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“原発事故”と“ハンセン病” 見せたくないものこそ伝えたい

「『大熊町ってもう人が住めないんだよね?無くなったの?』と言われたのがショックでした。(小泉さん)

「私も『近づいたらうつる』『怖い人たちが住んでいるところ』と避けられ、つらい思いをしてきました。(石田さん)

福島県で原発事故を体験した小泉良空さん(26)と、岡山県でハンセン病療養所に隔離され続けた石田雅男さん(87)。2人はそれぞれの体験を伝える“語り部”の活動を行っています。

「語り部として何を伝えればいいのか」と悩む小泉さんに対し、石田さんが伝えたのは「見せたくないものこそ、しまい込まずに見せてほしい」ということば。その真意とは。

【関連番組】明日をまもるナビ
2023年10月8日(日)午前10時05分~午前10時50分

https://www.nhk.or.jp/ashitanavi/broadcast/16803.html

小泉 良空さん(こいずみ みく・26)
福島県大熊町出身。東日本大震災当時は中学2年生。東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で県内外での避難生活を余儀なくされたが、「ふるさと大熊町に帰りたい」という思いを絶やすことはなかった。あるときかけられた「大熊町ってもう無いんじゃないの?」ということばにショックを受け、“私が正しく伝えないといけない”という思いで2021年から語り部活動を始めた。
石田 雅男さん(いしだ まさお・87)
岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」で暮らす。10歳のときハンセン病を発病し長島愛生園に入所した。ハンセン病はらい菌による感染症で感染力は極めて弱いが、進行すると体の変形などを引き起こす。今は完治する病気だが、その後遺症などによる差別や偏見に元患者は苦しんできた。石田さんも“悔しい思い”をたくさんするなかで、正しく知ってもらいたいと40年以上語り部を続けている。

語り始めたきっかけは「悔しさ」

小泉さんが訪ねたのは、石田さんが暮らす岡山県瀬戸内市の長島愛生園。

語り部としてみずからの経験を伝えればいいのか?町の歴史を伝えればいいのか?それとも、教訓を伝えなくてはいけないのか?石田さんに聞きたいことがたくさんありました。

小泉さん

よろしくお願いします。

石田さん

よろしくお願いします。

小泉さん

私から自己紹介させていただきます。福島県の大熊町出身で、原発が立地する町で生まれ育ちました。2年ちょっと語り部をやってきたんですけど、“語り部ってそもそも何なんだろう”というところとかもあるので、語り部の先輩に聞こうと思って来ました!

石田さん

じゃあ次は私の自己紹介ということで。名前は石田雅男といいます。この病気で長島愛生園に入りましたのが10歳のときでしたから、今87歳、愛生園で過ごしてきた年数というのは77年になるということで、とてつもない長い間の療養生活と。ただ「療養生活」といっても一般の病院とかそういうところと違って、とても隔離が厳しくて、いたずらに「怖い病気」だとか「治らない病気」だというのが一般に出回っていまして。「近づいたらうつる病気だから」ということで人から避けられ、とてもつらい思いをしました。“悔しい思い”がいっぱいあったので、なんとか少しでも正しく知ってもらいたい、この病気に対する本当の理解者になってもらいたいという思いで励んできたのが現在の私ではないかなと思っています。

小泉さん

私もちょっと“苦い思い出”というか、「あの場所はもう人が住めないんじゃないか」とか「あの町って無くなったんじゃないの?」みたいなことを福島県内に住んでいる大人の人に言われたのがすごく衝撃的で。自分がずっと住みたい、戻りたいと思っていた大好きな場所をそういうふうに言われることがとにかく悔しくて。“すごく悔しい”という感情が原動力だったので、通じる部分があるなと思って。

(昭和63年に架けられた、対岸の本州と島を結ぶ邑久長島大橋。長年にわたってハンセン病の元患者たちを苦しめた国の隔離政策からの解放の象徴として「人間回復の橋」と呼ばれる)
石田さん

象徴的な悔しさを覚えたのが、あるとき地元の人たちが「橋が架かる」ということを知ったときに、「あんな汚いところに橋を架けるのか?」「あんな怖い人たちが住んでいるところに?」ということばがテレビのインタビューでどんどん出てきた。それを聞いたときに、悔しくて。「何を言っているんだ」、確かに病気による後遺症が顔に出て、手足にも出ている、体が変形している、顔も変形している、醜いかもしれん・・・。だけど、心まではそうなってはいないということをテレビの画面に向かって吐き捨てるみたいに僕は言った覚えがあるんですよ。

