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ロシア独立系メディア経営者の闘い “私は諦めない”

ウクライナへの軍事侵攻が始まってまもなく、閉鎖を余儀なくされたロシアの独立系メディア「ドーシチ」。12年にわたってドーシチを運営してきたナタリア・シンジェーエワさんは、それでも諦めることなく、ロシアを離れたいまも、オランダから放送を続けています。侵攻から1年となるのを機に、祖国ロシア、そしてドーシチにかける思いを聞きました。
(国際報道2023キャスター 酒井美帆)

国際報道2023

2023年2月22日放送

BS1 毎週月曜~金曜 午後10時
※総合テレビで再放送(夜11時45分~&翌朝4時20分~の2回)
(変更の可能性があります)

何かを変えるため・・・ 彼女は髪を切った

1年前、シンジェーエワさんは自ら番組に出演し、涙をこらえながら、視聴者にこう語りました。

ロシアでの「最後の放送」に出演する シンジェーエワさん

「これほど苦しい決断をしたことはありません。これが最後の放送になります。私たちはまだ諦めません。これが私たちの降伏でないことを願います」

報道の自由の“最後の砦”として、ロシアでインターネットを中心に独自の放送を続けていた「ドーシチ」。ウクライナ侵攻後も、国営メディアとは一線を画し、ウクライナでの被害の実態を伝え続けてきました。

シンジェーエワさん(画面右)とスタッフたち

しかし、去年3月1日、ロシアの当局は“虚偽情報を伝えた”との理由でウェブサイトへのアクセスを遮断。取材活動を続けることでスタッフが当局に拘束されるおそれもある中、シンジェーエワさんはドーシチの一時閉鎖を宣言せざるを得ませんでした。

あれからおよそ1年。インタビューが行われたのは2月14日。
これまでのシンジェーエワさんは、髪をぐっと引き上げたタイトポニーテールが印象的でしたが、この日はばっさりと髪を切り、ベリーショートの髪型になっていました。そのことに触れると。

「(髪型について聞かれ)何か変化が欲しかったんです。その変化が起きるために最初の一歩を踏み出す必要がありました」

軍事侵攻後はヨーロッパを転々とし、いまはオランダに身を寄せるシンジェーエワさん。
この1年の思いを聞くと、明るく前向きな表情とは裏腹に、絶望的な思いを口にしました。

シンジェーエワさん

「私の人生の中で一番つらい1 年でしたし、たくさんの人々の人生の中でもそうだったのではないかと思います。
最初は困惑し、恐怖を感じました。そして、戦争はすぐ終わるだろうという希望がありました。ですが、今はとても嫌な感情を抱いています。
まずは、戦争に慣れ始めていることです。これはひどいことです。私は、いま起きているこの恐怖や悪夢のような苦しみに慣れることのないよう、自分の中で努力しています。
そして、まったく出口がないと感じること。私たち追放された独立系メディアが何をしようとしても、世界がいくらウクライナを支援しても、ロシアにどんな制裁を科したとしても…。この悪夢の最後を見ることはないという、出口のない感じがします。計画もなく、ビジョンもなく、展望もありません。毎日、いつこれは終わり得るのだろうかと考えています」

“汚れを洗い流す” ドーシチの原点

1971年、シンジェーエワさんはモスクワからおよそ400キロ離れた、ロシア西部タンボフ州ミチューリンスクで生まれました。幼いころはスポーツに夢中で、バレエや民族舞踊にも関心を抱いてきたそうです。20歳だった1991年12月、ソビエトが崩壊。その翌年にはモスクワに移住し、外資系企業で働くようになりました。イベントのプロモーションなどでメディア関係者と出会い交流を深め、次第にテレビ放送の仕事に携わるようになります。95年にはFMラジオ「銀の雨」を創設。04年には「ロシア・メディアマネージャー」賞を受賞するなど、気鋭のメディア経営者として才能を羽ばたかせていきました。

ドーシチのスタジオの様子

そして2010年には「ドーシチ」を創設。当時シンジェーエワさんは、既存のテレビ局への政権の影響力が強まる中で、新たなテレビ局の創設に大きなビジネスチャンスを感じていたと語ります。

シンジェーエワさん

「当時はすでに検閲が起きていて、娯楽番組や映画、テレビドラマ以外のものに興味を持つ人、ものを考える人のためのテレビ局がありませんでした。私は、これはとても面白いビジネスになるかもしれないと考えました。
私たちはゼロからテレビ局を設立しました。技術も、そこで働くことになっている人の数も、どんな機材を置くかも分かっていませんでした。ロシアでは当時、誰もゼロからテレビ局を設立した人はいませんでした。ドーシチの創設は本当に夢のようなものでした。これは言葉の“あや”ではありません。私の眼は燃えていましたし、どんな困難も私を止めることはありませんでした」

