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“あの日見た光景を繰り返したくない” 熊本と東北 語り継ぐ思い

熊本城の天守閣復旧、南阿蘇鉄道の全線運転再開、阿蘇神社の楼門復旧・・・。
熊本地震から8年がたち、被災地では明るいニュースが飛び交うことが増えてきました。

そうしたなか、復旧や復興を喜びながらも周囲との温度差を感じている人がいます。
大学2年生のときに被災し、語り部活動を続けてきた林風笑(かざえ)さん、27歳です。

「『次はこないだろう』とか『自分は大丈夫』とか、油断するような言葉も耳にするようになった・・・」

災害関連死を含め276人が犠牲になった一連の熊本地震の記憶や教訓を、どう語り継いでいけばいいのか。
林さんはそのヒントを得ようと、“いちばん身近な先輩”だという東日本大震災を経験した語り部を訪ねることにしました。

(熊本放送局 ディレクター 伊藤麻衣)

林 風笑(かざえ)さん (27)

大阪府出身。畜産を学ぶために熊本県南阿蘇村にある大学に進学し、2年生のときに熊本地震を経験。地震発生時にいた友人のアパートは1階が潰れ、そこにいた同級生が亡くなった。友人の部屋は2階だったため林さんは助かり、“自分が生き残った意味があるはず”と語り部活動を始めた。大学在学中の3年間は積極的に語り部の活動をしていたが、就職を機に減少。3年前に仕事のため兵庫県に引っ越して農業高校で働き出してからは、その機会がほとんどなくなっている。

武山 ひかるさん (23)

宮城県東松島市出身。小学校4年生のときに東日本大震災を経験。武山さん一家は無事だったが、親友の親や同級生、通っていた小学校の児童11人が亡くなった。震災から5年後、高校生になったときに語り部を始める。いまは石巻市で、精神保健福祉士として障害のある子どもたちを支援する仕事をしながら語り部活動を続けている。

復旧・復興が進むなか、語り継ぐことの難しさ

林さんが訪ねたのは、宮城県石巻市で働く武山ひかるさん、23歳です。小学4年生で東日本大震災を経験し、高校生のときから語り部活動を続けています。

林風笑さん(左) 武山ひかるさん(右)

この日、初めて顔を合わせた2人。最初は少しぎこちない雰囲気でしたが、お互いを「ひかるさん」「風笑さん」と下の名前で呼ぶことに決め、すぐに打ち解けた様子。

最初に話題となったのは、“いま、あの地震のことをどう思っているか”についてでした。

武山さん

熊本の地震があって、生活とか気持ちの変化とかってなんかありました?

林さん

大学に入る前と比べて、思い描いていたものではなかったけど、でもそれは悪かったとかではなくて。地震があったことは残念なことだけど、思い描いていたものも変わったけど、いま私があるのはあの経験だなと思うって感じかな。

武山さん

本当に全く一緒ですね。私も東日本大震災がなかったらいまの自分ないしなとか。小学校のときに震災を経験して、嫌だったこと、つらかったこと、しんどかったことあったけど、そのなかでいろんなものを得たから。マイナスの部分もあったけど、でも自分を成長させてくれたって。

大学時代、語り部をする林さん
高校時代、語り部をする武山さん

場所は違えど同じ語り部として、みずからの経験を語ってきた2人。そこには“生き残った自分にできることをして、今後同じ思いをする人を減らしたい”という共通の思いがありました。

しかし語り部を始めた当初、2人はある壁にぶつかったといいます。

武山さん

友達が震災で両親亡くしていて、おじいちゃんも亡くしていて、お母さんのお腹にいた妹も亡くしてっていうすっごい重い経験をした子で。私は震災で家は無くなったけど、近しい家族で亡くなった人はいない。だから、ちょっと体験を比べてしまって。この子のそばで私が話してもいいのかな?みたいなのがあって、最初はすごい悩んだ。そういうのなかったですか?

林さん

私はそのとき、自分の家じゃなくて友達の家にいたんですよ。1階が潰れちゃって、私は2階にいたからすぐに出られたんですけど、1階にいる子の1人は亡くなって、もう1人は足を切断しないといけないみたいな子もいて。

でも私が語り部するってなったら、その子たちを“売る”じゃないけど・・・でもそれを話さないと「どのぐらいひどかったか」みたいな話もできないし。こんなに勝手にいろいろしゃべってていいんかな?みたいな。そうですね・・・。

武山さん

その気持ちはすごいよくわかるな、なんか。

天守閣が復旧した熊本城

事前の取材で、林さんは私たちにこの8年で起こった気持ちの変化を打ち明けてくれていました。

当初、「あの日のことを忘れないために」と語り部を続けていた林さん。インフラや観光名所の復旧工事がおおかた終わり、明るいニュースが飛び交うことが増えるなか、周囲との間に地震に対する気持ちの温度差を感じるようになりました。

