おじいちゃんの「密の話」

「間違いなく、その後の日米同盟関係の基礎となった会談だ」
専門家が驚きを隠さない記録が、このほど公開された。
今から60年余り前の1957年6月20日。
総理大臣就任後に初めて、アメリカを訪れた岸信介が、国務長官ジョン・フォスター・ダレスと向かい合った、9時間にも及ぶ会談だ。
一体何が話し合われていたのか。
膨大な公開文書から見えてきた、安倍総理大臣の祖父、岸の構想。そして、今に通じるアメリカと向き合う厳しさを読み解く。
(政治部外務省クラブ 西井建介)

「真の独立」掲げた岸

外務省は年に1回、作成や取得から30年が経過した公文書のうち、歴史上、特に意義があるものを選び、公開している。

12月19日に公開された文書は、あわせて9161ページ。

その半分を占めたのが、1957年と60年の当時の岸信介総理大臣によるアメリカ訪問の記録だ。

1957年とはどんな時代だったのか。

終戦から12年、戦後復興を遂げ、当時の新聞は東京都の人口がロンドンを抜き世界一になったと伝えている。この前年の経済白書に記された「もはや『戦後』ではない」という言葉は流行語となり、日本は高度成長期の入り口に立っていた。

ただ外交面では「敗戦の爪痕」が色濃く残っていた。
1952年に発効したサンフランシスコ平和条約で、独立は回復したものの、同時に調印された旧安保条約で、アメリカは日本にある基地を自由に使うことができた。

このため、全国各地で、反基地運動が激しさを増していた。

そんな時代の中、岸が掲げたのは「日本の真の独立」だった。
戦時中、東條英機内閣の閣僚を務め、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されたものの、後に釈放され、公職追放を解かれた岸。

政界に復帰し、わずか4年で総理大臣の座に上り詰めた。

異例の「予備会談」でアメリカの心をつかむ

1957年2月に総理大臣に就任した岸は、「政治生命をかけた大事業」(本人の回顧録より)である安保改定に乗り出す。その調整役として重要な意味を持つ人物が、今回の外交文書に頻繁に登場する時の駐日大使、マッカーサーだった。

連合国最高司令官として日本の占領統治を取り仕切ったダグラス・マッカーサーの甥に当たる人物で、岸が総理大臣に就任する直前に日本に赴任していた。

岸はマッカーサーと実に9回に及ぶ「予備会談」を重ね、訪米に向けたすりあわせを行う。

4月10日に行われた第1回の予備会談の記録が記された極秘文書では、保守合同を成功させた岸のなみなみならぬ自信がうかがえる。

「国民および政治家の間に、自分を首班とする内閣により相当長期にわたり安定した政権が成立したとの気持ちがある。率直に申して、従来の政府の指導力は十分でなかったと思う。自分は日米関係を改善せしめる決意と自信を有するものである」

さらに岸はこの会談で、あるペーパーをマッカーサーに手渡す。そこでは日本の「国民感情」は決してアメリカを支持していないと率直に伝えていた。
「安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている」

言いかえれば「このままでは日本国民の心はアメリカから離れていきますよ。その結果、日本国民がソビエト寄りになっても知りませんよ」と暗に伝え、安保条約の改定に持ち込もうという岸の論法だ。

率直な物言いに対し、マッカーサーは「極めて興味深く伺った。日本国民は共産主義よりも、戦争をより嫌悪するとの点で、重大な意味を持つものである」と応じ、岸の説明に理解を示していく。

外交文書の中には、当時のアメリカ本国の反応を報告した極秘の公電も残されている。

アメリカの国務省当局者が内々に駐米大使館員に語った話を紹介し、予備会談について「日米双方とも触れるのをちゅうちょして来た問題の核心を、大胆かつ率直についたものとして、国務省当局に強く印象を与え、ますます総理訪米に対する期待を増大せしめた」と岸への高評価を伝えている。

明らかになった憲法改正構想

5月11日の7回目の予備会談では、岸の驚くべき構想が披露されている。
「衆議院議員の総選挙は、いずれ遠からずやらねばならない。参議院議員の半数の選挙は2年後に行われる。これらの選挙には、自分としては、安保条約を改正し、南方諸島(沖縄、小笠原諸島)の問題を解決した上で臨みたい。そうすれば両院とも憲法改正に必要な3分の2の多数を獲得できるであろう。そうしてこそ初めて自分の年来の主張である憲法改正を具体的に日程に上らせることができる」

さらに、訪米に向けた別の準備書類では、憲法改正の時期について、5年後をメドにするとして、「その間に、本格的な相互防衛条約に切り替えるための体制を整えることができるだろう」と記している。

