の競争は再来するのか

世界が「核」の脅威に覆われた時代、人はそれを「冷戦」の時代と呼んだ。

しかし、人は愚かではなかった。「冷戦」を自らの手で終わらせたのだ。象徴となったのが、31年前に結ばれた「INF=中距離核ミサイル全廃条約」だった。

その条約が突然、破棄されようとしている。トランプ大統領が、破棄を表明したのだ。深まるロシアとの溝。条約の行方を話し合うとみられていた米ロ首脳会談も見送られ、糸口は見えない。
新たな時代の「冷戦」が始まってしまうのか。
(政治部 外務省クラブ 小泉知世)

冷戦は終わったはずだった

そもそもINF全廃条約とは何か。
射程が500キロから5500キロの地上配備型のミサイルの保有や生産、発射実験などを禁止するものだ。

1987年にアメリカのレーガン大統領とソビエトのゴルバチョフ書記長が調印し、冷戦の終結につながる象徴的な条約となった。

東西冷戦は終結し、スウェーデンの研究機関によると、ピーク時に世界におよそ6万あった核弾頭は、今、4分の1の1万5000にまで減少した。ところが…

10月21日にトランプ大統領が突然、「我々は条約を守っているがロシアはそうではない。条約を終わらせることにする」と表明したのだ。

予感はあったが…

「条約を破棄する可能性は以前から感じていたが、あのタイミングは想定外だった」
外務省関係者は、トランプ大統領の表明をこう振り返る。

もともとINF全廃条約に批判的だったのが、保守強硬派のボルトン氏。

彼がトランプ大統領の補佐官に就任して以降、外務省はアメリカ、ロシア双方の動向を注意深くウォッチしてきた。
外務省関係者はこう指摘する。
「アメリカ政府は、以前からロシアのミサイルの状況を本当に詳しく把握していたので、いつかはこういう事態になるとは思っていたのだが…」

“賢人”にも広がる懸念

核軍縮の専門家を招き日本政府が被爆地・長崎で開いた11月の『賢人会議』でも、米ロの専門家も交えてINF全廃条約の破棄が議論となった。
挨拶を交わすだけで終わるはずだった開会セッション。

いわゆる「頭撮り」(会議の冒頭を撮影すること)が終わり、報道各社が退出した直後、ロシアの専門家が切り出した。
「日本はINF全廃条約の問題をどう考えているのか」

想定されていなかった発言に、一瞬、会議の空気は張り詰めたという。
鋭い目で見つめるロシアの専門家に対し、質問を受けた辻外務政務官は一呼吸おいて、「条約の破棄は望ましくない。米ロ間の話し合いに期待する」と英語で答えた。

非公開で行われた会議ではその後も、「条約が破棄されればヨーロッパやアジアの安全保障に影響が及ぶ」などと、各国の専門家から懸念の声が相次いだという。

破棄の影に“あの国”

どうして破棄される事態となったのか。アメリカとロシアの専門家に背景を聞いた。

まずアメリカのリントン・ブルックス氏。

国家核安全保障局で局長を務めていたブルックス氏は、条約に従わないロシアだけでなく、台頭する中国の存在が背景にあると指摘した。
「アメリカは4、5年前からロシアは十分に条約に従っていないと懸念を示していた。しかしロシアは真剣に話し合おうとしなかった。責められる相手がいるとすれば、それは懸念に真剣に向き合ってこなかったロシアだ」

「さらに中国は自国の防衛を、ミサイル、特に中距離弾道ミサイルに頼っていて、今後もその傾向は続くと思われる。アメリカは中国ともっと対話をして、核兵器についてどう考えているのか、政府レベルで議論するべきだ」

一方、ロシアのシンクタンク、「エネルギー・安全保障研究センター」で所長を務めるアントン・フロプコフ氏。

ロシアは条約に違反していないとした上で、条約を破棄すればロシアと中国が接近する可能性もあると分析した。
「ロシアは条約に違反するようなミサイルの生産も試験もしていない。アメリカはこれまで核不拡散体制の構築に多大な貢献をしてきたが、近年はそれが次々と壊されている」

「ロシアの最たる懸念は、今後2、3年の間にアメリカがアジア諸国に中距離ミサイルを配備する可能性を排除できないことだ。それはロシアや中国の安全保障に影響することになり、逆にロシアと中国の関係を軍事・政治の両面でより近づけると思う」

