木宗男、最後の戦い

「生涯政治家ですが、選挙はこれが最後です」

新党大地を率いてきた鈴木宗男(71)。
昭和58年の衆院選で初当選、通算8回当選のベテランだ。
生涯政治家、を信条とする男が「最後の戦い」と宣言した選挙。彼は何を望むのか。17日間の選挙戦の行方を追った。
(種綿義樹)

始まりの地は納沙布岬

戦いの幕開けとなった公示日の7月4日。
鈴木が立っていたのは、北海道根室市の納沙布岬。本土最東端の地だ。

納沙布岬から間近に臨む北方領土は、終戦直後、ロシアによって不法に占拠され、今もその状態が続いている。島を追われた元島民の平均年齢は84歳を超えた。

ロシアとの間で平和条約を締結し、北方領土問題を解決する。
それが鈴木のライフワークであり、生涯政治家であり続ける理由の1つだという。

鈴木は北方領土を見つめながら「元島民が元気なうちに解決したい」と記者団に語り、選挙戦のスタートを切った。

天国と地獄を知る男

今回9年ぶりの国政復帰を目指した鈴木は、北海道の東部、足寄町の農家に生まれた。
両親が朝から晩まで働いても生活がよくならない状況を見て、政治のせいではないかと子どもながらに考えていたという。

中学1年の時、国語の授業で将来の夢をテーマにした作文で「政治家になる」と書いた。
有力代議士の秘書を10年以上務めたあと、昭和58年に衆議院選挙で初当選。その夢をかなえた。

北海道・沖縄開発庁長官や内閣官房副長官を歴任するなど、通算8期務め、かつては政界の中枢で手腕を振るってきた。

しかし、平成14年に道内の木材業者から賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部に逮捕される。あっせん収賄など4つの罪で起訴された。

裁判では一貫して無罪を主張したが、8年後に実刑が確定し、議員を失職した。

「天国と地獄を経験した。波乱万丈なんてもんじゃない、私の場合は」と当時を振り返る。

走る選挙から「飛ぶ選挙」へ

天国と地獄を知る、鈴木。長い政治キャリアを持つが、全国が選挙区となる選挙に立候補するのは初めてだ。

納沙布岬で決意を語った後、移動の車中で口にしたのは意外にも選挙戦への不安だった。
「手探り状態で不安ですよ。万が一、負けるようなことがあれば、応援してくれる皆さんに大変な迷惑かけますから」

公示日の翌日に向かったのは、今度は日本の最西端、沖縄県の与那国島だった。

「全国区の候補者であることを証明する」と日本列島を横断。
早朝に羽田空港を出発して、石垣島を経由して与那国島に渡った。

島では「参議院の比例代表の候補者が遊説に来たのは初めて」と驚きの声が上がった。

かつての相棒も

これまで北海道を選挙区として戦ってきた鈴木だが、沖縄開発庁長官を務めたことなどもあり、沖縄での知名度は高い。
島を遊説して回っていると、島民が近寄ってきて、一緒に写真を撮ってほしいと幾度も頼まれる。

その度に鈴木は「ジョン!撮影してくれ!」と声をかける。

「ジョン」とは、15年ほど前まで私設秘書を務めていたジョン・ムウェテ・ムルアカのこと。
ムルアカは現在、千葉科学大学で医療用機器や生命・工学を担当する教授を務めているが、最後の戦いを手助けしたいと買って出た。

鈴木はこの後、宮古島、沖縄本島と移動して、最終便で再び羽田へ。

与那国島の空港で、飛行機に飛び乗る前、鈴木はこう語った。
「全国区の選挙は、飛ぶ、これがキーワード。鈴木宗男にしかできない動きです」

この日は6回も飛行機に乗り、移動距離は4000キロを超えた。

黒いスニーカー

5月に食道がんの手術を受けた鈴木。
内視鏡を使った手術で、がんはすべて取り除き転移はなかったという。
しかし手術後も薬を飲み続けていて、医師からは7月末までは安静にするよう指導されていた。

街頭演説を行う前、新党大地のスタッフは支持者に向かって、こう呼びかけた。
「もっと近くに集まってください。鈴木宗男、元気に見えても病み上がりなんで、あまり走らせたくないんです」

体調も万全ではないのに、なぜ選挙に挑むのか聞いてみた。
「政治家というのは時には命をかけるものだと思う。身を削るとか体をはるとか、口先だけでなく実践するのが一番の証明だ」

「私は子どもに何を残すかと問われたら働く姿を残したい。子どもが小学生のころ、運動会だとか旅行だとかに連れてったことがない。父親としては失格です。ただ子どもたちもお父さんは一生懸命働いていることは理解してくれている。やりすぎだと言われるくらいでちょうどいい」

17日間に渡った選挙戦で、支えとなったのが家族の存在だという。

その象徴が黒いスニーカー。

娘で自民党の衆議院議員でもある貴子(関連記事はこちら)が「一緒にマイクは持てなくても親子だから」と贈ってくれた。
政党が異なるため、一緒に活動できない父への気遣いだという。

