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「今の自分」を、知ってほしい  わたし×中学時代のカウンセラー

東日本大震災当時、小学4年生だった髙橋京佳さん。出身は、宮城県南三陸町。11年前のあの日、地元の役場職員だった父・文禎(ふみよし)さんが、津波で行方不明となりました。当時、髙橋さんは自分の気持ちを誰にも言えず、胸の内にしまい込んでいました。
そんな髙橋さんの心の支えになったのが、カウンセラーの䰗目(くじめ)成美さん。中学時代の髙橋さんは、誰にも言えなかった葛藤について、䰗目(くじめ)さんにだけ明かしていました。

2022年2月、髙橋さんの中学卒業以来、6年ぶりに再会した2人。震災から11年となる今、髙橋さんが䰗目(くじめ)さんにどうしても伝えたかった思いとは・・・。

※今回、当時のカウンセリング内容に関する守秘義務などの観点から、まずは髙橋さん・䰗目(くじめ)さん2人だけで話し合う時間を設け、その後取材をさせていただきました。

(クローズアップ現代+ ディレクター 大森暁彦)

髙橋 京佳さん (たかはし きょうか・21)
宮城県南三陸町出身。震災当時、小学4年生。父が津波にのまれ、今も行方不明。
現在は仙台市内の大学で、福祉関係の勉強を続けている。
䰗目 成美さん (くじめ なるみ)
宮城県栗原市出身。現在、神奈川県内でスクールカウンセラーをしている。震災の2年後から3年間にわたって、当時中学生だった髙橋さんのカウンセリングを担当した。

6年ぶり 再会した2人

左:䰗目(くじめ) 成美さん                 右:髙橋 京佳さん

中学を卒業して以来の再会となる、髙橋京佳さんと䰗目(くじめ)成美さん。「成長した、今の自分の姿を知ってほしい」という髙橋さんの思いから、ディレクターが間を仲立ち。現在、神奈川県内でスクールカウンセラーをしている䰗目(くじめ)さんのもとを、髙橋さんが訪ねました。

䰗目さん

何年ぶりかって覚えている?

髙橋さん

6年ぶりだと思います。

䰗目さん

6年ぶり?

髙橋さん

中学3年生。

䰗目さん

3年生の、そうだね。

中学時代の髙橋さん
髙橋さんのカウンセリングをしていた頃の䰗目(くじめ)さん

2人が出会ったのは震災の2年後、髙橋さんが中学1年の時のことでした。
少しずつ、髙橋さんは䰗目(くじめ)さんに心を開き、胸の内を話すようになっていきました。

髙橋さん

1時間ぐらいでしたっけ、いっつもカウンセリングって。最初は周りの目が気になったりもしました。

䰗目さん

うん。カウンセリングが難しいのは、話して、またさ、友達のところにね、戻っていかないといけなかったりとかもするし。で、あんまりこう、ずーんってなり過ぎるとね、またその後の授業が大変だったりするからね。

髙橋さん

はい。でも、やっぱカウンセリングが終わった後は、ああ、話せた、すっきりしたっていう感覚で。あと何か…、成美さんすごいこの見た目からして優しいじゃないですか。だから、何かすごい心を許せたというか、すーっと何か自分の思いがぽんぽんぽんぽん出てきて…。すごい話しやすかったですね。

䰗目さん

本当?うれしいわー。

髙橋さん

本当に。何か安心、何か自分に話せる場所があるっていう安心感がすごい当時はありましたね。ここでなら自分の思いを吐き出せるっていう、うん。

お母さんのことが、心配だった

髙橋さんの父・文禎さん。津波で行方不明になった
髙橋さんの母・吏佳さん

中学時代の髙橋さんは、自分の悩みや葛藤を、普段は口に出さずに過ごしていました。
頭にあったのは、母・吏佳(りか)さんのこと。父・文禎(ふみよし)さんが津波で行方不明になってしまったにもかかわらず、娘の前で涙を見せず、明るく振る舞う母親のことを、子ども心に心配していたのです。

髙橋さん

悲しい思いとか寂しい思いをされるのが嫌だったから、お母さんには。お母さんはずっと笑っている人だから。

䰗目さん

そう、そうだね、うんうん。何かそんなふうに京佳さん思っていたかなって感じるな、うん。何でも、寂しければ寂しいって言ってくれる人だったら、もしかしてそれをストレートに捉えられるけど、何か笑っているけど本当に大丈夫なのかな、強がってないかなみたいな思いもあったのかもね。

髙橋さん

すごい、はい。ありました。

䰗目さん

京佳さんがお母さんのことを心配しているっていうのは、お母さんはあまり知らなかった?

