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「自分が何を思ったのか、いつか話せる日が来るまで」 宮城県石巻市出身・永沼悠斗さん

「能登半島地震を経験した“子どもたち”へ、私がいま伝えたいこと」

このページでは、かつて東日本大震災などで家族や友人、ふるさとなどを失った“子どもたち”からのメッセージを紹介します。

高校3年生の頃の永沼さん

宮城県石巻市出身の永沼悠斗さん、29歳です。
高校1年生のときに東日本大震災を経験。
小学2年生の弟と祖母、曽祖母を津波で失いました。

弟が通っていた大川小学校では、津波で74人の児童と10人の教職員が犠牲になりました。
今も4人の子どもの行方が分かっていません。

震災遺構の大川小学校で語り部活動をする永沼さん

震災から5年後。
永沼さんは大学生のときに、大川小学校で語り部として活動を始めます。

永沼さん

「自分が生きて、津波で流された人が亡くなったのはなんでなのか、時間ができたときに考え始める。そのときに、自分ができることや生かされた意味は何だろうと考えて、始めたのが語り部です」

能登半島地震で大切な人やものを失った子どもたちへ。
永沼さんからのメッセージです。

※再生すると音声が出ます

「能登半島地震で被災された皆様には心よりお悔やみ申し上げます。私自身は2011年3月11日に起こった東日本大震災のときには高校1年生でした。自宅を流失して避難所での生活を経て仮設住宅、そして自宅再建と、そういう避難生活・被災生活を送ってきました。

今となっては いろいろな場所で何気ない会話でも(震災のことを)話せるようになりました。それはその当時、必死にその場の『生きなきゃいけない』という思いで対応してきたことが、今となっては思い出になっているなと、素直に思います。

目の前に被災している建物があって、自分の住んでいた育っていた町並みが変わることは本当に心苦しくて大変なことだと思います。でも、いつか時間がたったときに復興・復旧していく中では、(その場所で)自分がどういうことを思っていたのか、友達とどう過ごしたのか、家族とどう過ごしたのか。それは本当にいい思い出になると思います。

それがいつか思い出話として話せる日が来るまで、皆さんと一緒に頑張っていきますので、そこを諦めず一緒に頑張っていきましょう」

みんなのコメント(1件)

感想
まる
男性
2024年3月23日
悲しい