日本初のセクハラ裁判が教えてくれること ≪前編≫
30年前の1992年4月、歴史的な裁判の判決が下されました。ライターの晴野まゆみさん(当時34歳)が起こした「日本初のセクハラ裁判」で、全面勝訴したのです。
勤めていた出版社で、ひどいセクシュアルハラスメントの被害を受けた晴野さん。しかし当時の日本では、さまざまな職場で性的な嫌がらせが起きていながら、セクハラということばも、女性差別を禁じる民法の規定もありませんでした。
それでも泣き寝入りはできないと、晴野さんは前代未聞の裁判を闘います。たった1人で上げた声は、やがて大きなうねりとなり、日本社会を根底から変えていきました。
(制作局第2制作ユニット ディレクター 原田吾朗)
逆転人生「日本初のセクハラ裁判が教えてくれる15のコト」初回放送日: 2022年1月24日
セクハラということばも無かった時代
女性の働き口が今より限られていた1980年代。大学を卒業した晴野さんは、福岡市でブライダルコーディネーターの仕事をしていましたが、ライターの仕事に憧れ、28歳のときに小さな出版社へ転職します。
そこでは、福岡のエンタメやグルメ情報を掲載する大学生向けの雑誌を作っていました。学生時代から文章を書くのが好きだった晴野さん。自分の文章で、取材したことを世の中に発信できる仕事に、大きな喜びを感じていました。
しかし晴野さんには悩みがありました。それは直属の上司である編集長(当時30代)の仕事ぶり。予定をすっぽかしてしまうことが多く、時には自分の担当する取材のアポを忘れ、晴野さんが代わりに取材することもありました。編集長は仕事より家庭優先で、締め切りが迫る繁忙期でも先に家に帰り、晴野さんだけが深夜まで原稿を作ることがほとんどでした。それなのに、晴野さんの給料は編集長の3分の1。ひどい男女格差ですが、晴野さんは、仕事に生きがいを持って日々を過ごします。
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晴野まゆみさん
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「子どものころから下手ですけれども、詩を書いたりとか、とにかく文章を書きたいというのがあって。なんらかの形で文章と関われる仕事をしたいというのは、ずっと持ち続けていたんです。やっぱりやりがいがありましたし、楽しかったですね」
やがて、取材先から「編集長ではなく、晴野さんに取材してほしい」と言われるようになり、晴野さんはますます忙しくなっていきます。そんな晴野さんの楽しみは、仕事でお世話になった人や、同僚たちとお酒を飲むこと。今と比べ、女性が飲み歩くことに偏見の目はありましたが、仲間たちと盛り上がることで、ストレスを解消していました。
しかし、お酒好きの晴野さんのことを、編集長がからかうようになっていったのです。
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晴野まゆみさん
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「すれ違いざまに『昨日も遊んだのか』とか言われて。私が少ない給料でやりくりするなか、お弁当を作ってくると、『君でもお弁当を作るのか』とか、冷たい言葉を投げかけられたりして、だんだん違和感を持ちました。何かおかしい、みたいな」
さらに、雑誌づくりを手伝っていたアルバイトの男子学生からは・・・。
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晴野まゆみさん
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「冗談みたいに『晴野さんって、結構お盛んなの?』と、自分の弟みたいな学生から言われて。『え?何それ?』って思ったんですね。だから『誰がそんなことを言っているのよ』と聞くと、『いや、編集長が言っていましたよ』と」
職場で性的な陰口を、編集長から言われていたのです。しかし晴野さんは、あえて気にしないようにしていました。負けず嫌いな性分もあり、膨大な仕事量をきっちりこなすことに集中したかったからです。
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晴野まゆみさん
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「とにかく日々中傷を受けながらも、最初のうちはくだらないと思っていたんです。こんなくだらないことにいちいち取り合っていてもしょうがない。ばかばかしいうわさなんて、時間がたてば消えるだろうと。自分が毅然(きぜん)としていればいいと思っていたんです。でも、一向になくならないどころか、なぜかうわさがどんどん増えていく」
そうしたなか、決定的な事が起きます。晴野さんは卵巣腫瘍を患い、摘出手術のために入院が必要になりました。それを編集長に伝えた直後のこと。編集長が自分の席で電話を始め、その相手に耳を疑うようなことばを口にしたのです。
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編集長
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「実は晴野が入院するんですよ。あれですよあれ。女のあれです。アッチの病気。まぁ、夜がお盛んだから、アッチが疲れちゃったというか」
その会話を、晴野さんはぼう然と真横で聞いていました。(※卵巣腫瘍と性交渉の因果関係はありません)
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晴野まゆみさん
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「衝撃的でした。一瞬、何を言っているんだろう、信じられない、というような。怒りもそうだけど、悲しい。だから、何も言えなくなってしまった」