日本語で「雨」を意味する「ドーシチ」。そこにシンジェーエワさんは「楽観的なチャンネル」と副題を付けました。暗いニュースばかりがロシアの社会を覆う中でも、楽観的に、前を向いて行動することが何かを変える力になる、そんな思いを込めたと言います。

シンジェーエワさん

「雨(ドーシチ)、それは水です。
水は汚れを洗い流します。雨のあとには虹が出ることがあります。汚れというのは、偽善やすべての嘘、フェイクです。メディア内部のみでなく、生活全般において、不誠実なこと全てです。私は、ドーシチはこうした汚れたガラスを洗い流す役割を果たしているように思います。
私たちには、様々な困難がありますが、人々に何が起きているか現実を説明しようとしています。私たちの行動一つ一つで何かを変えることができ、何かが前進するということを伝えたいのです。楽観的になることは、自分次第でできることですし、自分でそれをしなければならないのです」

裏切られた淡い期待

2000年のプーチン政権の誕生以降、メディアに対する政権の影響力は日に日に強まっていました。
一方で、ドーシチが設立された2010年は、ロシア社会がつかの間の“自由”を得た時代でもありました。欧米との対決路線を強めるプーチン氏とは違い、2008年に大統領に就任したメドベージェフ氏が打ち出したのは、欧米との対話路線。西側との関係を急速に改善し、当時は米ロ関係の“リセット”という言葉が大きく伝えられました。

ドーシチの番組に出演するメドベージェフ大統領(当時)

メドベージェフ大統領(当時)自身がドーシチを訪れ、番組に出演、シンジェーエワさんと談笑し、「視聴者はもっとこの番組を見ないといけない」とまで発言したこともありました。

シンジェーエワさん

「メドベージェフ氏の訪問は当時夢のようでしたし、彼が番組で言ったことを私たちは信じていました。私たちは全員、“雪解け”が到来し、ロシアは正常な発展の道を歩み始め、再び自由が現れるのだと思いました。私たちはプーチン政権のあと、メドベージェフ氏がとった方針に、ロシアが正常に発展していくのだという希望を感じていたのです」

しかし、2012年にプーチン氏が大統領に再選されると、様相は一変します。
独立系メディアへの圧力が高まるなど、再び言論統制が強まっていきました。そして、2014年のクリミアの一方的な併合と、ウクライナ東部で始まった戦闘によって、社会の緊張はピークに。政府の方針に異をとなえる人たちは“裏切り者”とされ、糾弾されるような社会状況が訪れていました。
こうした状況下で、ドーシチも閉鎖の危機に見舞われたとシンジェーエワさんは語ります。

シンジェーエワさん

「2014年にドーシチに対するとても強い圧力が始まりました。ドーシチは潰されそうになり、閉鎖の危機にありました。私たちはオフィスから追い出されて、機材も回収され、スタッフたちも排除されました。あらゆる方面からの深刻な圧力だったのです。
ドーシチは私にとって、子どものようなものです。大事な大事な子どもです。
私たちが再び仕事を続けるチャンスは、ほとんどありませんでした。ですが、私は自分が面倒を見てきたわが子が殺されるのを許してはおけませんでした。どんな代償を支払っても、どうにかして、この子どもを守る必要があったのです」

“亡命” それでも放送を続ける

12年間、ドーシチを守り続けたシンジェーエワさんですが、軍事侵攻によって、ロシアでの活動に幕が引かれました。
それでもシンジェーエワさんは諦めることなく、国外への亡命を決意。ヨーロッパ各地に拠点を置きながら、放送を続けています。しかし、その道も平たんではありません。

ラトビアの街なかにはプーチン氏を風刺した幕が

最初に拠点を設けたラトビアでは、社会で反ロシアの感情が高まる中、ある出来事を機に、放送を継続できなくなりました。

去年12月、番組のキャスターが「多くのロシア兵の役に立つことを期待する」と、“ロシア寄り”ともとれる発言を行い、ドーシチは大きな批判にさらされたのです。
シンジェーエワさんは放送を続けるためにも、このキャスターを解雇。それでも、ドーシチが“ロシア軍に協力しているのでは”との疑念が広がる中で、ラトビア政府はドーシチの放送免許を取り消すに至りました。
危機を乗り越えるために迫られた、スタッフ解雇の決断を、今もシンジェーエワさんは悔やみ続けています。