さらに3年前、熊本を離れて兵庫県の農業高校で働き始めると、語り部の機会はおろか当時のことを口にする機会すらも減っていきました。

林さん

(熊本の人のなかには)“災害を軽視している”じゃないけど、どこかで「自分は大丈夫だろう」とか「もう大丈夫だろう」とか、「次こない、こんなこと1回あったら」みたいな油断しているみたいな言葉とか。自分の命とか生活とかを守っていく上で忘れてしまってはダメなんだろうなと思う。ただ、ずっと覚えておくのもしんどいけど・・・じゃあどれぐらいまで、みたいなのが難しい。

林風笑さん
林さん

関西の人とか、人によっては「(熊本地震って)あったよね」みたいな感じのノリの人もおるし、高校で働いていても、自分が相手する生徒に急に話すってなると難しい。ひかるさんはいまも結構?

武山さん

全く一緒です。私もメインの仕事があって、大体週5、多いときは週6で働いていて。知的な障害があったり自閉症って呼ばれる障害があったり、いろんな子がいるんですけど・・・。

武山さんは去年、精神保健福祉士の資格を取り、いまはその資格を生かして障害のある子どもたちを支援する仕事をしています。

語り部活動の機会は減っていますが、ふだん接する子どもたちには、絵本などを使って当時の自分の経験や命の守り方を伝えています。

武山さん

そういう子たちにこそわかりやすい方法で、その子たちが学びやすい方法で、一個ずつ一個ずつ蓄積させていくのがいいのかなって思って。悩みながらですけど、「何やろうかな?」って言いながらやる感じですね、いまは。

絵本を使って子どもたちに防災教育をする武山さん

東北から熊本、そして能登へ つながる“恩送り”

林さん

ちょっといままでの話とずれるけど、地震の直後とか2年後3年後とかって、「4月16日(熊本地震本震の日)はどうやって過ごされるんですか?」とかを聞かれて。私の4月16日の身の振り方を考えるために前の月から「あの日ってどう過ごしたらいいかな?」ってちょっと緊張し出すみたいな。「え?なんかしたほうがいいかな?」みたいなことを思っちゃう。そういうことあります?

武山さん

あります。前とかよくメディアさんから「3月11日はどうやって過ごされますか?慰霊祭には行かれますか?」とかいろいろ聞かれて、「え?あー行ったほうがいいの?」みたいなときもあって。やっぱメディアさんからすると“いい被写体”といいますか“いい資料”といいますか、になるからなんだろうなとは思うんですけど。最近というかだんだん、別に普通の生活でよくないか?って。3月11日も別にみんな普通の生活を送っていたなかで被災しただけだし、別に誰かしらになんか言われることもないよなって思って。

林さん

私らからしたら、東日本の人がいちばん身近な先輩、経験者の方たちが。東日本大震災を経験して、ボランティアされていたり語り部されていたりっていう方に何人かお会いしたことあるんですけど、「その気持ちすごいわかる」って言ってくれて、その後に「でも、これはこうなの?」とか話してくれることがすごい助けられたなとは思う。

武山さん

私の知っている人の言葉を借りると、“恩返し”と“恩送り”って言葉があって。それが“恩送り”になるのかなって。

林さん

確かに。

武山ひかるさん
武山さん

私たちとかは、いろんな人から恩をもらってそれをその人たちに返せなかったじゃないですか。だからまた別のところで、例えば能登の人だったりに“恩送り”をして、私たちの場合は熊本地震のみんなもそうだし。そこに“恩送り”をして、またいろんなものにどんどんどんどん。たぶん私たちと同じ思いを持って語り部活動したいっていう人たちも増えてくるだろうから、私たちみたいに前例というか、悩んで悩んで前に進んできた人もいるから、一緒に試してみようとかっていうのができるのがいいのかなって。

林さん

確かに。語り部もそうだけど、もう亡くなってしまった人をどうにかはできないからね。こっからしんどいかもしれない人とか、なんとかしていければいいなって思いながら。

武山さん

自分が生き残ってしまったことへの罪悪感を感じる人もたくさんいるだろうから、そういう人たちに寄り添っていけるようになれたらいいなっていまは思いますね。

能登半島地震で抱いた“後悔”と“決意”

林さんには、武山さんに聞いてもらいたいことがありました。

それは、能登半島地震が起きたことしの元日のことです。その日、林さんは兵庫県の農業高校で生徒たちと動物の世話をするために出勤していました。

林さん

私がいるところでも緊急地震速報が鳴って。全然、揺れは震度2とか3とかで。いままでも私、そういう「雨が多いですよ」とかのアラートとか音が苦手で。まだまだあれだけは慣れなくて「うわー嫌だなー」とか思っていたんですけど。私が音でびびって、もうそこから、しかも地震だってなって、うわっていろいろ思い出しちゃって全然動けなくて。それがすごいショックやったんですよ。いままでいろいろ語り部しながら、「どこで地震が起きるかわからないんでシミュレーションしてくださいね」とか人には言うし、自分も考えていたつもりだったけど、自分そのとき動けない可能性あるんだって。

