地球上から核兵器が無くなるまで 死ぬまで語り続ける
「原爆で幽霊のようになった人たちを見た瞬間から、話をみんなにしなきゃならんと思った」
長崎市で語り部をしている築城昭平さん。
18歳のときに被爆し、現在96歳。
これまで自分の体験を話した回数は1200回を超えます。
ことし、加齢のため歩くことができなくなり、車いすでの生活になりました。
それでも地球上から核兵器が無くなるまで、「死ぬまで語り続けたい」といいます。
原爆が投下されてから78年。
築城さんがいま、若い世代の語り部に伝えたいことは。
みんな幽霊みたいになっていた… 78年前の“あの日”
長崎市で生まれ育った築城さん。1950年代から徐々に被爆の記憶を語り始め、1970年代からは本格的に語り部として活動。これまで修学旅行生や企業の人たち、観光客などに原爆や戦争の体験を伝えてきました。
今回築城さんの元を訪ねたのは、宮城県石巻市で震災の語り部をしている永沼悠斗さんです。語り部の大先輩である築城さんに、どんな思いで活動を行ってきたのか、長く続けるために必要なことを尋ねてみたいと考えていました。
築城さんは優しい表情と柔らかい語り口で、いつものように地図を用いながら永沼さんに語り始めました。
長崎師範学校という学校があったのですが、その横に寮があって、私は当時その寮で生活しておりました。戦争の終わりごろになると空襲やら何やらで、もう勉強なんかできない状態で工場に行っとったんです。昼勤と夜勤の2班に分かれて1週間交代で12時間労働をやっとったんですけれども。もうご飯なんてなかったんです。かぼちゃがチビっと。それだけで、あともう少し長く戦争が続いたら飢え死にしとったでしょうね。それでも「頑張らないかん」って歯を食いしばって苦しい中で働いておったんです。
なるほど…。
原爆投下の前日、8月8日は夜勤やったんですね。夜勤で工場に夕方から行って。9日の朝を迎えて、そのまま帰ってきて寝とったんです。ところが急にガガーッっていう音で叩き起こされて、体が飛ばされて壁にぶつけられて。「しまったー!すぐ隣の部屋に爆弾が落ちた」と思ったの。立ち上がったら真っ暗でどこがどこやらわからん、そこからぼんやりどうしようどうしようとウロウロしとったら、隣に寝とった友達と目が合ったんです。1メートルぐらいのところに見えたもんだから「おー!」って言ったら、真っ赤になってるの。びっくりして「お前、やられとっぞー」って言うたら、友達も僕に「お前もやられとっぞー」って言うの。僕も真っ赤になっとったそうなんです。そう言われてみると、もう血が流れていることがわかりました。
へぇ…。
それから近所の人とも別れたっきりですけど、おそらくみんな一週間以内には死んでしまったと思います。もう本当に幽霊のようになっとったんです。人間の格好をしとるだけ。顔も何もめちゃめちゃ、僕はたまたま頭から布団を被ってて、それで助かったの。もし布団を被って寝ていなかったら、もう顔も何もめちゃめちゃになっとるだろうと思います。
初めは語ることを許されなかった被爆の体験
実際にこのお話をし始めたのはいつからなんですか?
原爆で幽霊のようになった人たちを見た瞬間から「これはもう続けなきゃならん」「話をみんなにしなきゃならん」と思ったんですよ。ところが戦争に負けて進駐軍が入って来たら、いわゆるプレスコード、「原爆のことは話しちゃならん」と言われて、「あ、そうか」と思って原爆の話はずっとしなかったの。
しなかった?
だから本当に「原爆の話をしなければいけない」と思いだしたのは、日本が独立してからですね。1952年ぐらいです。「僕らも実際に見たことを話さなきゃいけない」そう思ったんです。ただ、話す機会は最初からたくさんあるわけじゃない。だんだん修学旅行生から「話をしてくれんか」って言われてホテルとかで話をしとったんです。1980年代に「平和推進協会」ができてからはいまのように組織的に語るようになった。
被爆された当初から思いを持たれていたと思うんですけど、実際に来る方にお話しして、どう感じられていますか?
