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「10年経っても、家族は“6人の円”かな」|わたし × “保健室の先生”

東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」。
「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

東京都内で服飾関係の仕事をしている福士結衣さん(24)。岩手県の沿岸部・山田町の出身で、中学1年のときに被災し、母と祖父母を亡くしました。その後ふるさとを離れましたが、いまも「家族のことを話せる唯一の存在」という人と、成人式以来3年ぶりに再会しました。その人とは、小学校時代の養護教諭。パソコンのモニター越しに2時間ほど語り合いました。

(報道局 社会番組部 ディレクター 笹川陽一朗)

福士 結衣さん (24)
岩手県山田町出身。東日本大震災の津波で母・啓予(ひろよ)さん (当時44歳) と、父方の祖父・庸悦郎さん (当時75歳) 、祖母・正子さん (当時71歳) を亡くす。地震発生時、結衣さんは高台にある中学校にいた。震災直後、県内陸部に引っ越す。
村上 貴美子さん (63)
岩手県の養護教諭として、2013年3月まで、福士さんの母校である山田町立織笠小学校に勤める。その後、釜石市立鵜住居小学校に異動し、2016年3月に退職。現在は釜石市を拠点に、被災地に暮らす子どもたちの相談やサポートに取り組んでいる。

再び会えるって“幸せだね”

2018年1月の成人式 左が福士さん、右が村上先生
福士さん

久しぶりです。きょう、お顔を見るのが楽しみだなって。

村上先生

結衣ちゃん久しぶり。ほらほら、気付いてよ。(首元を指さす村上先生)

福士さん

ほんとだ、プレゼントしたネックレスつけてる!ありがとうございます。

村上先生

この結衣ちゃん手作りのネックレスをプレゼントしてくれたときに「必ず来る幸せ」って、メッセージも一緒にくれたじゃない?これをつけてると私も幸せな気持ちになれるんだよ。結衣さんとの出会いって、そうそう、私が織笠小学校に転勤したときだから、結衣さんが小学校5年生のときだよね。覚えてる?

福士さん

小学校で一緒にいた時間は、もうちょっと長い気がしていました。

村上先生

でしょ。そのときは保健室の先生と生徒だったんだけど、なんと結衣さんが中学校に進学しても、私に手紙を書いてくれているんですよ。きょう持ってきたこの手紙には「文化祭に来てください」っていう案内が書かれているよ。そしてこの平成23年の1月の年賀状には「来てくれてありがとう」になっている。こうやって、きょうまでつながって、あなたに再び会える幸せ、出会い。すごく嬉しかったから、「ありがとう」って私は言いたくて、きょう来ました。

あの時“つながり地図”で心を聞いてくれた先生 だからいま話したい

小学5・6年の2年間、同じ校舎で過ごした2人。このころ、福士さんは学校でたびたび頭痛や腹痛を訴え、保健室に村上先生を訪ねていたといいます。中学校に進学した福士さんが、震災直後に内陸部に引っ越したと聞いた村上先生は、そのとき感じた心配な気持ちをいまも覚えていました。

村上先生

転校して行ったときから、ずっと心配していたのね。転校して、どうでしたか?

福士さん

何て言えばいいんだろう…説明するのが難しいですね。震災が起きて、あっという間に転校せざるを得ないみたいだって。しょうがないなと思っていました。寂しかったけど、中学校でいちばん仲良くなった子は陸上部で一緒だったし、大会とかで会えるから大丈夫だろうって思ってたけど、やっぱり転校したらしたですごい寂しくて。そういう気持ちは話せなかった。

村上先生

こうやって結衣さんと話していると、保健室いたときの5年生の結衣さんと一緒にいるみたいだね。

福士さん

変わってないですね。

村上先生

小学校5年生のとき、結衣さんが保健室に来て、いろいろと気持ちを教えてくれたのを、私覚えてるんだよ。結衣さんが「お腹が痛い」とか「頭が痛い」って来て、気になったから「何か書いてみない?」って言って、こういう“つながり地図”っていうのを書いてもらったんだよね。まだ私、大切に持ってるんだ。

福士さんが小学5年生のときに書いた“つながり地図”

つながり地図は、村上先生が保健室で子どもの“心の健康状態”を知る手掛かりとして使っていた地図。家族や友だちだけでなく、モノや場所、ペットや思い出など、子どもがどんなつながりの中で日々を過ごしているのかを子どもと一緒に整理し、可視化することができます。

村上先生

結衣さんは、一つの円で囲って“家族”って書いてね、お母さん、お父さん、弟、おじいちゃん、おばあちゃんを書いているね。「どういうことなのかな?」って話を聞いていったら、「お母さんといると、楽しい、落ち着く、優しいと感じる。けど、うるさい」って書いてたんだよね 笑。うまく言葉で表したり、自分の気持ちを伝えるのって難しいもんね。だからきっと結衣さんはあのとき、“つながり地図”に書いて教えてくれたんだろうなって思うのね。(転校してからは)震災後の寂しいとき「あのね」って話せる人っていた?お母さんのこととかって友達に話してる?