武山さん

確かに。

林さん

これがもし本当に大きい揺れがきていたら、私あの子(生徒)たち助けられずに自分がフラッシュバックしたままで、その子たちがもし命を落とすことがあったら絶対後悔するのにってことがすごいショックで、1月ずっとそのことをうーってなって考えていて。すごい自分に自信がなくなったっていうか、そういうことがあったんですけど。災害の映像を見るとかフラッシュバックのことも含めて、(ひかるさんも)あるんかな?と思ったり、どうしてるかな?と思ったり。

林風笑さん
武山さん

ありますね。音、嫌いです。サイレンの音。「ウーウー」って音、あと「チャンチャン、チャンチャン」って緊急地震速報とか、あれ大嫌いで。実際「身を守ってください」ってきれいごと周りに言っているけど、その場で自分が本当にできるかって言われると、100%の自信はない。

林さん

そうですよね、時間がたってもそれだけはみたいな。

武山さん

だから、自分の身を守るのだけですら精一杯になっちゃうから、いまのうちに。本当に防災を周りの人と話しておかないと絶対に後悔するだろうなっていうのは、本当に本当にそうですね。

林さん

確かに、やっぱり周りに言っておかないとですね。

武山さん

自分の経験はともかくですけど、教訓として例えば「大きな地震が来たら頭を守るんだよ」っていうのを言っておくとか、その判断がつかないようであれば、逃げる場所は事前に「ここで地震が起きたら、ここに逃げる!」みたいなのをやっておかないとなって本当にずっと思います。

林さん

確かに。

武山さん

今後どうしていきたいか、展望みたいなのってあります?震災とか語り部に全く関係なくてもいいんですけど、仕事で偉くなりたいとか(笑)

林さん

私、本当に全く関係ないで言ったら、いまのこの仕事3月末で辞めてJICA(国際協力機構)ってわかりますか?青年海外協力隊に秋から行くんです。

武山さん

おーすごーい!

林さん

それでアフリカのタンザニアって国に行くから、まずはそれだなって感じ。

武山さん

5月に私は能登行くし。

林さん

そうなんだ、それは何しに?

武山さん

私の活動を知ってくれている人が能登にもいる。励ましてやってくれっていうことで、「来られない?」って言われて。役に立てるかどうかわからないけど、と思いながら。国外行っちゃうと語り部もできないですね、少しの間。

林さん

英語で語り部できるように頑張ります、帰ってきたら。

武山さん

おー!最高じゃないですか!そしたらインバウンドの外国人とかに。

林さん

「通訳なしでできますよ!」とか。

武山さん

通訳なしで、最高じゃないですか!

林さん

確かに!

ふたりが“語る人生”を選ぶ理由

2時間近くに及んだ対話。最後に2人に尋ねました。

それは、2人につらい思いや大変な思いを強いた地震のことと距離を置いて、“話さない”という別の人生を歩むこともできたはずなのに、なぜここまで考え、語り続けるのかということです。

2人は少し考えて、静かに答えてくれました。

林さん

私はでも・・・あの日見たあの場所を繰り返したくないみたいなのがいちばん大きいかな。あの日とその後の「どうやって自分はこの先生きていくんだろう」みたいなのも含めて、あの地域の人がみんなもっと備えていれば亡くなる人もゼロだったのかなとか、亡くなる人がゼロだったらもうちょっとしんどい思いはしてないよなとか思うから、そう思う人をこれ以上増やしたくないっていうのかな。

武山さん

私も全くそれですね。あのとき亡くなった人たちにとっては、生きたかった“きょう”だし、いまも生きていて笑っていたはずだし、地元にいるか県外にいるかわからないけど、普通に人生があったはずの“きょう”を私たちは生きることができているからこそ、その人たちが生きていた証しだったりとかを伝える必要があるのかな、伝えていってもいいんじゃないかなって。みんな忘れていく人がいてもいいと思うし、記憶は薄れていくからそうなってもいいと思うけど、そこで生きていたはずの、生きていた人たちの記憶だったりとか得たものだったりとかっていうのはむだにできないなって。

対話の後、東日本大震災の教訓を伝える施設を訪れた2人

いまも変わらず、語り部を始めたときと同じ気持ちを持つ2人。

林さんは8年、武山さんは13年、悩み、考え、それでも自分にできることを探しながら、それぞれの“あの日”と向き合っています。

どんどん時間が過ぎるなかで、あなたは自分の知る災害とどのように向き合っていきますか?

(対話 2024年3月)

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