場の公明党はどう臨むのか。

「手続き法である国民投票法には与野党で部分的に合意ができているところもある。手続きをちゃんと決めないで、本体の方だけいくら議論しても発議はできない。だから順序としては、『合意できている国民投票法を仕上げることからやったらどうでしょうか』というのが素直な考えだ」

「発議は国会の権限で、そこには政権を維持するための与党という枠組みでは必ずしもなく、あらゆる会派や国会議員が当事者になる。公明党は国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義を堅持していくという立場だ。そのもとで、どういう合意が作れるかはこれからの国会での議論になる」

「憲法の発議には、衆参両院とも総議員の3分の2という極めてハードルの高い多数の合意が必要で、主要な野党との合意も含めて幅広い合意を作っていくことが、国民の納得と安心感につながる道だ。自民党が党の主張を掲げるのは当然のことだろうが、幅広い合意に向けて、謙虚に真摯に進めていくべきだと思う」

美しき…

最後に、20年を経た今、山口に「自公連立は永遠に続くと思うか」と尋ねてみると…。

「いや、やっぱり緊張感を持って国民の期待に応えられなければ、ダメ出しされる。政治姿勢が曲がった場合に、それを元に戻す『復元力』とか『自浄能力』とかを発揮できない連立は続かない」

山口が言う「政治姿勢が曲がった時」とは、どんな状況を指すのか。公明党の望まぬ政策を自民党が強行した時が、それに当たるのだろうか。であれば、その閾値(しきいち)とは…

先の参議院選挙で公明党は比例代表の得票数が前回3年前より100万票以上減った。
投票率が戦後2番目に低かったことや、支持者の高齢化などの影響とみられている。
しかし、この20年、自民党と歩調を合わせてきたことで、党の独自色が薄まってはいないだろうか。

公明党の存在感を発揮し、安倍総理が言う「ビューティフル・ハーモニー」を奏でていけるのか、取材を続けたい。

(文中敬称略)

政治部記者
清水 阿喜子
2011年入局。札幌局、北見局を経て政治部へ。現在、公明党を担当。