中国も枠組みに「現実的ではない」

共に中国の存在が背景にあると指摘する米ロの専門家。では中国も含めた新たな条約を結ぶことは出来ないのか。

トランプ大統領の条約破棄の表明から10日余りたった11月1日。衆議院の予算委員会で、河野外務大臣からこんな発言があった。

「万が一、アメリカが離脱するようなことがあれば、新しい条約の制定に向けて米ロ両国で努力してもらわなければならない。当然、中国にも入ってもらい、核保有国がNPT=核拡散防止条約の義務を守れるような状況を作れるように、日本としても先頭に立って努力していきたい」

しかし、米ロの専門家2人に聞くと、いずれも「中国が枠組みに入ることは考えられず、現実的ではない」と答えた。

そのうえでブルックス氏は、ロシアのラブロフ外相が「新たな条約」に前向きな姿勢を示したことを念頭に、こうも話した。

「中国を条約に入れたいと言っている人たちは、本音では新しい条約など欲しくないから実現不可能なことを語っているだけだ。新たな条約以外の方法を考えるべきだ」

「新START」の延長も困難に

一方、米ロの専門家が強い危機感を示したのが、核軍縮条約『新START』についてだ。

アメリカとロシアとの間で、戦略核兵器の削減を目的に2011年に発効したこの条約。2021年に期限を迎えるが、延長についての議論はこれからだ。

ロシアのフロプコフ氏が指摘する。
「もしINF全廃条約が破棄されれば、新STARTの延長に向けた議論は難しくなる。これをきっかけに、冷戦時代のような新しい軍拡競争が始まるのではないかと非常に懸念している」

「冷戦時代のような新しい軍拡競争」
それは思ったよりも、近くに迫っているのではないかと強く感じた。

“橋渡し役”日本は

日本は、核兵器の保有国と非保有国の“橋渡し役”を目指している。しかし、日米が協調出来ない局面も出てきた。

先の河野大臣の発言があったのと同じ11月1日。毎年、日本が国連に提出している核廃絶を呼びかける決議の委員会の採決で、アメリカが棄権に回ったのだ。

外務省関係者が背景を解説する。
「日本は決議で核廃絶を進める姿勢を強調したいと思い、軍縮交渉を進める義務があるとするNPT=核拡散防止条約の第6条を文言に盛り込み、核兵器のない世界を追求すると呼びかけた」

「しかし、アメリカは第6条を強調した文脈について『NPTは核不拡散の条約であり、なぜ核軍縮に焦点を当てるのか』と批判的で、意見に隔たりが生まれた」

「日本は3国に働きかけを」

アメリカがロシア、そして中国とも対立する中、唯一の戦争被爆国、日本はどうすればいいのか。
核兵器をめぐる国際情勢に詳しい、日本国際問題研究所、軍縮・不拡散促進センターの戸﨑洋史主任研究員に聞いた。

「条約が破棄された場合にアジア地域の安全保障や軍縮不拡散にどのような影響が出るのかをきちんと整理する必要がある。たとえばロシアが極東側に中距離核ミサイルを配備すれば、中国との軍拡競争が始まるおそれもある。ミサイルの射程には当然、日本も入る。条約がなくなれば、不安定化する可能性は大きくなるのだから、3か国に対し、説得力のある形で働きかけが必要だ」

その上で、戸﨑氏は次のように指摘する。
「冷戦の時は、アメリカとソビエトが能力的にも数的にも段違いの核ミサイルを持っていたが、いまは、中国やインドなどが対抗出来るようになっている。軍拡競争が連鎖反応のように起き、緊張関係が起こりやすい世界になってきている」

冷戦の終結からまもなく30年。
被爆者たちが訴え、世界の指導者たちの努力で進められてきた核軍縮は、今、大きな局面を迎えている。
2大国が「東西冷戦」で軍拡競争を繰り広げ、核兵器を量産したような、「軍拡の連鎖」は再び起こってしまうのか。

迎えることになった新たな時代にわれわれに何が出来るのか、考える時が来ている。

政治部記者
小泉 知世
平成23年入局 。青森局、仙台局を経て政治部へ。現在、外務省担当。