戦後外交史が専門の、日本大学の信夫隆司教授は、岸のこうした構想が明らかになったのは初めてだと評価する。

そして、岸が目指していたのは、
安保改定
→沖縄などの返還合意
→衆参の選挙で3分の2を獲得
→5年後をめどに憲法9条を改正
→安保再度改定、「相互防衛」が可能な体制構築
という明確なビジョンだったと指摘する。

「非常に野心的、積極的な提案で、グランドデザイン、国家のあり方を非常によく考えていたという印象を受けます。日本もアメリカを守ることができる『相互防衛』の形に安保条約を持って行き、言ってみれば『自主独立』の国家を完成するための行程を打ち出したのではないでしょうか」

ゴルフのスコアまで交渉!?

外交文書に記された訪米の準備資料は、総理一行の移動や滞在中の行事など多岐にわたっていた。その中には、こんなものもある。

5月8日 駐米大使からの公電
「岸総理一行10名は大統領機に搭乗する」

当時のニュース映像を見ると、岸はなぜかアメリカの大統領専用機から降り立つ。

実は、アメリカの国内移動に大統領専用機が貸与されていたのだ。国賓としての厚遇ぶりがうかがえる。ちなみに、一行の名簿には、秘書官だった安倍晋太郎氏や衆議院議員だった福田赳夫氏の名前も登場する。

5月18日 岸・マッカーサーによる予備会談
マッカーサー「大統領より極秘のメッセージがある。ゴルフをアレンジするが、総理はエキスパートではないことを希望する」

岸「喜んでお受けする。自分はエキスパートではないから心配される必要はないとお伝えありたい」

岸の回顧録によると実際のゴルフスコアは、アイゼンハワー大統領74、岸99だったという。岸は現地の記者会見で「この次、訪米するまでにスコアを10切り下げる心算である」と答え、記者たちの爆笑を誘った。

6月8日 駐米大使からの公電 (大統領らへの手土産について)
「米側は記念品程度のものを除き、高価な贈り物を受け取ってはいけないことになっているので、先般、サウジアラビア王の訪米の際、あまりに高価なものを持参され処置に困った次第であるとのこと。ご参考まで」
逆に何を持って行ったらいいのか悩んでしまうような報告だ。

6月12日 駐米大使からの公電 (始球式を行うヤンキースタジアムでの野球観戦について)
「総理が第1試合終了前に席を立たれることはゲームに興味がなかったものととられるおそれがある。2時間くらいいてほしいとの要望がアメリカ側から寄せられた」
アメリカ国民のメジャーリーグへの愛情を感じさせる一幕だ。

訪米、立ちはだかるダレス

そして6月19日、満を持して岸はワシントンに降り立つ。

ホワイトハウスで行われたアイゼンハワー大統領との会談で「日米新時代」を打ち出し、旧安保条約の問題点を検討する政府間の委員会を設置することで合意。

岸は、安保改定に道筋を付けることに成功する。

一方、今回の記録で明らかになったのは「対等なパートナー」とはほど遠い、アメリカ側の強硬な態度だ。相手はジョン・フォスター・ダレス国務長官である。

アイゼンハワー大統領とは「儀礼的な」会談を行った一方、岸はダレス国務長官と2日間で5回、あわせて9時間15分にもわたって実質的な会談を行っている。

6月20日 国務省5階会議室で始まった、岸とダレスとの会談、ダレスは開口一番、1人の同席者を紹介する。

アメリカ軍の制服組トップ、ラドフォード統合参謀本部議長だ。

海軍で「最強の提督」とも呼ばれたラドフォードは、西側諸国と東側諸国の軍事力の分析を披露した上で、こう言い放つ。
「今米軍がひいたら日本は重大な危険にさらされるであろう。われわれは、米軍の駐屯を希望しない国からはいつでも撤退する用意がある」

そして、ラドフォードは日本の防衛政策に踏み込む。
「アメリカの阻止力の傘の下で与国(同盟国)は安全を享受している。将来のことを考えると地方的な防衛については、もっと多くの責任をそれぞれの与国に負担してもらわなければならない」

岸は、訪米直前に第1次防衛力整備計画、いわゆる「1次防」を閣議決定し、防衛力の増強に取り組んでいると説明するが、ダレスはこう迫る。

「米国側においては国民総生産の11%が防衛経費にあてられており、ヨーロッパのNATO諸国においても8~9%をあてている状況であるのに、日本はわれわれの計算によれば、わずかに2%をあてているに過ぎない。防衛力漸増の話を伺ったが、それにしても日本側の努力がもっと真剣になることを希望する」

