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「かっちゃんがもし、遊びに来てなかったら…」 - わたし×親友【前編】-

東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」。
「家族」「生き方」「人生」…個人名が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

浅田 太一さん、19歳。東日本大震災の津波でシングルマザーだった母を亡くしました。当時は小学3年生、その後、震災がきっかけで引きこもりがちな生活を続けていました。
そんな浅田さんのことを気にかけていたのが、小学校来の親友である“かっちゃん”こと、田中 克弥さんでした。この春浅田さんは「自分と同じような境遇の子どもを支えたい」と社会福祉士を目指して仙台の大学に進学しました。孤独を抱えた日々、そしてこれからのこと…親友同士が語り合った記録です。

(盛岡放送局 記者 市毛裕史)

浅田 太一さん(19)
岩手県大槌町出身。震災前はシングルマザーとして保険会社で働いていた母の千賀子さんと姉、2人の妹の女性4人に囲まれて育つ。小学3年生で被災し、最愛の母・千賀子さん(当時28歳)を津波で亡くす。祖父母に引き取られるものの、母を亡くした こころの傷を抱え、中学1年の時に不登校に。その後、スクールソーシャルワーカーや家族の支えを受けて引きこもりから抜けだし、去年大学受験をして、晴れて仙台の大学に合格する。今は自分と同じような境遇の子どもを支援できる大人になりたいと、社会福祉士を目指して大学で学んでいる。

田中 克弥さん(19) 愛称 “かっちゃん”
岩手県大槌町出身。震災後に浅田さんが田中さんの家の近所に引っ越してきたのをきっかけに友達に。小中学校時代、浅田さんが学校に来ないときは家にまで行って声をかけ続けた。田中さんは浅田さんより1年先に仙台の専門学校へと進学。浅田さんの受験勉強も支えてくれた。

出会い、震災、そして…

中学生のころの2人  左:田中さん 右:浅田さん

日ごろから、2人で会うといくら話しても尽きないという浅田さんと田中さん。今回の対話の場でまず語り出したのは、出会った時のことでした。
2人の出会いは小学校4年生の頃。震災後、浅田さんが田中さんの家からほど近い祖父母の家に引っ越してきたことがきっかけでした。同じ学校に通い、クラスが違う時も通学バスではいつも隣の席に座り、ほとんど毎日放課後には一緒にゲームをするほどの仲良しになりました。

浅田

最初の時間さかのぼって、会うきっかけになったのは、まず震災があって小学校にみんなが来てからだね。

田中

最初の印象では、あんましゃべらない子だと思ってたよ、太一。 来た時もしゃべるような感じじゃなかったじゃん、ゲーム持ってて、静かにやってたぐらいだったから。

浅田

そうだね、最初、初めて話したのが、学校から帰ってきた時だよね。俺、まだ覚えてるよ。「知らん奴いるな、でも顔見たことあんな」って覚えてるわ。そこからだよね、かっちゃんが俺の家に朝、来るようになったのは。

田中

そこから太一も近所に住むようになって、一緒に学校へ行こうってなって、ずっと朝、毎朝行ってたね。ほとんど小学校の頃なんてさ、学校帰ってくれば、ほとんどのように毎日5時過ぎまで遊んでたよね。Wiiして。

浅田さんと母・千賀子さん

小学校時代の話で盛り上がる2人。話は、浅田さんが不登校になった中学校時代に及びます。母を亡くし、こころの傷を抱え続けた浅田さんは、小学校時代は保健室通いが多く、中学に入ると徐々に引きこもりがちになっていきました。
田中さんは浅田さんが学校に行くきっかけを作ろうと、毎朝浅田さんを起こしに家に出向いていました。しかし、田中さんも中学校に入学すると部活が忙しくなり、家に遊びに行く回数も減っていきました。その時の悩みについて初めて田中さんが口にしました。すると、浅田さんも引きこもり始めた当時の思いを明かしました。

浅田

中学1年生で学校に行かなくなって、でもそこで、かっちゃんがプリント届けに来てたよね。

田中

中学2年生からだったね。先生に頼まれて、「分かりました」って言って、その時に家に来ていた太一の伯母さんの生まれたばかりの子どもを見たんだよ。太一がいなかった期間で初めて行ったら、「生まれてる」ってなって、子守りしてた。なんで俺が、血繋がってない人の子どもを先にみるのかなって。

浅田

俺より先にね。

田中

そう。そこから部活が忙しいからって、なかなか俺も行けなかったじゃん。それで俺もね、なんか思ってたんだよね。「俺がやっぱり行けてなかったのが悪かったかな」とか。

浅田

いや、でもかっちゃんのせいではないでしょう。

田中

ずっとね、そこらへん考えてた。なんか忙しくて遊びに行けなかったなって。来ないのもなんか申し訳ないなって。「俺が行ってあげれば変わるかな」とか、ずっと考えてた。

浅田

まじで?どうだったろうな、あの頃は。今思えばでもあの頃結局、学校休みがちになってから、その伯母だとか、祖母とかと仲悪かったからさ。毎週のように喧嘩してた。反抗期的でもあるし。休むようになったから、やっぱ言われるじゃん。「(学校に)行きなさいよ」みたいな。

田中

「うるせえよ」みたいな。

浅田

でもね、あんまり言い返さなかったな。「はいはい」って言ってもう聞き流してたね。

田中

休んだ時って、大体何してた?俺、あんま詳しく確か聞かなかった。

浅田

うん。夕方まで、大体5時とか6時ぐらいに起きて、ご飯食べて、ゲームして寝るみたいな。もうご飯もだって、その時、俺1日1食しか食ってない。なんなら食わない日もあった。