手術は無事終わりましたが、仕事を再開した晴野さんの心は晴れませんでした。編集長が流した晴野さんの性的なうわさは、取引先や取材先にまで及んでいました。「ふしだらな女」というレッテルを、自分が知らないところで貼られていく痛みと恐怖。晴野さんは職場で追い詰められていきます。
勇気を出して反論し、会社に相談したが・・・
晴野さんは、編集長が自分の評価を下げる目的で、うわさ話をしていると感じていました。編集長が本来やるべき仕事の領分を担い、職場の中心となっていく晴野さんを、妬んでいるのではないか・・・。
ある日、晴野さんは編集長から昼食に誘われます。その場で、誰も知らないはずの晴野さんの秘密を切り出されたのです。
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編集長
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「晴野さんは、不倫の経験があるよね。取引先の○○さんと不倫関係だったんだろう。知っているんだよ。その事実は黙っておくから、会社を辞めてくれないか」
確かに、晴野さんは既婚者である取引先の○○さんと1年ほどつき合っていた過去がありました。それを突然持ち出され、脅しの材料として利用されたことに、晴野さんは激しく憤りました。
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晴野まゆみさん
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「人は生きていくなかで、触れられたくないこと、忘れてしまいたいことだってたくさんある。それを土足で踏みにじるような形で、『知られたくなかったら会社を辞めろ』と言うことは、人としてあまりにも卑怯(ひきょう)で、恥ずかしいと思いませんかと。こんなことをして、あなたは恥ずかしくないんですか。それで私が辞めると思っているんですかと。情けないですねと」
このままだと、自分が職場から追い出されてしまう。晴野さんは、編集長よりも上役の専務に、事の経緯を伝え相談をしました。専務はすぐに編集長を呼び出して話を聞くなど、動き出してくれました。
しかし、会社が出した結論は驚くべきものでした。編集長は3日の停職処分。その一方、晴野さんには会社を辞めろと言い放ったのです。
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晴野まゆみさん
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「青天の霹靂(へきれき)でした。いきなり専務から一方的に、『2人が一緒にいると職場の雰囲気が悪くなる。だから辞めろ』『明日から来るな』『きょう限りクビだ』と。むちゃくちゃですよね。怒って、怒って、どうしようもないから涙が出てきました」
晴野さんは退職させられ、やりがいだったライター業の職場を失いました。そのとき専務に言われたことを、今も鮮明に覚えています。
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晴野まゆみさん
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「専務が言ったのは、『晴野君は確かに仕事はできる。よく頑張っている。でも、男を立てることを知らない。だから、次の職場に行ったときに、まずは男を立てることを覚えろ』と。女は結婚すれば飯炊き女になるという価値観です。悪気は無くて、むしろシンプルにそれが彼らの時代の、男の人の価値観」
法的手段に訴えるも・・・ “こんなことで訴えるなんて”
会社を辞めさせられた晴野さんは、経済的にも追い込まれていき、預金残高が2000円しかなくなってしまいます。何とか生きていくために、雑誌づくりでお世話になった、かつての仕事関係者をまわり、フリーライターとして生計を立てていきました。
そして退職から半年たったころ、晴野さんは「なぜ自分が辞めさせられたのか」どうしても納得ができず、法的手段をとると決意します。お金に余裕がない晴野さんは、費用が安くすむ、民事調停を申し出たのです。簡易裁判所を通じて編集長と直接話し合い、謝罪を得ようと思いました。
しかし、裁判所で晴野さんは、調停委員から驚きのことばをかけられました。
「セクハラ」ということばすら、まだ誰も知らない時代。理解は得られず、調停は失敗に終わりました。
さらに民事裁判で「名誉毀損」を訴えようとしますが、物的な証拠もなく、弁護士からは勝ち目がないと言われてしまいます。
諦めかけましたが、1989年の1月、転機が訪れます。地元新聞の記事で、「女性専門の法律事務所」ができたことを知った晴野さん。「ここに相談してダメなら諦めよう・・・」。そう思って訪れた先で、驚きの法廷戦術を提案されたのです。
(どのようにして日本初のセクハラ裁判を闘ったのか。記事の後編はこちら)
取材を通して
晴野さんは、セクハラ被害によって心を傷つけられただけでなく、やりがいだった仕事を失うこととなりました。なぜ、被害者なのに職場から疎外されてしまうのか、憤りを感じました。
セクハラの要因の1つには、「伝統的な男女の役割分担」を重んじる職場環境があると思います。当時晴野さんが勤めていた会社は、編集長を「男にする」と残し、晴野さんを「辞めても結婚がある」と追い出します。女性は切り捨てる一方、男性には会社に貢献しなければ「男じゃない」と圧力をかける。晴野さんは、裁判から30年たった今、「編集長も『男は会社を背負って立つものだ』というプレッシャーのなかで、苦しかったのかもしれない」と振り返っています。伝統的な性別の役割分担を押しつける社会では、誰も幸せになれないのではないかと思いました。
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