福士さん

そういう話は全然しなくって…。話す機会がないから、全然、話さないです。

村上先生

いままで誰にも話さなかったの? そっか…頑張ったね。結衣さんが転校してから、会って話を聞く機会がなかったから、ずっと心配してたんだけど。顔を洗うことが、水が怖くてできなくなったって聞いたことがあって。恐怖とかあったんだなって。いまはそういう、恐怖のほうは大丈夫なの?

福士さん

水に入って泳ぐのは、あんまり好きじゃないんですけど、転校した中学校でプールの授業があって、もう1回も入らなかった。学校には全然配慮してくれなかった先生もいて、評価下げられたりして…。もう本当に嫌でした。中学校生活、本当嫌だった。

村上先生

そういうふうに、水が怖くて顔も洗えなかったり、プールに入れなかったりって、配慮が必要なのにね。入れない理由をちゃんと聞かないで成績を下げるっていうのは、ちょっとどうなのかな。でもなかなか、やっぱり分かってもらえないのかな。

福士さん

…(涙)

村上先生

大丈夫?ほんとは側にいて、泣いていいよって言いたいんだけど。泣きたいときは泣いていいよって。

福士さん

すいません…。泣くつもりなかったのに。

村上先生

今までつらい時とかあったと思うけど、くじけそうになっている時、結衣さんはどのようにして元気を取り戻せたの?陸上部は続けていたよね?

福士さん

陸上を続けられた理由は、正直転校してからは、自分より速い人がいっぱいいるし、自分が一番じゃない環境だったから、だから陸上部を辞めてもいいかなって思ったんですけど、中1のときまで、お母さんがずっと、陸上は側で応援してきてくれたから。私が頑張ってるのをお母さんが見てくれるのはそこしかないかなと思って、部活メインで中学校は乗り切った感じです。

村上先生

そうだったんだ。お母さんが応援してくれてることを続けたいって思いが、支えてくれてたんだね。 でも小学5年のときは、私に「お母さんウザい」って言ってたよね 笑。

福士さん

学級の人数が少なかったじゃないですか。周りの子のお母さんって若くて…。私のお母さんは、車は持ってないし、仕事もしてるわけじゃないし、他のお母さんと勝手に比べちゃって、それで勝手に嫌ってたんですけど。でもいまとなっては、私の見てた世界が狭かったなって思って、ちょっと悔しいなって思います。なんか、広く見て、比較しなくても良かったなと思って。でも、お母さんと撮った写真は一枚も残ってない。自分で撮った写真、自分の部屋に置いてあった写真だけあって、ちっちゃいころの写真とかは全部ないんです。

津波で流された写真 先生からのサプライズで

福士さんの自宅は、津波に流されました。それまでの思い出を収めた写真の多くを失いました。 そんな福士さんに、この日サプライズを準備していた村上先生。パソコンのモニター越しに1枚の集合写真を見せました。

村上先生

見える?

福士さん

うわっ、卒業式!

村上先生

結衣さんいるでしょ、その上にお母さんいるでしょ。これ送ってあげるよ。

福士さん

うれしいです。ありがとうございます。もう織笠小学校を卒業してからも、ずっと連絡を取りたいなって思った先生は、村上先生だったし、ずっと頭の片隅に、村上先生がいました。さっき見せてもらった“つながり地図”とか見て思い出したんですけど、家族のこととか話をしてるのって、たぶん村上先生だけで。中学校に行っても、保健室に行くことがけっこう多かったんですけど、割り切って話せるような先生ではなかったんです。村上先生って、本当にすごい人だったなってずっと思っていて。村上先生がいなかったら、私小5、小6がマジで嫌いだったんですけど、ストレスで本当に…。

村上先生

そういうのって、いま初めて話した?

