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亡くなった姉に背中を押されて・・・ 妹が12年かけてかなえた夢

「ここまで頑張ってきたよ、と伝えたい。やっぱり心の支えなので」

女性はこの春、そう誓って新社会人としてのスタートを切り、夢だった仕事に励んでいます。

菊池来実(くるみ)さん、22歳。「心の支え」と語るのは、東日本大震災で亡くなった姉の歩(あゆみ)さんです。

大好きだった姉を失い、悲しみと喪失感を抱いてきた12年間。それでも夢へと背中を押してくれたのも姉の存在でした。

(報道番組センター ディレクター 津田恵香)

「あゆ」と「くーちゃん」 親友のようだった仲よし姉妹

山形県酒田市で生まれ育った来実さん。16歳上の姉・歩さんは、いつも優しく包み込んでくれるかけがえのない存在でした。

お互いを「あゆ」「くーちゃん」と呼び合い、けんかをしたことは一度もありません。来実さんが話すたわいもないことを笑って聞いてくれ、友だちとけんかしたときは親身に相談にのってくれました。

8歳頃の来実さんと姉・歩さん
菊池来実さん

「いろんなことを話してもノリがよくて、話すことにいつも笑ってくれていて。学校のこととかで相談をすると、『そっか、そっか』と聞いてくれるだけでも心落ち着くことが多くて、ありがたかったですね」

8歳頃の来実さんと姉・歩さん

大好きだった姉との突然の別れ

2011年3月、来実さんが10歳、歩さんが26歳のとき、姉妹は突然の別れを余儀なくさせられます。東日本大震災です。

実は震災の半年前、結婚して宮城県女川町に住んでいた歩さんは、酒田市の実家に戻り、長男・凛君を出産し、来実さんと一緒に過ごしていました。

姉・歩さんと長男・凛君

女川町に戻った歩さんと凛君。その2か月後に震災に遭いました。

歩さんと連絡が取れなくなり、家族は女川町に探しに行くことになりましたが、余震も多く危険なため、小学生だった来実さんは酒田市の叔母の家に預けられました。

家族は車で女川町に向かい、歩さんと凛君の姿を探し続けました。歩さんたちが暮らしていたアパートの4階の部屋には、天井近くまで津波が押し寄せたあとが残されていたといいます。

震災直後の歩さんのアパート

家族の帰りを叔母の家で待っていた来実さん。来実さんの叔母はレンタルビデオ店で借りてきたお笑いのDVDを流して、来実さんが心配しないように、できるだけ震災のニュースに触れさせないようにしていたといいます。

しかし、来実さんは女川町から帰ってきた家族の様子を見て、重苦しい空気を感じたといいます。

菊池来実さん

「消息が分からないということを誰かに言われたことはなかったんですが、自然と分かった感じだった気がするんですよね。家族が女川町から帰ってきたときの雰囲気がどんと重くなった感じがして。小学生でよく分からなかったけど、あゆ(歩さん)に何かあったのかもしれないと感じていました」

そして震災の2か月後、歩さんは女川町の海岸で見つかりました。

菊池来実さん

「なんかどんな状況か頭で理解していなくて、もうあぜんとした感じ・・・。信じたくなかったです。現実のことだと思いたくなくて、現実逃避していたような記憶があります。また会えるはずだって心のどこかで思っていました」


津波が押し寄せた歩さんのアパートの部屋

家族は、地震直後に避難する2人を目撃した人から、当時の様子を聞くことができました。

歩さんは高い場所を目指して、石垣を登ろうとしていました。石垣に手をかけましたが、凛君を抱いたままでは登りきれず、そのうちに津波が押し寄せてきました。そのとき、歩さんは「赤ちゃんを絶対に離さない」「私はこの子を離さない」と叫んでいたといいます。

凛君の消息は今も分かっていません。

あの日から 母にも友人にも姉のことを話さなくなった

震災のあと、来実さんは友人や周囲に、大好きだった姉のことをほとんど話さなくなりました。小学校で兄弟姉妹のことを聞かれても「年の離れた姉がいる」とだけ話し、それ以上深く聞かれないようにしていたといいます。

実家の居間にある歩さんと凛君の写真

家では、テレビCMで赤ちゃんの映像が流れるとチャンネルを変える母・真智子さんの姿を見て、震災や姉のことを家族や周囲にあまり話さないほうがいいと思うようになっていました。

菊池来実さん

「震災のことを話すと、友達も暗くしてしまうかもしれない。だからあまり出さないようにしていました。(お母さんには)なんか触れず、そばで見ていたみたいな。触れるともっと悲しみが深くなっちゃうから。そばで見守っていた感じ」