髙橋さん

多分そうだと思います。

左:髙橋 京佳さん            右: 䰗目(くじめ) 成美さん

中学時代、髙橋さんは䰗目(くじめ)さんに、ある葛藤について繰り返し相談していました。それは、卒業後の進路について。当時、髙橋さんの志望していた高校は、地元・南三陸町から離れたところにあり、通うためには、実家を出る必要がありました。しかしそれは、母を地元に置いていくことを意味していました。

髙橋さん

やっぱり進路を決めるときに、お母さんとおばあちゃんを地元に残しておくのはどうかなっていうのは、自分の中ですごい葛藤していたのが印象強く残っていて。自分だけ、ぽんと違うところに行くのは、さすがになと思うのと、あとお母さんとおばあちゃん寂しくないかなって。ここに残ったほうがいいのか、それとも自分の夢を追ったほうがいいのかっていう。

䰗目さん

うんうん。多分、直接お母さんに行かないでくれとか、そういうことを言われているわけでは全然ないけど。何か京佳さん自身の気持ち的に、それでいいのかな、みたいなね。

髙橋さん

はい、ありましたね。でもお母さんには、あんまり深く相談とかはしなかったです、進路については。

䰗目さん

何て言っていいかもね、分かんなかったりとかね。

髙橋さん

うん、そうです。

䰗目さん

何かあと、言うことで気まずくなっちゃったらどうしようとか、いろいろ考えるよね、家族だとね。何かこれは勝手な私の思い込みだけどさ、京佳さんに限らず、何となく南三陸の人たちって、何だろう、ストレートに寂しいよとか、何かそういうのあんまり言わない人が多いかなっていうふうに、何か当時すごい感じていた。

髙橋さん

ああ、そうかも。そうかもしれないですね。

䰗目さん

何かそれは南三陸の独特の愛情表現というか、うん、いうふうに思っていた。一番近い人だから余計にストレートにはなかなか言いづらいところはあるよね。

髙橋さん

何か近いからこそのあれですよね。

高校時代に打ち込んだソフトボール 左は母・吏佳さん

その後、髙橋さんは思い悩んだ末に、地元から離れた高校への進学を決断。中学卒業後、母・吏佳さんのもとを離れました。
ずっと、母の胸の内を心配してきた髙橋さん。そうした中、高校で始めたソフトボール部の活動が、一つの転機になったといいます。

髙橋 京佳さん
䰗目さん

高校は、寮生活だったんだっけ?

髙橋さん

えーと、お兄ちゃんたちも(実家を出て)いたので、一軒家借りて。あと母方の祖母が一緒に住んでくれていて。で、当時お母さんとおばあちゃん置いて、志津川を離れるのはどうかって言っていたじゃないですか。でも、やっぱり高校に入って、やっぱりソフトの試合がほとんど毎週あって、で、そのたんびにお母さんも応援に来てくれて。

䰗目さん

うんうん、そうかそうか。ああ、じゃあ実際(高校へ)行ってみたら、そんなふうに(母のことを)心配しなくても大丈夫だったって、そんなふうに思えたんだね。

髙橋さん

はい、思えました。で、お母さんから、ソフトの応援している時間がすごく楽しいって(言われて)。

䰗目さん

ああ、そうかそうか、よかったね。

髙橋さん

すごいうれしかったですね。多分、お母さんも寂しさはあったと思いますよ。でも何かやっぱりそれ以上に(私が)ソフトしている姿、うれしかったのかなって思ったりしています。

䰗目さん

うん、うん。そうかそうか。多分お母さんね、京佳さんの、子どもが頑張っている姿を見られたのがすごくうれしかったんだろうね。

髙橋さん

うん。高校のソフトも、お母さんの存在が大きくて。はい。お母さんがいるから頑張ろうとか思って。すごい力になっていましたね。

䰗目さん

そうなんだ。その頑張っているのがお母さんにとってもすごくうれしかったし、それがまた京佳さんの力にもなったんだ。

「成美さんに出会ってなかったら、今のこの私はなかった」

いま、仙台市内の大学に通う髙橋さん。大学の友人たちと。

いま仙台市内の大学で、福祉関係の勉強をしている髙橋さん。将来は、障害がある子どもたちに関わる仕事に就きたいと考えています。
人生の目標を見つけた今。髙橋さんには、どうしても䰗目(くじめ)さんに伝えたい思いがありました。

髙橋さん

結構、何か障害がある子どもたちに関わる仕事にも興味あって。中3の終わりぐらいから、ちょっと頭にあって、ずっと子どものことを勉強したいなって思ってて。

䰗目さん

へえー。あ、それ意外だった。あんまりその印象がなかったけど。じゃあ結構早くっていうか。

髙橋さん

早いうちに、はい。子どもと関わる仕事に就きたいなって。

䰗目さん

じゃあ将来は保育士さんとか、そういうの?