“見せたくないものこそ見せる”ことで伝わる

石田さん

そんなとき、ある先輩が「石田君、前に出て思い切って言わなあかんぞ」って。僕は「いや、口下手でなぁ。人前に出るのは恥ずかしがり屋やし」と言ったら、「人前に姿を見せただけでも知ってくれるよ」と。これがハンセン病の後遺症なのかと、手を動かしたらちょっと指が曲がっている。顔も眉毛は薄いし、口元はゆがんでいる。立派なことを言わなくても、自分の現在の姿のありさまをそのまま見てもらって、そこから話が始まると。それを聞いて「なるほどな」と、ちょっと気持ちが楽になって。それから人前に出る勇気が持てるようになった。

小泉さん

私も“自分を見せる”っていうことはすごく似ていて。自分は人の前でお話しするのが苦ではないタイプだったので、“自分の経験を話す”ってことをまずやってみようと思って始めてはいるんですけど。特別何か自分の話すことに人をひきつける魅力があるのかもよく分かっていなかったですし、「これで聞き手側は何かなるのかな?」みたいなことを最初はすごく悩んでしまっていたんです。なので石田さんに教えていただきたいのは、始めたころと今とで語っている内容とか語りたいこととか、どういう変化があったのかっていうのを聞いてみたいなと思って。

石田さん

今こうしてテレビ局の皆さんが来て撮影したいと来られる。

小泉さん

うん。

石田さん

今はみんな(長島愛生園の仲間)が「それが当たり前」、むしろ義務めいて「自分も語らないと」と思っている。昔はどうか?と言ったら全く反対で。人前に出る、ましてやテレビのカメラの前に出るなんて「とんでもない話だ」ということで相手にされなかった。僕らは自治会の役員をしていて、あるとき「なんとか協力してほしい」ということで、何人かに声を掛けて「撮影に協力したってくれんか?」と頼んで。そしたら「協力しよう」となった。ところが、実際に撮影されてテレビに映ったら「見せ物じゃないのにー!」ってみんなが自治会に怒ってきた。「なんで許したんだ?」って。というのは、そのときの撮影は「指が途中から切断されている」とか「指が曲がっている」というのをアップで映していた。そうすると「そんな興味本位で映しにくるな!」って怒った。あげくに「自治会はそんなことも知らずに受け入れたんかー!」って。

小泉さん

うーん。

石田さん

それでもね、2度3度はしぶとく構えたんよ。ところが何回取材に来ても、依然としてそのスタイルを変えなかった。それでとうとう事務所に来てもらって、やり取りしたの。そのときのやり取りで私は「参った」と思った。ディレクターの人が言ったのは「なかなか世間が理解してくれない後遺症、“指が曲がっている、どうして曲がったのか”、“口元がゆがんでいる、なぜだ”というところをしっかり世間の人たちに知ってもらう、それが一番大きなことじゃないのか?」と。「何とかそうした偏見を無くすためにも、その箇所を映して社会に訴える。決して偏見・差別の対象じゃないということを国民に知らせるために撮った。決して見せ物じゃない」って言うんですよ。さっきの話じゃないけども、見せたくないものを見せないといけないこともあるわけね。

小泉さん

うんうん。

石田さん

「見せたくない」ということでしまい込むんじゃなくて、見せたくないものこそ見てほしいと。逆の心理やね。それを見て真に理解されることにつながっていく。上っ面の「あ、分かりました!」じゃなくてね。だから、あのときのスタッフの構え方にむしろ頭が下がった。まさにその通りだということで。それから私は窓口で積極的に動いた。後遺症のひどい人たちにもお願いをして、全部協力してもらった。そしてなんとか今のような状態になった。

答えづらいことほど尋ねてほしい

(語り部活動を行う石田さん)
石田さん

これ昨日ね・・・本当にある人に答えたことなんだけど、若い高校生がいろいろあれこれと聞くけども、若い子だけにどんな失礼なことを聞くかもしれないと。「そのへんのところを石田さん、よろしくお願いしますね」って言われて。私は「いやいやそれはとんでもない話です」と。「むしろこちらが臨むところだ」と。なぜかと言ったら、人様は“これを聞いたらちょっと失礼かな”とか“傷つけるんじゃないかな”・・・そういうことでしまい込んでしまう。「答えにくいところを尋ねてくる、これはある意味で一番嫌ではあるけども、一番答えがいがあるんだ」と。だから、えげつないほどつらいことになるかもしれないし、“それでもやっぱり聞きたい”ということであればね、私らも隠すんじゃなくて、一番分かってほしいから「言わないとだめだ」ということでやってるから。今は何の隠しごとも無いわ、うん。