来実さんと母・真智子さん(2017年)

一方、母親の真智子さんも複雑な思いを抱いていました。

できるだけ明るくして、笑わそうとする来実さんに感謝しながらも、歩さんと凛君のことを語ることが少なくなった来実さんに、「あまり思い出さないのだろうか?」と、本当の胸の内が分からなかったといいます。

母 真智子さん

「震災のとき10歳だったので、いろんなことを出さないで、震災のことや歩と凛のことを話さずに過ぎていました。くーちゃん(来実さん)には、私の気持ちを押し付けてはいけないと、悲しさだったり思い出を共有できないなあと思うこともありました。」

亡くなった歩さんに支えられて つかんだ夢

高校生となり、進路を決める段階となった来実さん。人間関係などで悩むことが多かったため、大学に進学しても同じような状況が続くのではないかと不安を募らせていました。

そんなとき、心の中で励ましてくれたのが、いつも自分の味方になって応援してくれていた歩さんでした。

「あゆ(歩さん)ならきっと見守っていてくれる」

来実さんは、幼いころから好きだったイラストなどを仕事につなげたいと、芸術大学への進学を目指すことを決めました。来実さんにとっては大きな挑戦でしたが、実技試験のために絵画の練習を続け、志望大学の合格をつかみました。

母・真智子さんとは、これまであまり話題にしてこなかった姉・歩さんと凛君のことを話す機会も増えていきました。「小学生になった凛君はどんな子どもになっているだろう?」そんな何気ない時間が流れるようになっていきました。

菊池来実さん

「子どものころとは違って、2人がいたらといろいろ想像することも多くなって、自分の思いを言葉にすることもできるようになったような気がします」

そしてことし3月、来実さんは大学を卒業し、ゲーム会社で新社会人として歩み始めました。

大学の卒業式 左:母 真智子さん 右:来実さん

来実さんの巣立ちは、母親の真智子さんにとっても一つの区切りとなりました。娘と初孫を亡くした深い悲しみのなか、まだ小学生だった来実さんを育てなければと張りつめていた気持ちが少し軽くなったといいます。

母 菊池真智子さん

「自分がしっかりしないと、という思いが必ずどこかにあって、だめになったらだめ、倒れたらだめ、病気になったらだめと過ごしてきた12年だったんです。だから娘が大学を卒業し、子育ても終わりで自分のなかの区切り、少し肩の力が抜けたような気がします。

くーちゃん(来実さん)に『最近何をしていても悲しくなるときがあるんだよ』と言うと『分かる』と言ってくれるようになったので、大人になったんだなって。2人のことをあまり話さないけど、くーちゃんなりの悲しみがあったんだなって。同じ人を思うけど悲しみ方は違うんだと思いました」

姉に「ここまで頑張ってきたよ、と伝えたい」

2023年、ことしは13回忌。

家族は、歩さんが見つかった女川町の海岸近くで法要を営みました。

女川町の海岸で行われた13回忌(2023年3月4日)

あの日から12年。来実さんには、歩さんに伝えたい思いがありました。

菊池来実さん

「(姉に)自分ここまで頑張ってきたよっていうのは伝えたい気持ちはあります。大学受験をしたときに一発で合格できたことと、就職で行きたい職種にいけたこととか、頑張ったよっていう感じがあって。それができたのも、やっぱり(姉が)心の支えなのかなっていう感じもありました。『おめでとう』って言ってくれる気がしますね」

心の中で歩さんに背中を押され、志望する職に就いた来実さん。入社から1か月たち、思うようにいかないこともあるといいますが、希望をもって進んでいます。

菊池来実さん

「自分で担当したゲーム作品を、誰かに楽しんでもらえることが目標です。これからも前向きに、せっかく今を生きているから楽しくありたいと思います」

みんなのコメント(3件)

感想
ナミー
2024年3月9日
私も姉妹でして。そうゆうことがあるとつらいということはよくわかります。       
悲しいですよね。
感想
陽菜
19歳以下 女性
2024年3月3日
私はまだ生まれてなかったけど、とても想像するだけで大変だったことがわかります。人をなくした悲しみは多くの人にはわかってもらえないと思います。
体験談
洋一
60代 男性
2023年5月21日
当日は、名古屋の事務所も大揺れで、食器棚もひっくり返る揺れでした。
テレビの画面の津波に立ち向かう漁船に、船を立てろ?!船を立てろ?!
と絶叫しました。
翌日は、現地の応援に行く仲間に1万円札を渡し、僕は現地に行けないけど
頑張って下さいと言いました。その後、メルトダウンの情報を聞きました。