髙橋さん

将来はやっぱり障害がある子どもたちと関わるお仕事に就きたいなっていうのは思っています。

䰗目さん

ふーん、そうなんだ。

髙橋さん

こう成美さんとかに話聞いていてもらったのもあって、そういう、私も誰かの、子どもたちの支えになりたいなって思うのもきっかけの1つなので。はい。

䰗目(くじめ) 成美さん
髙橋さん

うん。いや、でも本当、当時の私が一番、震災のこととか、家族のこととか話せる存在の大人が、成美さんだけだったので、本当、何か大きな存在って感じでした。救われていました。はい。本当自分の中で大きい存在というか、当時の成美さんに出会っていなかったら、今のこの私はなかったんじゃないかってぐらい本当に、はい、何か感謝でいっぱいです。

䰗目さん

そういうふうに思ってくれていたのが何かすごくうれしい。多分ね、(当時の)京佳さんにとったら話ししづらいことでもあったと思うから。カウンセリングの時間がね、何か大変な時間になってないかなっていうのはすごく心配しながらお話を聞いていた覚えがあるので。うん、何かそんなふうに話せてよかったみたいな気持ちで覚えていてくれたなら、何かすごくうれしい。私も当時は本当仕事も始めたばっかりだったから、だからすごい、何だろう、一生懸命っていうか真摯に向き合わないとっていうふうな気持ちで話をしていたから、だから、こうやって10年近く経って、何かあのときのことをいい思い出として京佳さんが覚えていてくれたのは、何かカウンセラーとしてはすごくうれしいなっていうふうに思うな、うん。

手を、合わせられるようになった

髙橋さん

3月11日、もう(地元での)慰霊祭に行って、手を合わせて、それも行けるようになったの、ここ最近で…。本当それまでは行きたくないって感じで、お母さんと、おばあちゃん、お兄ちゃんが行く感じだったんですね。で、私も去年あたりかな、去年に行って、はい、手を合わせることができて。

䰗目さん

今、その手を合わせるときってどんな感覚?

髙橋さん

何かやっぱり頑張っているよっていうのを伝えて、何か本当見守っていてねですね、一番。

䰗目さん

うんうん、そっかそっか、うんうん。そういう気持ちで手を合わせられるようになったんだね。

髙橋さん

はい。また何かいつか会える日が来たら、ちゃんと報告、いい報告ができるように何か日々過ごしている感じ。

䰗目さん

そっかそっか。ね、何かそういうふうに感じられているんだな、今そういうふうに思えているんだなっていうのは、本当に知ることができて、私もうれしいなって思った。でも、京佳さん、そうやって自分のタイミングでそういうふうに、多分人との出会いの中でね、話してもいいかなとか、何かもうそろそろ手を合わせに行ってもいいかなとか、何かそうやって自分のタイミングで選べられたことがすごくよかったなっていうふうに思った。多分人によって、全然回復とか話せるようになるタイミングとかって違うと思うから、何か遅過ぎるとか早過ぎるとか、そういうのってきっとないと思うしね。京佳さんが自分の心のタイミングっていうか、そういうので選べて、今の時期っていうふうになれたのかなって。それがカウンセラーとしてはすごくうれしいなっていうふうに思いました。

髙橋さん

やっぱこう、受け入れることが何かできた、震災のこととか、手を合わせることで、自分の気持ちと何かお父さんの気持ちというか、改めて手合わせて通う何かがあるんじゃないかなって思ったりしています。

クローズアップ現代+ 「東日本大震災から11年 今だから話せる“あの日”のこと 家族の対話」

髙橋 京佳さんを取り上げたクローズアップ現代+です。(2022年3月2日放送)

東日本大震災で被災した子どもたちが、胸の内にしまい込んできた思い。
「家族を心配させたくなかった」「傷つけることが怖かった」
10代半ばや20代に成長した今、初めて家族に打ち明けました。
震災から11年を経て行われた家族の対話。再び歩み始める姿を見つめました。

東日本大震災11年 特設ページはこちら

東日本大震災が起きた2011年3月11日から11年。
NHKは今年も、被災地・東北の「これまで」と「これから」、地域の人々の思い、震災を「忘れない」ことの大切さなどを、さまざまな視点から番組を通じてお伝えします。

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