田中

うそ?一回、太一に届けさ行くって、プリントとか。その時に(太一を)呼んだら、まだ寝てて。太一のおばあちゃんたちもいなくて「どうしよう」ってなってたのね。勝手に入るのもあれだなって思って。「太一、起きてくれ」ってずっと思っていた。

語れなかった“孤独”

浅田 太一さん

浅田さんはなかなか部屋から出られず、引きこもりはどんどん深刻になっていきます。誰も自分を理解してくれない――ゲームをしている時だけが心が安らぐ時間だったと言います。結果、1日12時間以上オンラインゲームをし、昼夜逆転の生活。1か月間、一歩も外に出ない時期もありました。
太一さんの子育てについて、里親の祖母の悩みが深刻になったことが理由で、児童相談所に浅田さんが一時預けられた時期もありました。その時期のことは、親友のかっちゃんにもなかなか語れずにきました。

浅田

体育祭とか近くなると、先生にも「来られない?」みたいに言われて。

田中

「途中からでもいいから」みたいな?

浅田

そうそう。俺もね、正直本番出るんだったら、練習しとかないと、本番多分厳しいなと思って。練習には何回かは行ってたな。ま、文化祭は出られんかったけどね。マジ、文化祭に出られなかったのは、俺は結構悔しかったな。そのとき、児童相談所に預けられてて。

田中

あの時期、不思議やったもんね。「あれ、最近までいた太一がいない?どこさ、いった?」って。さすがにさ、「太一どこに行ったんですか」って聞くにも聞けなくて。だからそっとして、深くは聞けなかった、あの時。

浅田

児童相談所に1週間、いたからね。いや、でもね、俺ね、案外そういう環境に慣れるのは早いからね。児童相談所にすぐは慣れたけど。でもね、行く前からわかってたけどね。児童相談所に行くぐらいで直るとは思わないけどなって。結局だって、生活習慣直したところで、行けるかっていう感じはあったからな、俺の中で。1週間行って、その後ね、1か月(児童相談所に)行きそうになったんだよね。

田中

そうなの?

浅田

中2の頃に、「今度は1週間じゃ駄目だから」って言って、盛岡の施設に預けて、同じような境遇の子どもたちが暮らしている施設に預けて、1か月転校するみたいな話だったんだよね。 先生も、クラスの人たちには「なんて言う?」みたいな。転校したことにするのか、休んでいることにするのか、1か月くらい来られない話にするのかって話したな。

田中

でも、結局行かなかったんだね。

浅田

結局行かなかった。もう俺、怖かったもん。俺が半べそかいて粘ったの。

田中 克弥さん

浅田さんはいまは饒舌に話していますが、田中さんによると中学時代は自らの思いを誰かと話すことはなかったといいます。田中さんも当時を振り返り、「もっと浅田さんと話しておけば…」と後悔する思いを抱えていました。

田中

その時から太一さあんま俺にも、悩みっていうかさ、自分の困っててみたいなのを全然打ち明けなかったじゃん。ずっとなんか自分で持ってるタイプだったね。本当に高校になってからだよね、表に出すっていうか、「こういうの困ってるんだよね」みたいなこと言うようになったの。正直だから、もっとね、頼ってもいいのになってずっと思ってた。

浅田

中学の頃はな、やっぱり味方がいないと思ってたからね、完全に。もう自分一人で勝手に考えて、もう何言われようと。

田中

隣にいるやん。

浅田

っていうね。かっちゃんからしたら多分、俺に何も話されてないって思っているけど、俺からしたら、かっちゃんには割と話しているほうだったよ、あの時。それこそ児童相談所の人が嫌いだっていう話、かっちゃんにしてたでしょ。俺からしたらあの時はもう精一杯かっちゃんに話してた。

田中

俺がそう思ってるだけか。あれが精一杯か…そうだな。

なぜ、扉を叩いたの?

お互いを思いやり、時に距離を置きながら接してきた2人。
「なぜかっちゃんは浅田さんの閉ざされた心の扉をたたき続けたのか――」
対話の合間に、2人をよく知る記者がかっちゃんにたずねてみました。

田中

やっぱり俺は知っていたから、太一のこれまでを。それを助けられたらなみたいな。そういう友達がいると助けられたら、役に立てたらなっていう気持ちがあったから俺はずっと続けてただけであったっていう。

浅田

いやあ、助かりました。でも本当にね、かっちゃんが週の終わりごろに来て、相談っていう相談はあんまりしていなかったにしても、かっちゃんと話す時間は俺の中じゃ安らぎの時間っていうか、気が楽な時間だったからね。

田中

あれだよな、結構俺が毎回帰るときに困ったことねえかって聞いてたじゃん。覚えてる?

浅田

ああ。言ってた言ってた。まあでもね、正直あの頃はやっぱなんだろうね、まだ子どもだったからさ、家のことでの悩み事を友達に話すっていうのは、こっ恥ずかしいじゃん。家のことじゃない悩み事は、かっちゃんになるべく話してたけどね。

田中

まあ他人、他人っつうか別に血が繋がっているわけじゃないしな。喋ったところでという思いもあるしね。

浅田

そういう話は結構かっちゃんにはしていたね。かっちゃんはたぶんね、もっと話してくれって感じだったから、たぶん少なく感じていただけで、俺からしたら割とかっちゃんには話していたなあって感じあったよ。

田中

それは悪いな。「もっとあるんだったら言っていいのにな」って思ってたから。 絶対(話したいことが)あるんだろうなって思ってたけど、まあそこは言わなかったけど。

浅田

かっちゃんがもし遊びに来てなかったらさ、文化祭だとかそういうとこに行ったときにかっちゃんがいるっていう安心感がないからさ、たぶん絶対参加してなかったと思うんだよね。

対談は《後編》に続きます

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