小泉さん

自分でもあれですよね、出すのが難しい場所というか、自分で本当は触れたくないけど、触れないと周りが変わっていかないこともたくさんあるので、私もそれを考えながら語り部を改めて続けていきたいのと、そうなったとき、今まではなんでそういう気持ちにならなかったのかというとたぶん、すごく寂しかったんだと思うんですね、語り部として。自分1人で立ち向かうのは寂しいと思っていたんですけど。石田さんが遠く離れた地でも「そういう思いを持って頑張っている」っていうのがすごく分かったので、「1人じゃない」っていうふうに・・・たぶん帰って次に語り部をするときにはすごく心強く思えていると思うので。

石田さん

いやぁ、うれしいなあ。

小泉さん

はい。すごくうれしいです。

石田さん

ありがとう。ありがとう、本当に。

小泉さん

なので、ちょっと今までよりももっと、本当にこう・・・地域と自分と、あと来てくれる人と向き合っていこうっていうふうに思いました。

石田さん

そうやね。やっぱりなあ、小泉さんなあ、誰よりもなあ、自分が自分を信じないかんわ。 “自分にはできるんだ”というような、そういう自信。うん。それは大事だと思うよ。やっぱり自信がなあ、ことを押し進めてくれる。自信が無かったらもう少しも動かない。だから、自信は無いようだけども「まずやっていこう」「やってみよう」、そしたら、やりながら自信がついてくる場合もあるし。

小泉さん

うんうん。

語り続けた先にあるもの

石田さん

あのねえ・・・「これはぜひともお話したいな」と思ったのはね、本当にごくごく最近のことなんだけど「自分はこうして大勢の前で話をさせてもらっていて一番大事なことは何だろうな」ということを思ったときに、今まで感じなかった、あるいは全く気づかなかったということで“大発見した”ように思えるのが一つあるんです。自分がつらい、情けない思いをいっぱいしてきた、それが土壌になって今度は第三者、全く知らない他人さんが“あること”で悩んでおられる、苦しんでおられるといったことが、今までやったら「あぁそうかな、そうかな」って、冷静に聞いてあげることはできたんだけど、 “その身になる”っていうことはなかなかできなかった。ところが、いつの間にかジーンと“受け止める心”ができてきたなと思った。

小泉さん

うんうん。

石田さん

というのは、「とてもつらい」「どうしていいか分からないほどつらい。情けないんよ」と言ったそのことがものすごい重さを持って自分の心の中に入ってきているんだなと。そういう心がいつの間にか自分にできてきたのは、やっぱり長い間務めてきた1つのご褒美のようにね、私には思えてならない。だから、今まで「聞いてもらおう」「聞いてもらおう」と一生懸命だったけど、いつの間にか他人の痛みを少し感じ取ることができた。そういう人間に自分は少しなりつつあるんだということが喜びになっていますね。だから、逆に「語り部をさせてもらってありがとう」という感謝の気持ちが湧いてきていますね。

(語り部活動を行う小泉さん)
小泉さん

私はまだ2年間と言ってもそんなに回数は重ねていないですけど、でも自分自身が成長するために語り部を続けるっていう視点は今までなかったので「何か自分にできることをとにかくやって、相手に与えなきゃ」みたいな。“私はいつまで続けるぞ”とか全然考えずにできることをと思って始めたんですけど。石田さんのお話を聞いて「ずっと自分が最期を迎える瞬間まで、できる限り続けたいな」っていうふうにすごく思って。

石田さん

ぜひぜひ頑張ってください!

小泉さん

ありがとうございます。

2人

ありがとうございました!

(対話 2023年7月)

この記事の執筆者

福島放送局 アナウンサー
武田 健太
福島放送局 ディレクター
佐野 風真

みんなのコメント(3件)

感想
イオリンゴ
女性
2024年3月27日
これからもがんばれ!
感想
ほののん
19歳以下 女性
2024年3月26日
文字から、複雑な気持ちがたくさん伝わってきました。
感想
みーくん
19歳以下 男性
2024年3月3日
わかりやすくて良かったです