キャスター解雇について語る動画で涙を流すシンジェーエワさん
シンジェーエワさん

「あのときは、とても複雑な状況でした。キャスターの発言は、いま起きている状況下において、本当に正しくない言い方でした。私たちは大きな批判にさらされて、彼を解雇しなければならない、という決定を下しました。
私は12年間で誰ひとりとして、何らかの圧力のもとで解雇したことは決してありませんでした。しかし、この時は恐怖や蓄積した感情から、彼を解雇してしまったのです。実際にそれをする必要があったのか、あるいはなかったのか、あとから落ち着いて決めることもできたのに・・・」

現在はオランダから放送を続ける

その後、シンジェーエワさんはドーシチの拠点をオランダのアムステルダムに移し、ニュースや番組の配信を再開しています。
「放送が何かを変えることはないかもしれない」。
そんな無力感を抱きながらも、侵攻が終わり、祖国が国際社会と共に歩む日が来ることを願い続けていました。

シンジェーエワさん

「どんな形かは分かりませんが、プーチン氏がいなくなり、戦争が止まることを私は願っています。彼がいなくなったとたんに、戦争は終わると思うからです。そして、私たちが1990年代に体験したように、正常に発展し世界と統合するチャンスがもう一度、ロシアにくることを望んでいます。世界に対して完全に開かれることを望んでいます。
私たちロシア人は、多くのことを考え直さなければなりません。私は、ロシアがこのチャンスを逃すことのないよう、願っています。私たちは、変化を望む社会、正常な価値観を持つ国で暮らしたいのです」

取材後記

シンジェーエワさんが髪を切ったきっかけは、ラトビアでの出来事だったのではないか。インタビューのあと、私は彼女の心中を推しはかっていました。
苦渋の決断を下してロシアを離れたのに、逃れた先のヨーロッパでも、容赦なく浴びせられる社会からのバッシング…。敏感な空気が広がっているなかで放送を続けることが、どれほどシンジェーエワさんの精神を追い詰めていたのか…。同じメディアの人間として想像するだけで気が遠くなりそうです。もしかしたら、そんな不安を払拭しようと髪を切られたのかもしれません。
今のシンジェーエワさんの表情からは、これからどんな困難があっても放送を続けていくという強い意志を感じました。
今回のインタビューで特に記憶に残っているのは、シンジェーエワさんが語った「この戦争に慣れ始めているのがとても嫌だ」という言葉です。当事国の人ですら、慣れ始めていると感じていることに私は驚きました。
日本で暮らす私たちはどうでしょうか。
正直、侵攻当時のあの衝撃に比べると、ウクライナ情勢への関心が下がってきていることは否めないと思います。その“慣れ”が、“無関心”につながってはならないと、1年を振り返って改めて感じます。
雨が汚れを洗い流したあと、空に虹がかかる。そんな日が来ることを願ってやみません。
(国際報道2023キャスター 酒井美帆)

担当 酒井美帆キャスターの
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みんなのコメント(4件)

提言
せいちゃん
40代 男性
2023年11月5日
ロシア人の中にも良心に従って行動する勇気ある人たちがいます。
どんな国にも、人道主義者はいます。
国を憎むことがあっても、どの国であっても、その国のすべての人を憎むのは、やめましょう!
感想
言葉のチカラ…そして祈り。。
男性
2023年3月11日
報道の自由。市民の知る権利は民主主義の根幹をなすもの。それは”当たり前の事”として取り立てて強く意識することは少ない日常。その”当たり前の事”は決して”当たり前ではない事”…改めて強く意識させられました。この”当たり前の事”。”命がけで勝ちとったもの”や”この上ない苦難、困難を乗り越え得られたもの”でなく”当然の事、自明の理”だと…私達の多くが感じている現実。シンジェーエワさんの想い。感情や頭では理解できても一人の人間全体として寄り添い切ることができているだろうか。報道関係者に限らず、他人の悲しみや苦しみに寄り添い切ること。思いを繋いでゆくために、私には何ができるのだろうと。深く考えさせられました。シンジェーエワさんは”命をかける!”強い覚悟の証として髪を切られたのだと。雨はまさしく水!人や生命に欠かせないもの!私自身も強い信念、正義感。3.11の今日…覚悟迫られる思い。感謝…そして祈り。
感想
マル
50代 男性
2023年3月8日
雨が上がった後、霧が立ち込めるかもしれない。
そんな時でも、自らが灯りとなってお互いに支え合う。そんな存在が少しでも増えれば良いなぁと思いました。
感想
猫教授
男性
2023年3月8日
ロシアのウクライナ侵略は、もちろん、プーチンという強大な権力をもつ独裁者によるものですが、それを許し、結果的にそれを支えているのは国民の無関心ですよね。構図は戦前の日本に似ているのではないでしょうか。メディアが働きかける必要があるのは、この無関心という怪物ではないか、という気がします。