移動中、貴子から電話がきた。
「履き心地とてもいいです。母さんにズボンとシャツもピッタリだって言っておいてね」
笑みをこぼしながら、話していた。

日本維新の会と連携

選挙戦の中盤となった10日。
日本維新の会の馬場幹事長が、北海道まで応援に駆けつけて、エールを送った。
「鈴木宗男さんのような大ベテランの、政治に喝を入れられるそういう政治家が今、日本に必要だと感じます」

地域政党・新党大地の代表でありながら、日本維新の会からの立候補。
なぜ両者は協力したのか。

関西以外への支持の広がりが課題となっていた日本維新の会が模索したのは、各地の地域政党との連携だ。愛知や神奈川など各地の地域政党と連携して、議席拡大を狙った。

一方の鈴木は「理念や政策が一致したためだ」と説明しているが、新党大地の力だけでは国政に返り咲くのは難しいと判断したからではないかという指摘も多い。

実際、2年前、2017年の衆議院選挙で、鈴木は比例代表北海道ブロックに新党大地から立候補したが落選している。

“最後の”最後の訴え

選挙戦の最終日。
鈴木と同じ足寄町出身の歌手、松山千春とともに、札幌の繁華街ススキノに立っていた。
2人が現れると、あたりはあっという間にごった返した。

マイクを握った松山は「ぜひ鈴木宗男を使ってやってください。働ける男ですから。私は歌で、政治は鈴木宗男で、一生懸命頑張ってくれます」

そしてアカペラで、自身のヒット曲「大空と大地の中で」の一節を披露した。

「果てしない大空と広い大地のその中で
いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう」

先月、のどの炎症が悪化し、コンサートを中止した松山。復帰した今も体調は万全とはいえないというが、初当選の時から応援を続けてきた鈴木のために声を上げた。

松山からの声援を受け、鈴木は最後に訴えた。

「私はなんとしてでも北方領土問題を解決したい。そのためにいま一度、国会に戻りたいんです。どうかみなさん、もう一度、鈴木宗男に働く機会を与えてください。鈴木宗男は負けません、勝ち抜きます」

「最後の戦い」終えて

投票が締め切られた21日午後8時。
鈴木は、札幌市内の新党大地の事務所で、テレビの開票速報を見守っていた。
直後、NHKが鈴木の当選が確実になったことを伝えた。
その瞬間、関係者は歓喜の声をあげたが、鈴木は固い表情を崩さぬまま「ありがとうございました」と感謝の意を伝えた。

鈴木は、各社のインタビューにこう答えた。
「組織や大きな団体がつかない鈴木宗男が当選できたことに万感の思いで感謝申し上げます。人間関係が一番の勝因です。北方領土問題の解決に私は最後の政治家としての役割を果たしたい」

午後9時前には、選挙活動中には報道陣の前に姿を見せることはなかった娘の貴子が会場を訪れた。親子で抱き合うと、鈴木は涙で声をつまらせながら「ありがとう」と伝えた。

貴子はひと言、「笑顔でお願いします、笑顔が一番似合います」
その時、初めて、鈴木は相好を崩して笑みを浮かべた。

貴子はNHKの取材に対してこう述べた。
「選挙活動は父にとってはウォーミングアップ。これからの6年間は、生の現場で私も父から指導を受けることができる。日本一、せっさたくまし合う親子になるよ」

親子で国政の現場で働きたい。所属する政党は異なるが、その悲願がようやくかなったという2人。「最後の戦い」を終えた政治家は、娘と共にどのような政治活動を行うのか。

北方領土問題解決の道筋は

投開票日から一夜明け、鈴木は北方領土問題について、さっそく自説を披瀝し、抱負を語った。
「まずは平和条約を1日も早く結ぶ。歯舞群島と色丹島は日本のもの、国後島と択捉島はロシアのものでいい、その代わり国後と択捉に自由に行けるようする、島で仕事をするときに何か特例を作ってもらうように交渉する。“2島返還プラスアルファ”しかないんです」

「この半年が勝負だ。平和条約締結は安倍総理にしか、なしえない。総理が堂々と交渉できる雰囲気を作るのが私の役割。下支え、裏方でいいんです」

ただ、安倍政権は表向きには「4島返還」という方針を変更したことはなく、「2島返還プラスアルファ」という形になるかどうかは未知数だ。

鈴木は8月15日から、四島のロシア人住民と交流を図る「ビザなし交流」の枠組みを使って、元島民らとともに色丹島などを訪れる予定だ。「もし希望者がいれば、来年の正月、元島民がふるさとの島で新しい年を迎えられるようにしたい」と語る。

「生涯政治家」が最後に望んだことは、実現すれば間違いなく歴史に残る事柄になる。
見事、その願望を果たせるのか、夢で終わるのか、刮目していきたい。

(文中敬称略)

釧路局記者
種綿 義樹
2012年入局。水戸局を経て16年から釧路局。選挙や行政、自然環境など担当。高校時代はアイスホッケー部、釧路ではクラブチームを取材。