福士さん

ですね。私、一時期、”保健の先生”になることを将来の夢にしてて。それは、村上先生の存在がきっかけなんですけど。いつからだろう、でも震災後とかだと思います。何でも話を聞いてくれる人が、たぶん当時いなかったから、村上先生の姿に憧れて、そう書いていたんです。けど結局は、全然違う大学の学部に入ったんですけど。そんなときもあったなと思い出しました。

村上先生

お仕事はどう?

福士さん

いまは古着屋さんの社員になりました。その他にも、ぬいぐるみを集めて、直したあとで売るようなこともしているんですよ。ちょっと昔のぬいぐるみを集めて。ぬいぐるみに囲まれるのがいま一番楽しいです。すごくかわいがっちゃうから、母の気持ちです。

村上先生

じゃあ、いま“つながり地図”を書いたら、ぬいぐるみが入るんだね。自分の表現したいことは、いっぱい持ってたほうがいいと思います。陸上にしても、アクセサリーや物をデザインしたり作ったりっていうのも、結衣さんの表現だよね。そういうのをこれからももっと作っていくと、元気になれんじゃないかなって。

いま改めて“つながり地図”は?

村上先生とビデオ通話で話をした福士さん
村上先生

10年たって、結衣さんにとっての“家族”って“つながり地図”にどう書くのかな。

福士さん

小学5年のときのそれと変わらない“6人の円”な気がする。

村上先生

おじいちゃんやおばあちゃんやお母さんが亡くなっても、家族はこのまんまだね。10年前と家族に対する思いは変わらない、すごいね。ちゃんと一緒にいるってことだよね。いまは、私と結衣さんは離れてはいるけど、私が保健の先生で結衣さんが生徒で、10年たったいま、真っ白な紙に、大切な人、大切なもの、大切なことを書くとしたら何かなっていうのを聞いてみたいな。今度いつか、新しい紙を渡すから書けたら書いてね。

福士さん

“つながり地図”を書いて送ります。

村上先生

書いて教えてね、そうだね。2018年の成人式で久しぶりに会って、3年たったのかな。またこうやってつながれて、そしてまたこうやって結衣さんと話せる。保健室で、小5のときに話して以来、ここまでゆっくり話したのは初めてだかもね。どこかで会ったり、手紙のやりとりをしたりしてるんだけど、やっぱり面とむかって話ができるっていうのはいいよね。だから、またつらいときとか、嫌なときとかは、寂しいなと思ったときは連絡下さいね。何もできないけど、話を聞いたり、もし行けたら行くから。じゃあ最後の締めは。結衣さんで。

福士さん

ほんとに何を言えばいいのか…。友達のこととか学校で何が楽しかったよとか話せるのって、家族の中ではお母さんだけだったんで、なんか、もう村上先生はお母さんみたいな存在なんで。そういう、日常の何の変哲もない、ふわっとしたお話でも送っちゃうかもしれないんですけど…

村上先生

頑張ってきた結衣さんのことを思うと涙が出るよ。話してくれてありがとう。きょう何がおいしかったとか、きょうは誰にこんなこと言われてムカついたでもいいし。あとは空が晴れて夕焼けがきれいだったとか、そういうことでもいいんだよ。メールちょうだい。手紙でももちろん。私もするから。ごめんね、なんかいっぱい泣かせちゃって。なでなでしてあげたい。

福士さん

もっと泣いちゃうんで、大丈夫です。

文集に込められていた 母の思い

対談の翌週、私たちに、福士さんと村上先生から連絡がありました。対談をきっかけに始まったLINEのやり取りを報告するものでした。

【LINEのやり取り】

村上先生
福士さんの名前にある、「結」という字は、「素敵な出会い」「目標を達成する」と言う意味が含まれています。養護教諭よりいまの仕事に興味を感じていったのは、衣装等の「衣」、結衣さんの名前をつけた両親からの思いがあったからなのかもしれませんね。

福士さん
そうなんです。保育園の卒園文集のときに母が書いてくれていました。

福士さんが村上先生に伝えた卒園文集。そこに、亡くなった母・啓予さんはこんなメッセージを送っていました。

やさしく、おもいやりのあるこに、そだってほしいです。
いまはなき、そうそぼ(ひいおばあちゃん)が、
わさいを そして、そぼ(ばあちゃん)が、ようさいを、
ははのわたしは、せめて、むすめには、
とくいになってほしくて、結衣と、なづけました。
じぶんらしく、あなたらしく、
いっぽいっぽすすんでいってください。
こころもからだもけんこうでありますように!

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