子どもたちが主ですけれども、よく理解してくれます。「初めて聞きました」「授業でもこんな具体的な話は聞いていなかった」と積極的に理解してくれます。
「地球から核兵器をなくしたい」 語り続ける原動力は
東日本大震災を経験した永沼さんは、津波で弟と祖母、曾祖母を亡くしました。自分が生かされた意味を考えたときに、語り部として活動することを決意。震災の経験やそこから感じた教訓を伝えています。
築城さんはなぜ70年もの間、語り続けることができたのか。その裏にある思いを尋ねました。
私の話をすると、東日本大震災で被災したのが高校生のときなんです。私もふだん語り部をしています。震災から5年ぐらいしてから初めて話すようになって。私は曾祖母と祖母と、当時小学校2年生の弟を津波で亡くしたので“生きた証し”ではないですけど、伝えなければいけないっていうことを強く思って話し始めたんです。やっぱりこれから先の子どもたちに伝えていくというのは、私たちもすごく大事だと思っているんですね。
そうなんですよね。やっぱり語り部はしないと忘れられていくと思いますね、世間的に。
それをもうすでにお話をずっとされてきたので、そこにどんな思いがあったのかっていうのをすごくきょうは聞きたくて。実際この活動っていうのは核兵器が無くなるまでは終わらない?
そうですね。
続けるために大事なこととか、ずっと活動をされてきた中で大変なこととか、続けるのにつらいなと思ったことはありますか?
ときどき何回も話をしなきゃいけないときが出て、そのときはちょっとキツいなと思ったりしたんですけども、あんまりつらいという思いをしたことはなかった。
やっぱり“伝えたい”という思いが?
そうなんですね。
(語り部をしていた仲間が次第に亡くなって)いま、僕ひとりなんですね。95歳で(※対話時点)。できるだけみんなに話をすることで世界の人が原爆の悲惨さを知ったら、「核兵器を使う」「核兵器を持つ」ということが誤りであるということは世界的にわかってくると思うので。飛行機とかテレビとかを発明して楽しい生活、文化的な生活を送るようになっておるんだけれども、人間が人間を殺す道具までどんどん発達してしまったんですね。それをやっぱり人間の知恵で止めていけば、止めることができると思うんです。だから僕は何とかして生きている間に世界中に話をして、原爆の本当の怖さっていうのをみんなが知ることによって、必ず地球から核兵器を無くすことができるということを信じております。
なるほど。その思いの一心でずっとお話をされてこられたってことなんですね。すごいなぁ。いままでどのぐらい話してこられたんですか?
1200回ぐらい。
1200回も!?へえ!うわぁ…私も頑張ります、本当に。
私たちも、同じ宮城県で生まれ育った子どもたちの中でいま、小学6年生の子どもたちは震災後に生まれた子たちなので、もう全然知らないんですね、地震だったり津波のことを。体験していない子どもたちに伝えるのはすごく難しく感じて。
やっぱり本当の気持ちになるまでが大変だと思います。そういう意味では難しいですね。
本当に被爆をしていない、いま例えば小学生だったり中学生の子どもたちが、話をしたいと思ったときに話していいものなんですかね?
やっぱり、やらなければ話が消えてしまうと思いますね。もう永遠に話してもらいたいと思います。
きょうそのお話聞けて、私の未来を歩いておられるような感じがして、すごく勇気をもらいました。
世界中の人に“自分の言葉”で伝えたい
少しでも多くの人たちに自分の言葉で伝えたいと考える築城さん。90歳を過ぎてから新たな挑戦を始めました。
英語の勉強を始め、日本にいる留学生に向けて講演したり、オンラインでアメリカにいる学生に発信したりしています。
英語でも講話をされてるって…。
(笑)世界に話をしようと思うもんだから。
いやぁ、すごいな。
(笑)英語では少ないです、まだ。20回程度。
でも20回。
今朝も英語で話してきました。
えー、すごい。全て自分で英語に翻訳して伝えると?
ええ。
ほんと元気なうちというか、生きている限り伝え続けていこうと思っているので、築城さんを目指して頑張ります。
やっぱりこの話をしなくなったときに忘れられていくんだから、長生きされて永遠に話を続けていただきたいと思います。
ありがとうございます。