“秘密”をめぐり、迫るアメリカ

そして専門家が「今回の外交文書で最大の発見」と指摘するのが、ラドフォードの次のような要求だ。
「新兵器に関する情報の交換については、日本には秘密保護法ができていないので、これ以上の情報の供与はできない。日本における兵器研究をこの上進めるには、是非とも新立法が必要である」

戦後の自民党政権が、その後何度か制定を模索する秘密保護法制の整備をこの時に求めていたのだ。

これに対し、岸はこう応じた。
「大体了解した。科学的研究は是非やらねばならぬし、米国の援助も得たい。秘密保護法についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」

さらに会談の最後には、こんなやりとりもある。

ダレス「会談の内容が漏れないようにいたしたい」
岸「賛成である。ことに先程の機密保持のための立法の問題のごとき、日本側で自主的にやるべきことであるから、その話が出たことが漏れないようにしたい」

そして、「『政治問題』について話し合ったこととして発表する」ことを申し合わせ、会談は終わった。

華やかな首脳会談の表舞台とは裏腹に、日米交渉は”防戦一方”だったことがうかがえる。

岸の外交政策を研究している、一橋大学のクォン・ヨンソク准教授は、この段階で実質的に「日米新時代」とはなっていなかったと指摘する。

「ダレスとの会談記録を読むと、主導権を持っていったのはダレスでありアメリカ側だった。岸は内心、苦々しい思いをしたのではないかと推測できる」

さらに、この会談が、岸のその後の外交戦略に影響を与えた可能性もあるという。

「アメリカだけ信じていたらダメだ、依存していたらダメだということを強く思ったんじゃないかと思う。その後の岸は、アメリカ一本ではなく、イギリスや中国、インドなど、日本独自の外交オプションを広げていく」

果たされなかった岸の望み

訪米の翌年。1958年5月の総選挙で、岸が率いる自民党は、467議席のうち、無所属での当選者を加えて298議席を獲得し勝利するが、憲法改正に必要な3分の2の獲得はならなかった。

そして、その年の8月、日米両政府は旧安保条約の全面改定で合意。当局間の交渉は開始したものの、国内で安保改定への反対運動は激しさを増していく。

1960年1月19日再訪米した岸はアイゼンハワー大統領との間で新安保条約に調印。しかし、国会は条約の承認をめぐり紛糾。5月20日に衆議院採決に踏み切るも反対運動は拡大を続け、6月19日の条約の自然承認を前に、国会は30万人とも言われたデモ隊に取り囲まれた。

さらに自民党内からも岸の強硬な姿勢への批判が相次ぎ、数日後、岸は退陣を表明する。

岸は任期中、アメリカとの会談で言及した秘密保護法にあたる「防諜法」の検討を進めたほか、憲法改正にも意欲を持ち続けたが、その政治生命は、安保改定で使い果たされた。

孫に”引き継がれた”構想

それから、50年以上の時を経た、2012年12月。
孫にあたる安倍晋三氏が総裁として率いた総選挙で自民党は政権を奪還。

安倍総裁がその直後に訪れたのは、山口県田布施町に眠る岸の墓だった。

墓前に2回目の総理大臣就任を報告した安倍総裁は、記者団に対し、「祖父は、日米同盟で新しい時代を迎えようという信念で、日米安全保障条約の改定を行った。わたしも祖父と同じ信念と決断力で、長州出身の政治家として恥じない結果を出していきたい」と総理大臣就任を目前にした抱負を語った。

そして、翌2013年には、安倍総理大臣のもと「特定秘密保護法」が成立する。

成立から5年を迎えた今月、菅官房長官は記者会見で「法律によって、北朝鮮のミサイルの動向に関してもアメリカなどから非常に機微にわたる情報が得られ、それを踏まえて情報収集や警戒監視に万全を期すことができた」と胸を張った。

さらに安倍総理大臣は「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と、憲法改正への意欲を燃やし続けている。

秘密保護法制や憲法改正、それに、トランプ大統領との強固な日米関係の構築など、あたかも祖父・岸信介の志を継いで取り組みを進めるかのような安倍総理大臣。自民党総裁3選を果たし、12月26日で第2次政権発足から6年を迎える。

祖父を超える長期政権となった今、どこまで構想の駒を前に進めるのか。
60年前の外交文書はその参考の書となるのだろうか。

政治部記者
西井 建介
平成14年⼊局。甲府局を経て、政治部外務省担当。去年2月、安倍首相とトランプ大統領の初の日米首脳会談に同行取材。バーベキューインストラクター(初級)の資格所有。